2010年11月14日日曜日

いじめられて自殺

例の桐生市の小学生の自殺は悲惨なものだ。
いじめられての自殺は、いじめと自殺の因果関係の問題になっているが、この関係性はあいまいなものでいくらでも言い逃れは出来るだろう。保身のために。
けれども、学校とはもともと生きる物語を提供する装置ではなかったのか、良くも悪くも。
そうやって、多くのこの日本社会を支える人材を作ってきたのではないか。悪くも悪くも。

その学校が、小学校が、生きる物語を提供するということを放棄してひとりの女の子を寄ってたかって死に追いやる。
いやいや、そこまでの認識もなかろう。
自分の知らぬところで死んでしまった小学校六年生の女の子。
そんな子どものことよりわが身が可愛いか。

それはそうかもしれない。
そのようにあなたたちは教育されてきたのだから。

何度も繰り返してきたが、生きることに意味はない。
したがって、おのおのに生きることを意味づける物語が必要となる。
その手助けをするのが学校だろう。
(そのあげくこの社会の再生産のためにとんでもないストーリーを学校教育は刷り込んでいくのだが…)

まあ、それでも自殺に追い込むよりはよいだろう。
刷り込まれた物語は、自ら放棄することも出来る。

最低限の要求をしているあの娘の親御さんたちに知らぬ存ぜぬはないだろう。
せめて自ら命を絶つくらいの謝罪をするのが筋というものだろう。

桐生の事件は、明らかに犯罪だ。
それも制度的な犯罪で、それ故に罰せられることからは逃れられる。

状況は、至る所で破綻している。

たまたまそこに咲いた美しい物語によって生きている人たちがそこかしこに存在するだけだ。

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