相撲における八百長
以下は、藤原新也さんの文章です。
(またぞろしゃべっている相撲を少しも理解しないマスコミの人間たち。
そのチンケな様に反吐が出ます。…とんぼ発言)
所用で青森に行った。
北国の雪景色を見ていると大相撲が八百長問題で揺れていることもあって、ふと青森県弘前市出身の先代若乃花のことが頭を過ぎる。
私の家は門司港で旅館をやっていた関係で子供のころ巡業の力士が泊まった。私の旅館はだいたい花籠部屋を割り当てられていた関係で先代の若乃花も泊まった。若の海や髭の行事式守伊之助などとは親交も出来た。
若乃花がそのころ幕の内のどの地位にあったかは記憶にないが、彼に関してはある鮮烈な思い出がある。巡業の稽古土俵で他の力士と稽古しているときに、相手が張り手を食らわせ、若乃花の歯が折れたのである。
昔は巡業の稽古でも手加減はせず、ずいぶん激しかった。歯の折れた若乃花はその一番を終えると土俵際に行って口に含んだままの折れた歯を血糊といっしょに樽の中に吐き出した。そしてまた何事もなかったように次の一番に挑んだ。私は呆然とその光景を見ていた。
平成時代のお坊ちゃん相撲では考えられない光景ではある。
それより驚いたことはその翌日土俵上で張り手を食らわした力士が他の力士といっしょに私の旅館にやってきて若乃花らと同じ鍋のちゃんこをつつき、楽しそうに歓談していたということである。
子供の私の目には激しい喧嘩をしたかに見えたその両者がまるで兄弟のように振舞っていることが不思議でならなかった。
青森の雪景色を見ながらそんな思い出がよみがえり、それとともに昨今の大相撲の八百長騒ぎに思いが及ぶ。
この大騒ぎ。昔から大相撲に馴染み、毎年のごとく巡業を迎え入れていた私のような者の目からするなら、大相撲をあたかも詐欺集団のように見なす平成という時代のマスコミや大衆意識に時代の流れというものを感じざるを得ない。
私は大相撲とは純粋な意味のスポーツではないと思っている。
かつて貧しい時代の地方の農家の次男坊などが口減らしのためにしばしば大相撲に入門したということが示しているように、それは同じ命運を持つ者同士が寄り集まった新たな村社会でもあった。
彼らは運命共同体として相撲協会会長(昔は理事長とは呼ばなかったように思う)の元に結束し、興行を行い、娯楽のない時代の民衆をおおいに楽しませたのである。
そんな大相撲の巡業は子供の私の目に同じようにのぼりを立てて興行を行う運命共同体である地方巡業の大衆演劇と同じように映っていたものだ。
演劇とまでは行かないがそういった含みを大相撲は持っていたように思うのである。
地方巡業には必ず出てくるショッキリ(コミック相撲)や巡業で披露される手拍子やあーどすこい、あーどすこいという合いの手の入る七五調の囃子歌である相撲甚句などはまさに”芸能”そのものであった。その七五調の囃子歌には男女関係のくすぐったい歌や人を笑わせるような社会風刺もあった。
大相撲の真骨頂は本場所ではなく地方巡業にこそあったのだ。そこでは真剣勝負は100番あって数番程度だった。それでも十分面白かった。みな演技力を発揮したからだ。相撲とはそういうスポーツなのである。
そんな私の大相撲に対する経験からするとこういった運命共同体の中で人情や人間関係の按配が発生しない方が不思議であり、いや逆にその按配によってこそ共同体は維持されているのではないかとさえ思う。
そして昔の大相撲の観客はそういった意識をも加味して大相撲を楽しんでいた。
今でも思い出すのだが、私の家と親交のあった男前の若の海がある場所七勝七敗で千秋楽を迎えた時、相手の力士はなかなかの演技力を発揮して若の海に星をひとつ貸した。私の母は負けてくれた相手側の力士を、やっぱり優しい男やったと讃えたものである。
ちなみに私の母は頼母子講に出かけるのを楽しみにしていた。
頼母子講とは親(主謀者)を中心に気心の知れた仲間が寄り集まってお金を積み立て、入札によって金要りの人に金を用立てる運命共同体である。
大相撲のように皆でいっしょに食事を楽しむこともあれば旅行にも出かけていた。ときおり大相撲は半ばその頼母子講とも似ていると思うこともある。小泉政権下の構造改革もあって昨今は日本人の共同体意識が崩れ、非常に冷たい社会になったが、昔の社会はいわばゆるーい「頼母子講的社会」であったという言い方も出来ないこともない。大相撲の力士はそういった社会的環境の中に存在していた”ゆるキャラちゃん”たちだったのだ。
子供の私などは勝負はしなくともそこにお相撲さんがいるということだけで癒されたものだ。
大相撲は按配相撲もあったが当然真剣勝負もある。
真剣勝負もあれば人情の絡んだ按配相撲もある。
それを見越して昔の観客は大相撲を楽しんでいたということだ。そこには人間世界の矛盾を許す寛容や人間的なふくらみというものもあった。
大金の絡んだ平成の大相撲の“按配相撲”と星の貸し借りという昔のそれを同列に比べることは出来ないかも知れないが、大相撲の不幸はフェアープレー精神や勝つか負けるかの勝敗のみが価値を決定づける近代スポーツがこの日本に定着し、その一視点からしかスポーツを観戦できなくなってしまった平成の民の心の狭量とも無関係ではないように思える。
(またぞろしゃべっている相撲を少しも理解しないマスコミの人間たち。
そのチンケな様に反吐が出ます。…とんぼ発言)
所用で青森に行った。
北国の雪景色を見ていると大相撲が八百長問題で揺れていることもあって、ふと青森県弘前市出身の先代若乃花のことが頭を過ぎる。
私の家は門司港で旅館をやっていた関係で子供のころ巡業の力士が泊まった。私の旅館はだいたい花籠部屋を割り当てられていた関係で先代の若乃花も泊まった。若の海や髭の行事式守伊之助などとは親交も出来た。
若乃花がそのころ幕の内のどの地位にあったかは記憶にないが、彼に関してはある鮮烈な思い出がある。巡業の稽古土俵で他の力士と稽古しているときに、相手が張り手を食らわせ、若乃花の歯が折れたのである。
昔は巡業の稽古でも手加減はせず、ずいぶん激しかった。歯の折れた若乃花はその一番を終えると土俵際に行って口に含んだままの折れた歯を血糊といっしょに樽の中に吐き出した。そしてまた何事もなかったように次の一番に挑んだ。私は呆然とその光景を見ていた。
平成時代のお坊ちゃん相撲では考えられない光景ではある。
それより驚いたことはその翌日土俵上で張り手を食らわした力士が他の力士といっしょに私の旅館にやってきて若乃花らと同じ鍋のちゃんこをつつき、楽しそうに歓談していたということである。
子供の私の目には激しい喧嘩をしたかに見えたその両者がまるで兄弟のように振舞っていることが不思議でならなかった。
青森の雪景色を見ながらそんな思い出がよみがえり、それとともに昨今の大相撲の八百長騒ぎに思いが及ぶ。
この大騒ぎ。昔から大相撲に馴染み、毎年のごとく巡業を迎え入れていた私のような者の目からするなら、大相撲をあたかも詐欺集団のように見なす平成という時代のマスコミや大衆意識に時代の流れというものを感じざるを得ない。
私は大相撲とは純粋な意味のスポーツではないと思っている。
かつて貧しい時代の地方の農家の次男坊などが口減らしのためにしばしば大相撲に入門したということが示しているように、それは同じ命運を持つ者同士が寄り集まった新たな村社会でもあった。
彼らは運命共同体として相撲協会会長(昔は理事長とは呼ばなかったように思う)の元に結束し、興行を行い、娯楽のない時代の民衆をおおいに楽しませたのである。
そんな大相撲の巡業は子供の私の目に同じようにのぼりを立てて興行を行う運命共同体である地方巡業の大衆演劇と同じように映っていたものだ。
演劇とまでは行かないがそういった含みを大相撲は持っていたように思うのである。
地方巡業には必ず出てくるショッキリ(コミック相撲)や巡業で披露される手拍子やあーどすこい、あーどすこいという合いの手の入る七五調の囃子歌である相撲甚句などはまさに”芸能”そのものであった。その七五調の囃子歌には男女関係のくすぐったい歌や人を笑わせるような社会風刺もあった。
大相撲の真骨頂は本場所ではなく地方巡業にこそあったのだ。そこでは真剣勝負は100番あって数番程度だった。それでも十分面白かった。みな演技力を発揮したからだ。相撲とはそういうスポーツなのである。
そんな私の大相撲に対する経験からするとこういった運命共同体の中で人情や人間関係の按配が発生しない方が不思議であり、いや逆にその按配によってこそ共同体は維持されているのではないかとさえ思う。
そして昔の大相撲の観客はそういった意識をも加味して大相撲を楽しんでいた。
今でも思い出すのだが、私の家と親交のあった男前の若の海がある場所七勝七敗で千秋楽を迎えた時、相手の力士はなかなかの演技力を発揮して若の海に星をひとつ貸した。私の母は負けてくれた相手側の力士を、やっぱり優しい男やったと讃えたものである。
ちなみに私の母は頼母子講に出かけるのを楽しみにしていた。
頼母子講とは親(主謀者)を中心に気心の知れた仲間が寄り集まってお金を積み立て、入札によって金要りの人に金を用立てる運命共同体である。
大相撲のように皆でいっしょに食事を楽しむこともあれば旅行にも出かけていた。ときおり大相撲は半ばその頼母子講とも似ていると思うこともある。小泉政権下の構造改革もあって昨今は日本人の共同体意識が崩れ、非常に冷たい社会になったが、昔の社会はいわばゆるーい「頼母子講的社会」であったという言い方も出来ないこともない。大相撲の力士はそういった社会的環境の中に存在していた”ゆるキャラちゃん”たちだったのだ。
子供の私などは勝負はしなくともそこにお相撲さんがいるということだけで癒されたものだ。
大相撲は按配相撲もあったが当然真剣勝負もある。
真剣勝負もあれば人情の絡んだ按配相撲もある。
それを見越して昔の観客は大相撲を楽しんでいたということだ。そこには人間世界の矛盾を許す寛容や人間的なふくらみというものもあった。
大金の絡んだ平成の大相撲の“按配相撲”と星の貸し借りという昔のそれを同列に比べることは出来ないかも知れないが、大相撲の不幸はフェアープレー精神や勝つか負けるかの勝敗のみが価値を決定づける近代スポーツがこの日本に定着し、その一視点からしかスポーツを観戦できなくなってしまった平成の民の心の狭量とも無関係ではないように思える。
ラベル: 社会
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