2011年4月9日土曜日

原発職員がこぼした本音、略奪を踏みとどまらせた被災者の心








以下、「日刊サイゾー」より

原発施設から30キロ以上離れているために「避難勧告」も「屋内待機指示」も出されず、情報も移動手段もない中で、過酷な自己決断を迫られている住民の苦悩については既報の通り
(記事参照…http://www.cyzo.com/2011/03/post_6915.html)。

 80歳の女性が被災後も営業を続ける乾物屋さんを後にし、県道352号線(豊間―四倉線)をさらに北上する。ほどなく国道6号線「越前浜街道」と合流し、道の駅やホームセンターなどが「あった」同町3~5丁目のエリアへ。地震が起こるまで観光客や地域住民のくつろぎの場だった「道の駅 よつくら港」は爆撃を受けたかのように破壊され、大型ホームセンターも見るも無残な姿を晒している。

 国道を挟んだ民家の前には乗用車が不可思議に重なりあい、壁に突き刺ささるように車体を横たえている。ニュース映像で惨状は散々見せつけられてきたはずだが、皮膚感覚で見る現場の空気に言葉を失う。



道の駅「よつくら港」付近にて。乗用車が折り重なり、住宅に突き刺さる。非日常的な光景が一面に広がり、現実感が薄れてくる。 民家の片付け作業していた一人の男性と立ち話になる。聞けば、偶然にも(?)福島原発の関係者だという。同原発を管理しているのは言うまでもなく東京電力。だが、実際に現場に携わっているのは東芝、日立、IHIといったいわゆる「協力会社」と、その下請け、孫請け業者である。男性はそのうちの一社に約20年以上の期間を勤務(本人の希望で社名は伏せる)。地震発生時は広野火力発電所で作業の真っ最中だったが、敷地内の高台に避難して職員全員が命をとりとめた。男性の住居は四倉町ではないものの、この日は知人の家の片づけを手伝いにきたのだという。

「俺自身、20年以上原発で働いてきたから、安全管理がしっかりしていれば放射線なんて全然怖くないという気持ちがあった。けど、今回のことでその根本が崩れたわけで......。いや、崩れたと言っちゃダメなんだろうけど......。とにかく、原発にはこれから猛烈な逆風が吹くと思う。なにより、第一(福島第一原子力発電所)のプラント復旧を急がないとならない。現場で命がけで戦っている仲間たちの無事を祈るしかないよ」


横転する車に道をふさがれて呆然とたたずむ男性。いわき市四倉町にて。
片づけをしていた主婦は「4台の車が全部流された」と肩を落とす。自宅前に山のように積まれた廃材やがれきを見ながら「明日、燃えないゴミの日だな」と独り言を言った。 津波の勢いで破壊されたホームセンターを覗いていると、一人の男性が早足で近づいてくる。すわ、"火事場泥棒"と間違われたか? が、男性は笑顔でこう言った。

「○○○(ホームセンターの名)の方ですか?」

 近所に住んでいて家が流されたというその男性は、まだ使える物資が店内にありそうなので、ホームセンター側に許可を得たうえで一部を譲ってもらえないかと考えていたという。本社に電話で聞こうとしたが通じず、そのうち携帯のバッテリーも切れてしまった。こうした極限状態でも、この男性は「お店の許しを得て」と考えているのだ。自分が男性の立場だったらどうするだろうかと、自問してみるが答えが浮かばない。

「避難所でニュース見てると、『日本人は略奪もしないで冷静だ』と海外に報道されているらしいじゃないですか。だから、自分がそれ(黙って持ち去る)やっちゃダメなのかなと思って......(笑)。でも、これ、このまま放置しておくのももったいないし......」


津波に襲われたホームセンターの惨状。 県内でも被害の多かった同地区では、福島県警広域緊急援助隊や地元消防団らが、地震の三日後から海岸近くで行方不明者の捜索を行った。男性の家族は幸いにも全員が生き延びたが、近所の知り合いの遺体がこの近くで見つかったという。疲れきった口調で男性がつぶやく。

「命だけでも助かってよかったと思う気持ちが半分、何もかもなくなってこれからどうやって生きていけばいいかとも思うのが半分。そもそも、ここは国が逃げろと言わないから安全ってことなんですかね? 30キロより離れていれば、放射能は大丈夫なんでしょうか。何もかもわからないですよ」


国道6号線は明不作(みょうふさく)地区から福島第二原発20キロ圏内に入るため立入り禁止区域になっている。防護服に身を固めた警官が常駐している。(文=浮島さとし)

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