2011年6月12日日曜日

地獄は一定すみかぞかし

親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。
念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。
そのゆえは、自余の行もはげみて、仏になるべかりける身が、念仏をもうして、地獄にもおちてそうらわばこそ、すかされたてまつりて、という後悔もそうらわめ。いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。

東電や政府、マスコミを信用する人の中に、上記の心根の存在は考えがたく、猪口才な処世のみ目立つ。
一方、軽くは見えても昨日の各地のパレードには、今の世の心意気が感じられ、うれしく思いました。

その中で、神戸の会にての小出先生のいつもの発言に、心震えます。

「電力は、原発を止めたからといって、不足しません」
「けれども、問題はそんなところにはないのです。
 たとえ電気が不足しようが、不足しなかろうが、原発は要らないのです」

これが、脱原発の心意気というものでしょう。

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