2011年4月21日木曜日

徳田毅さんによれば

避難区域の苦悩
遅くなりましたが、15日の報告です。

朝6時30分からTMATの出発式、8時から仙台徳洲会病院の朝礼に出席後、

車で移動し、福島県立医科大学を訪問。

大学病院内に設置されている原発対策本部で、

原発被災者及び原発対策従事者に対する除染室や処置室を視察。

その後、南相馬市へ向かう。

津波により死者456人、行方不明者1018名を出した被災現場を視察。

津波に飲み込まれ100人以上の犠牲者を出した特別養護老人ホームで手を合わせ、ご冥福をお祈りする。

南相馬市立総合病院の及川友好副院長を訪ねた。

及川副院長は原発事故後、南相馬市が国からの自主避難、屋内待機の指示を受けてからも、

一日も病院から離れることなく医療を続けている。

顔色が異常に黄色く疲労が極限に達していることがすぐに見てとれる。.

そして短い時間であったが、南相馬市が置かれている極めて過酷な現実を話して下さった。

原発事故後、この地域は自主避難、屋内待機だけではなく、

病院や福祉施設においては入院及び施設利用者を30㎞圏外に出すという国の指示を受けた。

人口約7万人の南相馬市の住民は一時1万人ほどにまで減ったが、

多くの住民が地域に戻り始め、現在は約3万人くらいが生活をしている。

住民が地域に戻り、街は動き出したことから医療のニーズが高まっており、

病院の外来には多くの患者さんが来られるが、

医師、看護師、スタッフが大幅に減ってしまったことからパンク状態になっている。

残念ながら、この地域が原発から30キロ圏内であることから、

応援の医療関係者からも敬遠されており、県や国からも派遣されていない。

そして、新たに計画的避難区域に指定されたことから、

現在も重症患者さんの入院が認められておらず、

その上、緊急避難地域ではドクターヘリが飛行禁止になっている。

何故、救急車はよくてドクターヘリは駄目なのか、私にも理解が出来なかった。

そして政府がこの地域を計画的避難区域に指定をして入院を認めないのであれば、

30キロ圏から出来るだけ近くに入院患者を引き受ける拠点病院を設置してほしいと強く望まれていた。

そして及川副院長の話から驚愕の事実を知る。

3月12日の一度目の水素爆発の際、2㎞離れた双葉町まで破片や小石が飛んできたという。

そしてその爆発直後、原発の周辺から病院へ逃れてきた人々の放射線量を調べたところ、

十数人の人が10万cpmを超えガイガーカウンターが振り切れていたという。

それは衣服や乗用車に付着した放射性物質により二次被曝するほどの高い数値だ。

しかし、そこまで深刻な状況だったとは政府から発表されていない。

病院に立ち寄ることなく、被ばくしたことも知らずに、家に帰って子供を抱きしめた人もいたかもしれない。

そこで爆発から2時間後の枝野官房長官の会見を読み直してみた。

水素爆発は起こったが、格納容器が破損していないことを確認した。

従って原子炉格納容器内の爆発ではないことから、放射線物質が大量に漏れ出すものではない、と述べている。

13日での会見では、バスにより避難した双葉町の住民の皆さんのうち、9名が測定の結果、被ばくの可能性があることを発表した。

この9名のうち4名の方が少ない方で1800cpm、多い方で40000cpmの数値。

その上で専門家の判断によると、こうしたものが表面に付いているという状況に留まるならば、健康に大きな被害はない、とも述べている。

南相馬市立総合病院で確認されているだけでも十数人が高い数値を示していた深刻な状況が、

政府には情報として上がっていなかったのだろうか。

もし情報が上がっていなかったとしたら、官邸の情報収集能力と危機管理の観点から問題であり、

情報が上がっていたのに意図的に正確な情報を伝えなかったのであれば、、

それは政府による情報操作であり、犯罪に近い行為と言える。

南相馬市に対し政府が自主避難、屋内退避と中途半端な指示をした結果、

物資が完全に途絶え、完全に孤立。

その上、人々の生活や医療支援などについて何の手だても尽くさなかったことから深刻な混乱を招いた。

その混乱は震災から一カ月以上経った今も続いている。

(誤解を招く表現があったことから一部訂正させて頂きました。お詫び申し上げます。)

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