2011年5月30日月曜日

歳を食むことで

歳を食むことで身についたものといえば、人を見抜く力だけかもしれない。

人を見抜く力などと大きく言ってはみるものの、なに、たいしたことはない。
その人とわたしとの関係性においてのことに限るわけですから。

わたしが見抜けるようになったのは、わたしのことを大切に思ってくれているかどうかということと、わたしが相手を大切に思っていることが相手に届いているかどうかということだけです。

わたしを大切に思っていてくれる人は、近くに二人います。
一人の男とひとりの女です。

ありがたくて涙が出てきます。
そして、彼らにわたしの愛は曲がりなりにも届いています。

この愛情関係を作るのに10年以上費やしています。

わたしが、被災者に対して自分には何もできないのだと思うとき、そこには、わたしの人間への不信感かあるいは不在感が漂います。

わたしは見ず知らずの誰かを思いやる力を持ちません。
義捐金などというものを信用しません。

わたしの愛する人が、被災者のひとりならば動けると思います。
そうではないのに、わたしに、なぜ、空々しく「ガンバレ、日本!」などと言えますか。
見知らぬ誰かに暖かい声をかけられますか。

残念ながら、わたしにはその力はありません。

被災者がかわいそうだと思うがごとく、被災していないあなたをかわいそうだと思うのが、わたしです。

わたしは、多くの人に接してきましたが、たいしたものではありません、人間なんぞ。
この人はと思う人は、片手で足りるのではないでしょうか。

そういう中で、わたしは、信頼するに足る人を身近に二人、距離を抜きにすれば、あと二人。
個人的に敬愛すべき人を三人持っております。

何を隠そう、これがわたしの、嘘偽りのない人生の収支決済です。

そして、その数をわたしは、いま、増やそうとはしていません。

もう、新しい出会いなどたくさんなのですよ。
それでも、という人にだけ会っていこうと思います。

いい人なんて、めったに会えるものではありません。

あなたが、信頼すべき人を持っているとしいたら、大事にしなさいね。
そして、だめだと思ったら、別れなさいね。

そのようにして、付き合う人は残っていくのだと思います。

わたしには、見えない被災者を思わせぶりに嘆き悲しむ力はありませんが、それでも怒りはわきます。
ただ、それがおざなりなものなのだろうということで、おおっぴらに口にしないだけです。

わたしが、個人的に幸せになってほしい人は、そう多くはないのです。

残念ながら、実に器の小さな男なのです。

ただ、情報は、今後とも流させていただきます。

やま本とんぼ

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