2012年1月12日木曜日

いろいろご批判もありましょうが

http://kiikochan.blog136.fc2.com/blog-entry-1379.html

情報は開示していきましょう、というのがわたしの姿勢であり、情報を囲い込むのが権力の大きな特質であることを思えば、上記のブログも是非目にしていただきたいものです。
情報を、それがわたくし的なものでなければ、それは公にしてほしいというのがわたしの思いです。
そのことで、あまり論争はしたくないし、権力は情報を隠蔽することをその第一の特質とします。

わたしのことであれば、すべてをさらけだしたいというのが、わたしの密やかな願望です。
その点では、作品の評価は別として、西村賢太の自分の作品に対する反省に強く同調します。
その分、大きく生きにくくはなりますが、「いじめ」や大きくは国家権力のありようを見れば情報の扱い方はとても大切な問題だと思います。

わたしは、とても弱い一個の人間ですので、この姿勢だけは貫きます。
ご迷惑をおかけしている方には、平身低頭おわびいたします。

これが、わたくしです。

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2011年12月9日金曜日

年末です

生き抜くための物語はしっかりとお作りですか?

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2011年9月26日月曜日

上戸彩


上戸彩にも寿命が来た。
もちろん、わたしは彼女と付き合っていないのだから、この寿命は短いとしたものだ。
それでも、上戸という女の子はなかなかに魅力的で空間現出力に長けていたと思う。
けれども、いまは、その力が落ち始めている。

コレは、わたしが感じているもので、ほかのかたは自由に彼女のファンであり続ければいい。
わたしだけが、空間現出力を判断しているに過ぎない。
それも、あったこともない幼い娘に対してである。

わたしにとって上戸はたまたま空間現出力を持っていたと言わねばなるまい。
上戸以外にはいないかというとそうではない。

実際に会い、話し、歩き、手を握る中には空間現出力を持った人もいたし、今もいる。
空間現出力は、いわば、たまたまのものですが、それを守るには意思がいる。

どうやって守るかは、自分でトライ アンド エラー するしかないだろう。
その経験知は、いくつかの言葉になって残っている。

これからは、ぼちぼちとそういう話をしていきたいと思っています。

ふと今思うのは、空間を二人の間が現出するのはそう簡単な話ではなく、とても大切にその力を扱ったほうがいいということです。
では、どうやって、と問われるところですが、それはご自分でお考えください。

この問題を考えなくてもいい人は、とても幸せな人だと思います。

しばらくブログを書かなかったのは上戸のためではありません。
もっと近々なことのためです。
生きていくのは、本当に疎ましい。

あのカポーのように生きながらえている人間もいるというのに。

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2011年8月31日水曜日

本格的な自分との出会い

仲間と愉快に時を過ごしていけるのならば、それほどいいことはない。
わたしには、そう思える。

できれば、本格的な自分との出会いなどないにこしたことはない。
致し方なく自分に出会う人はいるが、その人に共感は覚えるけれども、同時に不幸も感じる。

人が自分に出会うためには、高度に孤独である必要があるからだ。

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2011年8月28日日曜日

それでも空間

空間には本質的な意味はないと書いた。
けれども形骸化されたものほど尊ばれる世の中。

たとえ、そこに意味はなくとも恋人と呼ばれていたい、家庭と呼ばれていたい、愛と呼ばれていたい。
仲間という空間は、それほど単純なものではない。

そうでしょう?

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2011年8月27日土曜日

空間と家

家があれば空間が成立するかといえば、それは直結してはいない。
ただし、家は、広く居場所は、空間の礎だし、楔でもありうる。
人が関係性をもち空間を形成しはじめるとき、家をイメージするのはそのためである。

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2011年8月22日月曜日

仲間

生きるためには仲間がいたほうが便利だろう。
ずっと前は、まさに生き抜くために仲間を形成していたと思う。
そういうグループが統合されたり分裂したりして事は成り立っていたのだろう。
出来れば話を大きくしたくはない。

一つの仲間があって、幸せに、生きる意味など考慮することもなく暮らしていた。
それでよかった。
なかなか仲間を作れない者もその仲間の端に加えてもらえたかもしれない。
けれども、そういう単調な毎日を嫌った奴もいたのだろう。
定常状態を好まぬやからはあちこちにいる。
その結果、温度差のあるグループが出来上がったとする。

となると生きにくさを避けるために集まった仲間をいやな風に感じ出す。
そういう人間も出てくる。

ここらあたりから個人的な問題が生じるのだろうとわたしは思う。

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2011年8月20日土曜日

町で生きる人々

「町で生きる人々」という表現は「田舎で生きる人々」としてもいいし、「日々生きる人々」としてもいい。
そういう人たちと交流させていただいていると生きる意味などということはどこ吹く風。
生きている人々は「生きる意味」などというつまらないことに拘泥しない。
ただ今日と同じ明日の来ることを信じきって笑っておられる。

そういうものなのだなあと思う。

生きやすくするために仲間を作り、それが徒党となり、…の結果人を生きにくくしているのだとしたらこの日本が持っているその問題は大きい。
そもそも「生きる意味」を俎上に上げなければならないこと事態、たまらなく不幸なことだと思える。

人は生きるために当然のように仲間を作り、日々を暮らしてきた。
それを何が妨害したかが問題になるのではないかとわたしは思う。

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2011年8月19日金曜日

仲間

一人でいるより仲間がいたほうが生きやすいけれど、それが、自分を生きることと重なるかどうかはわかりません。
少し前から「KY」などというくだらない言葉が蔓延ってきていますし、仲間を維持するために自分よりその場の空気を保つというやり方にわたしはあほらしさを感じます。
このあほらしさは原発村にもあるのでしょうねえ。

一人では生きにくいが、自分をなくしてまで仲間を作るのもねえ。
ややこしい話になっていきそうです。

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2011年8月17日水曜日

仮設住宅拒否

仮設住宅拒否にも一人では生きにくい人間の側面が出ているようでやるせないです。
もともと生きること自体にそれほど正義がないと言い切ってしまっては身も蓋もないので(最初から生きることがどうのこうのなど考えなければいいだけのことなので)ここは何とか生きるためにはということで、仲間を作ることをやはりお薦めしたい。
確かに、ネコや犬や…いやいやそれほどはっきりと動かなくても植物を育てていても十分仲間として機能してくれる。
実際わたしが初夏に買って庭先に植えたシソとバジルの元気のよさはわたしの生きる支えになってくれたりもしている。
庭先のシソやバジルがともに生きる仲間たちだと書けばなにやら頼りない気もするが、そのように感じることがあるのだからここに書きつけておきたい。

けれども、仲間とするならやはり人間のほうがいいかなと思うこともあり、人間の仲間をみつけようと思い立つこともあるが人間にはやっかいなところもあってあまり近づきたくない思いもある。
それでも一人では生きにくいのだから何とか仲間を探すことを考えてみたいのだが、さてどうしたものだろうか。

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2011年8月16日火曜日

一人では生きにくい

人間は何人か寄れば、それなりに愉快に過ごすことはできる。
一方、一人で生きるのは、なかなかに大変なもので出来れば仲間を造ったほうがいい。
このとき仲間と呼ぶのは、こと人間に限ったことではない。
何か好きなものを持ちなさいというのは、そういう生きるうえでの術だと今のわたしは思っています。

好きなものが映画であろうが、AKBであろうが、将棋であろうが、野球であろうが、…構いはしない。
また、その対象が社会的に見てどうであろうが、他の誰かが見てどうであろうが、それも構いはしない。
何かを好きであるということ、そしてその好きであることの周りに仲間がいることは随分生きるうえでの困難を取り除いてくれるだろう。
それは、一人で生きていくことを考えれば天と地の差がある。

しかし、この話はそれで終わりという話ではなく、さらに色々と考えなければならないことを呼び覚ます。

けれども、最もシンプルなところでは、その最初に人はそのように何かを頼って生きていくほうが生きやすいだろうということを納得しておきたい。

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2011年8月15日月曜日

お盆の日にあちこち歩いてみたのだが

歩いている人との出会いはまったくの他人であっても悪くない感じがすることがままあるものだが、どこかにとどまっている人、それは飲み屋であれやこれやしゃべりながら飲んでいてそのあれやこれやがつまらない話題だったりすると顕著なのだが、ほとんどこれといった人との出会いはない。

とどまっている人間にはとどまった自分を肯定しようとする意思が知らず知らずに働いていて、そういった人々の集まる場所自体の意思もそのまま自己停滞肯定に染まっているように感じる。

人は変わることのほうが健全だと思う今日この頃です。

変わるための原動力の大きなものに「不安」があり、この「不安」を解消するには今よりの変化と今の自分への自己肯定しかないだろうから、変化に向かう人間にとって自己肯定に流れる諸君は体に悪い。
体に悪いというのは一緒にいて実際に体が悪くなるという意味です。

変わりつつあるあなたの変わらない部分を信じてつき合ってくれる人がいるといいですね。

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2011年7月26日火曜日

スランプなどは誰にもあるもので

志を持った人間にはスランプなどは誰にでもあるものでその都度驚いていたのではきりがない。
スランプかなと思えば、すぐさま深刻さから離れ日常を取り戻すことが肝要であると思っています。

ですから、そんな困った状況になったときのために、あらかじめ意識された日常を形成しておくことは思わぬ戦力になってくれることがあるものです。
その後の作業は、少し厄介で身についた日常を行使しながら、その日常の中で柔軟に工夫して動くことです。

そのうちに身と心のこわばりはいずれほぐれてきます。

日常を作っていくという運動と今自分のもつ日常の中での創意工夫。
小さいことですが、そのような作業だけがふと安心な時間を与えてくれるようです。

夏バテと重なり日常が不安定になるこの時期、お気をつけください。

蛇足ですが、わたしは「ガンバレ」ということばを嫌いますが、「一生懸命」ということばを好みます。
つきつめれば、対象は私事ですから。

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2011年7月20日水曜日

大人女子

「大人女子」という言葉があるそうで、この場合、自分は女の子だと思っている意識があるのでまだいいかなと思ったりもします。
これは、「大人女子」を30歳40歳になっても自分のことを女の子だと思っている女性と理解してのことですが、まさかきちんと意識もせずに30歳近くになって、自分は大人だと自己認識しながら精神的には女の子だったりするのではないのでしょうね。
それだと、とても困るんです。

まあ、そうは言うものの一方の男たちを見れば、これはもうハッキリといい歳をした大人男子が多く、それもまるっきり精神性の低い男の子そのままだというのが大半を占めます。
そういう大人男子がまさに大人顔をして色々と説教をたれるのは、聞いていて、聞いている自分が情けなくなります。

そういう意味でも小出さんは大人だし、なでしこジャパンの佐々木則夫監督もなかなかに大人で頼もしい。
そういう子どもっぽい大人の佐々木監督を慕うなでしこのメンバーも子どもっぽい大人の女性で頼もしい。

大人になるという作業は残念ながら大人を見ることでしか達成できないわけで、子どもの中でいくらがんばったところで人は相変わらず子どものままでいるよりしかたない。

「ああ、そうか、これが大人か」
と実際に大人を見て、思い知らされることでしか人は大人になっていくことができない。

というわけで昨今はガキが満ち溢れているのですが、このガキというものは、まことにうざったいもので、しばしば勘弁してくれと叫びたくなることもある。

この場合の「ガキ」は、もちろん年齢に関係はない。

今の時代の不幸は圧倒的に大人が少ないことで、そこから必然的に大人へのメタモルフォーゼは困難となる。
自分がいまだに子どもだとしっかりと認識しているうちはまだ対処のしようがあるが、自分が大人だと思っている精神性の低いガキは、いかんともしようがないものです。

…で、「大人女子」とは、本当のところは奈辺に位置するのでありましょうや?

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2011年7月19日火曜日

予想通りというか、それ以上に

「なでしこJAPAN」に対しての報道が愚劣なので、触れないつもりでしたが、少しだけ触れさせてください。

「なでしこJAPAN」の快挙に対しては、「おめでとう」と讃えるのではないですか。
どこらへんから『勇気』や『元気』をもらったという間違った認識が出てくるのですか。

「ありがとう」もおかしいでしょう。
「よかったね、沢さん」ということです。

傍観者だからすぐにくだらん事を思いつく。
「なでしこJAPAN」の快挙は「勇気づけたり」「元気づけたり」はしてくれますが、何ももたない人に「勇気」や「元気」をくれません。

なんとまあ安直な報道だこと。
どうせすぐに忘れるのだろうけれど…

いつも部外者なのだね、哀しい報道だね。

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2011年7月18日月曜日

なでしこ日本優勝

なでしこのワールドカップでの優勝はすばらしかった。

これで、しばらくは、日本の間の抜けたマスコミたちはなでしこで大騒ぎだろう。

けれども、この優勝は喜ばしきことであるが、今の日本の現状とは無関係です。
なかには勇気付けられる人も数少なくいるだろうが、それは勇気付けられるその人の中に勇気があったからで、なしこが優勝しようが負けようが、自分の中に勇気のない人に何の変化も起こらない。

なでしこは、素晴らしい努力の結果、その精神と技術で優勝した。
そういう事実があっただけです。

この事実は、放射線量を下げない。
いやなことを言うようだが、これくらい書いておかなければ、これからのマスコミの狂乱振りに頭が痛くなるのに耐え切れません。

この活躍に少しでもうれしさを持つ人々に文句はありませんが、それが万能の力にはなりません。
もし、あなたがわたしもがんばろうと思うなら、発進していけばいいと思う。
すべては、なでしこの活躍に刺激されたあなたにかかっています。

なでしこの優勝は心地よかったです。

けれども、だからといって、この国に何の化学反応も起こりません。
いや、多少は起こるかな…

とにかく、たまらなくなるほど軽佻浮薄で、間の抜けたマスコミの狂乱は始まります。

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2011年7月16日土曜日

静かなる買占め

大きく報道などはされていないが、静かに米の買占めが始まっている。
3・11以前に収穫された米は安全だからです。
それを玄米で手元に置けば、しばらくは放射能のことは気にせずに主食は楽しめる。

けれども、このような行動を多くの人々が取りはじめたら福島県の農業はつぶれます。
われわれ年老いた大人は放射能汚染を恐れることはやめ、福島の農業を助けるべく彼の地の野菜を肉を食い続けるほうがいいのかもしれない。
それが福島を救う唯一の道なのかもしれない、この腰抜け国家にあっては。

この国は汚染されてしまったと基本線で考えておく必要があります。

海藻をはじめとする魚介類。
米をはじめとする野菜。
牛をはじめとする食肉。

残念ながらすべて汚染されていると考えていい。
もちろん、汚染のひどさがあり、それはグラデーションを伴うでしょう。
しかし、過剰に安全を求めすぎるのはこの国の終わりを性急に指し示す行動となる。

いまだに脱原発がどうのこうのと語っている政治家や電力会社の思惑は知らないが、明らかな汚染列島の中にわたしたちはいます。
そのなかで、まずわたしたちがしなければならないことは、子どもたちを守ることです。
将来生まれてくる子どもたちにある程度の安全を提供することです。

原発を止めることに何を躊躇しているのだろうか。
原発は止めたからといって今まで稼動してきた事実を帳消しにしてくれるような柔な悪魔の機械ではない。
どうしたらいいかわからない 「new clear waste」 を大量にわれわれに残していく。

何が節電かと思う。

ぎゃあぎゃあ楽しそうに浮かれているのは、テレビを代表とするマスメディアだけです。

水や食品の基準値をチェルノブイリレベルに下げれば、ほぼ福島全土に致命的な打撃が与えられたことを知ることになる。
福島原発事故は「fatal error」なのですよ。

おわかりですか。
君たちの犯したミスの悲劇性が!?
東電諸君、
そして政治家諸君。

さらに、原発の運転をただ眺めるだけで見過ごしてきたわれわれの罪もまたわれわれは見過ごしてはならない。

とにかく、子どもたちだけは守らねばならない。

東京都の給食に福島の野菜を使いたいなら、まず母親たちに使用していいかどうか聞いてみなさい、石原君。君が使いたいのなら、まず君と君の息子や孫たちが食べ、それから都庁の食堂で食べはじめればいいだろう。

石原君、子どもたちをキミの愚劣な思考の渦の中で巻き添えにしないでくれないか。

やり切れぬ現状を多くの人に知ってほしい。
デジタル放送切り替えやなでしこジャパンだけをうるさく言い立てているのではない。
何が肝心か、少しは考えてみてはいかがだろうか、マスコミ諸君。

君たちは、東電や電事連からのCN料が消えてから彼らのひどさに対し、虚ろに騒ぎ出したのだが、なぜに節電の嘘を声高に騒ぎ立てないのだろう。
あの放送を眺めるとわたしは、頭が痛くなるのだよ。

たまらんなあ、この国は。

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2011年7月15日金曜日

自己が可変であることの認識

自分が変わっていく存在であることをぼんやりとであっても知っている人が好きです。
自分の住んでいる世界にしがみつき、その世界を壊すような他者のそぶりに過激に反応する臆病な利権主義者を憎みます。
その利権主義者は数を頼みに、いま所有する彼らの権力を武器にその場所にしがみつくための工作を施してきます。
下らぬ輩ですが、かえれらの持つ社会的な力を軽視してはなりません。
事実、今でも原発を動かそうとしている人間は多くいるし、わたしの思うような正しい夫になれと思う女たちはいます。
もちろん、後者の場合、こら女、女として正しく生きろという主張のほうが、はるかに強かった伝統をこの国も持っているし、イスラムなどには今も強烈にあります。

なんにしろ、わたしには人は変わっていくものだと知っている人を、そう感じている人を好む傾向があります。

自己可変性を知るそのような人々は、社会的弱者であることが多いものです。
端的にいえば、徒党を組めない彼らは、一人であるが故に弱いものです。
また、徒党を組み始めれば、自己可変性は邪魔なものになっていきます。

わたしは日々変わろうとしていく子どもが好きですが、その変化にもレールが敷かれている今の日本です。
レールに乗る前の子どもの感性は豊かです。

わたしは、そういう子どもたちにレールからはみ出てしまった最底辺の人間たちのような共感を覚えます。
わたしもいまだに宙ぶらりんの人間です。

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2011年7月12日火曜日

人というものは、見たくないものは見えなくしてしまう動物なようで

タイトルは、原発事故問題のことですが、これは、既得権益を得る側だけではなく被災者側もそのようです。

以下は、わたしの信頼する人々の意見を聞き、熟成させた後にわたしが思うことで、それが正しいという大上段の主張ではありません。

われわれには、3・11以前と以後と分ける意識がとても薄いように思います。
3・11以前にいまだに戻れると考えている人々が多く日本に在住しますが、それはどうでしょうか、本当に可能なんでしょうか。
原子力発電の技術がわれわれが処しきれない、われわれの外から到来した技術だとしたら、その技術はわれわれの世界から締め出すしかありません。

科学万能主義がここまで根深くこの世界に巣食っているとは知りませんでした。
科学の進歩により人間は前のめりに進んできましたが、原発だけは、科学の進歩で乗り切れるものではありません。
試行錯誤という科学の進歩上必要な手順を踏めないからです。

福島の原発事故が、原発という機械のエラーは致命的だということを教えてくれています。
それをまたぞろストレステストでOKならば、などと戯言を言い始めています。

原子力発電が人知を上回っている技術であるという可能性に見向きもしません。
おそらく原発が、使用可能になるとするならば、それはこの星の失敗から学んだどこかの惑星でのことでしょう。

「核」と「原子力」は、同じものです。
私見ではそれは触ってはならないものです。

だったら、3・11以前に戻れないではないかという切羽詰った問いが出てこようかと思いますが、まさに戻れないのです。
いたずらに3・11以前と同じ世界を懐古するのは不毛です。

福島の大地は元の状態に戻りません。
海洋汚染は進行するばかりです。
電力不足は根拠のないブラフです。
火力発電の全稼動でなんら心配ありません。

もっとも火力発電にはCO2に代表される環境問題や化石燃料の枯渇に問題はありますが、原発の危険性に比べれば、当然選ぶべき選択肢として浮上します。
それより何より3・11以前の赤子のような電力使用は止めることです。

いままでの放射能汚染にプラスされて人類史上最も大きな放射能汚染が福島原発で起こっています。
その汚染がどれほどの規模のものか、誰も見向きもしません。
不可逆的に汚染された地域が出ているはずです。
そこでの子どものたちの成育は望むべくもありません。
農業、漁業がもとのように戻ることはありません。
そのことにより、農業漁業に大きな影響が出、ひいては国内の需要力が下がるわけですから、他の産業も影響を受けます。
その条件下で世界経済の一員として、のしていけるかどうかをわたしは知りません。

かなりの土俵際まで押し込まれた日本は、3・11以前の日本に戻るのではなく、別の世界を創出するという意識が必要になるはずです。

まだ昔に戻れる。
福島の事故は夢のことだったと思いたいでしょうが、残念ながらあれは現実です。

われわれ個人個人がそれぞれ生きる違う世界を作り出す必要が、われわれにはあります。

政治家がそれを出来ないのなら、だれかが主張しなければなりません。
もう、3・11以前の世界は終わってしまったのです。
この国に安全な食べ物などないという姿勢が必要とされる時代の到来です。

見たくはないでしょうが、元に戻れないことを意識しなければならないと私見では考えております。
new clearは、核でとも、原子力とも訳しますが、人知にあまるものであったとわたしは認識しております。

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2011年7月7日木曜日

unlearn

繰り返しここで書いていることですが、人は自分がそれまで見聞きしてきたことによって、学んできたことによって自分の中にパターンを作りそれに当てはめて物事を理解しようとします。

ここでは、わかりやすく人の理解といったことに限定しますが、この人の理解に端的にその人の力量が出ます。
たとえば、先日職を辞した松本という大臣は、わたしは九州の人間ですけん、とか典型的なB型ですからと語っていましたが、これほど単純なパタン認識はありません。
もっとも彼の場合、聞く側をなめての発言かもしれません。

とにかく、人は、パタンに分けて他者を認識しようとします。
けれども、人間というものはそれほど貧困なパタンに押し込まれるものではないのです。
それぞれもっと細やかに見ていかなければその本質的なるものは見えてきません。(ま、本質があればのことですが)

長くこのブログを読んでくださっている方ならご承知とおもいますが、わたしのひいきの女性は、具体的には二人いて、ひとりは小学生で、ひとりは東京という大都会の最底辺に暮らす女性です。

小学生!? と驚かれ、ロリータかと直感されるのであれば、それがあなたのパタン認識です。
わたしは、その小学生の女の子から色々と説教されております。
そして、何度もなるほどと考えさせられます。
それとは別に最底辺の女性の生き方に幾度も眼を見開かされました。

これは、わたしのパタン認識を疑うという作業から産み出されたものです。

人は学びます。(learn)
けれども、そのあとにunlearnという作業を是非付け加えたいものです。
unlearnしておかなければ新しい人間には出会えないからです。

目の前の人間を自分の貧困なるパターンの中に押し込めて認識してはならない。

これが、わたしの矜持です。(気恥ずかしい宣言ですが)

と言うわけで、わたしは権力にこびません。
その権力が大きくても小さくても。
それは処世の上ではなはだやっかいな資質です。
と言うわけで、隠遁生活。
トホホ、といったところでしょうか。

それでも、unlearnをほどこし、その人をその人のまま受け入れようとするわたしの姿勢をうっすらと感じ、贔屓にしてくれる人もいます。
たいていは、社会的弱者であることが多いですが、わたしの精神的な支えとなります。

とにかく、ここでは、人は自分の中にあるパターンのいずれかに相手を沈めて理解しようとすること、けれどもそれ以外に人を理解する方法があって、そこにはunlearnという作業が不可欠なことを主張しました。

原発事故の対応もunlearn出来ていない人々は、たいていは似たりよったりです。
淋しいことですね。

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