2008年3月31日月曜日

いらないといえば…

いらないといえば、そうね、というおまえがいて、それですべてなのだ。

そういう、おまえが、すきなのだ。

2008年3月27日木曜日

見えないをあきらめない

ふとつけたテレビに京都に住む中途失明者、松永信也さん(51歳)が映っていた。
彼の語るコトバはわかりやすく深い。
当事者ならではの語り方をする。
彼は子どもたちや社会人に「見えない」とはどういうことかを伝える活動をしているが、その対象のなかにはわたしもいる。

わたしは、花粉症とは関係がないので、「花粉症のひと」に対して根性なしじゃないかと思ったりする。
「花粉症」を身の内で知らない人間の対応とはそんなものである。
もちろん「花粉症、たいへんだねえ」と言ってもいいのだが、そう言ったとしても「根性なしじゃないか」とその意味内容はさほど変わらない。
コトバ面が違って見えるだけだ。

安直にコトバ面に反応してはいけない。
コトバに意味を込めない、重みをつけない人はたんとこの世におりますから。

同じように「うつ病のひと」に対してひどい物言いをする人は多いが、わたしはやさしい。
「うつ病」はわたしの身の内の病だからだ。

松永さんの前述の活動は「目の不自由な状態」をそれぞれの人の身の内にほんのわずかでも生み出させようとするものだ。
人というのは愚かなもので、その痛みを知らない人間は平気で他者に痛みを与える。
火を知らないものが、何の躊躇もなく炎の中に手を差し伸べることを考えてみればいい。
あなただって躊躇なくドライアイスを握りしめるのではないですか?

だから、痛み多き人ほど人にはやさしくなる道理がある。
痛み多き人は自分の味わった痛み以外の痛みに対する想像力をももっているからだ。

「やさしい人が好き」

というのは、なかなかに薄っぺらで残酷なコトバなのである。

さて、松永さんの活動をテレビで拝見して思い出したのだが、昔、ある評論家が「目が不自由なのはその人の個性だ(正確ではない。<目が不自由>は別の障害だったかもしれない)」としゃべっていて、なるほどとわたしは思ったのだが、それを友人に語ると、その友人は「それはやっぱり、困ることじゃないか」とゆっくりとわたしに諭したことがあった。

そのいまだに友人である男は、傍観者の立場が嫌いな男で「目が不自由なのはその人の個性だ」のなかに「傍観者」性が紛れ込んでいるのをいち早く察したのだろう。

確かに「目が不自由なのはその人の個性だ」は美しい認識だが、当事者として最初にそう思うことはないだろう。
松永さんはこう言った。

「目が見えないのはとても困ることだが、何もできないわけではない」

もう三十年もまえの友人とのやり取りが、松永さんの映像と重なり、静かにわたしのなかの腑に落ちていった。

松永さんは40歳で失明した後、視覚障害者の職業といえばマッサージしか選択肢がない現実に反発し、福祉機器の販売など、自分の手で収入の道を得ようと死に物狂いで闘った。
しかしすべてにうまくいかず挫折した。
いまは非常勤の仕事と障害者年金、それに妻のパート収入で生きている。

「ただ目が見えなくなっただけなのに、なぜ限られた生き方しか選べないのか」

そう考えて松永さんは活動している。
目が見えなくても当たり前に生きられる社会を築きたい、そう彼は思っている。

社会には壁がある。
そして「社会の壁」に挑む人間たちがいる。
「社会の壁」を崩すのは難しいが、まったく不可能というわけでもないだろう。
「へなちょこ同盟」を企図するわたしが、「ともに戦おう」とシュプレヒコールをそそのかすことはないが、それとは別に戦う視覚障害者の姿があることは知っておいていいはずだ。

スタイルは違っても、そのスタイルが「へなちょこスタイル」と呼ばれても、やはりわたしたちもまた意志をもって歩いていきたいものだ。

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生活のアクセント、そして「へなちょこ同盟」へ



きらきらと輝く金目のあらが手に入ったので煮付けにした。
日々その生命力を滞らせることなく成長する山椒の若芽を今日も摘んで雑魚といっしょに佃煮を作った。

料理は生活のアクセントだ。
いっしょに料理を囲む愉快な仲間がいればさらにアクセントとしては上質になる。
幸せな夕餉は幸福のひとつの至上だろう。

そういえば同じことを車寅次郎が映画の中で言っていた。(たしか、志村喬がマドンナの父で大学教授だった。タイトルは調べるのがちょいと厄介で、失礼する。
ご存知の方はお教えください「tonbomaru55@yahoo.co.jp」)

散歩もアクセントなら、こうやってブログを書くのもアクセントだ。
さらに言えば、酒もまたアクセントだと言えなくもないが、深入りするとアクセトのボーダーは知らぬ間に越えてしまう。
これは酒に限ったことではない。
アクセントとして生活に位置するものすべて(容易に越えてしまう)ボーダーのなかにいることを条件とする。

そのアクセント内でのわたしの料理だが、「あら煮」のポイントはあまり水を使わないところにあり、(代わりに酒がよく、酒が惜しいなら出汁にするのがいい)山椒の佃煮は一度湯でこぼしておいて、それを水にさらし、適当に味付けして煮詰めていくのだが、煮詰まったところで水を少々足すといい。(煮詰めることで味をしっかりとつけ、水を足すことでやわらかい佃煮とする)

で、どうなんだと聞かれれば、それだけのことで、そんなふうなことを考えながら料理をするのはなかなか楽しいものだということだ。

さて、そんなふうに暮らしているわたしが内田樹(「たつる」と読みます)さんの本を読んでいると「弱者」の定義として「『受益機会そのもの』から疎外されている者」とあって、なるほどと思った。
こう定義すると弱者が客観的に定義される。

対して、わたしの言う「弱者」「弱きもの」は、あまり客観性をもっておらず、仲間内で通じればいいだろう(あなたとわたしがわかればいいだろう)程度のもので、この定義とは少しずれてしまう。
あえて、比較できるように並べてみれば、「受益機会を得るために、あるいは受益するためには障害となる不自由なものを身のうちにもってしまった者」「……もってしまったと思っている者」というふうになるのか。

したがって、何もわからぬ人から見れば、もっともわれわれの周りにいる人といえば、何もわからぬ人たちがほとんどなので(そしてわからぬことにおいて「受益機会」を獲得するという処世が達成されているのだが)、こういう注釈をつける必要はなく、たいていは「このわがままものが」と思われてしまう。
しかし、それはほんとうに「わがまま」なのかというところから本格的な話は始まるし、一部そのような観点からものを言う人もでてきている。
そういうところは乱暴にうっちゃらかしてしまえば、大きな問題はその「わがまま」がある程度妥当なものだとして、あなたはどうやって生きていきますかというその後にもある。

わたしの企図する「へなちょこ同盟」はどうやって生きていくかの問題に対するひとつの答としてある。
「へなちょこ」というぐらいだから何もかもいい加減な同盟だが、いい加減にいっしょにいられることは可能かという大きな問題もはらんでいる。

ちなみに「へなちょこ」は「腑抜け(ふぬけ)」とは違うが、「腑抜け」というのもわたしは嫌いではない。
「腑抜け」は男が女にぞっこんになるときの形容だが(女が男に首っ丈のときには使わない)、「腑抜け」のままやっていけるのなら、それはそれで極楽だろうと思う。
「腑抜け」には視力はないもので、何がなんだかわからなくなっている。

北村太郎が田村隆一を評して「田村が女にもてるのは女にほれないからだ」と言っているが、これは奥深いところのある発言で、田村さんは視力のいい人でほれることができなかったという指摘だ。

「ほれる」とは「目が見えなくなる状態」で、視力のいい人間は「ほれる」ことができない。
というわけで、ウィスキーを田村氏は呷ってみるのだが、アルコールでは「腑抜け」にはならない。
アルコールは短時間で冷めるから「ほれる」状態を長時間維持できないのだ。
そこでアルコール中毒へとなだれ込むことで「ほれたかのごとき状態」を作り出すのだが、こういうアル中にほれる女はまれで、そのまれな女を呼び寄せるところが田村隆一であったいうわけだ。

ここまででわたしは「田村が女にほれない」は説明したが、「なぜ女にもてるか」を説明していない。
これはわたしの守備範囲ではないので深くは終えないが、「女は『腑抜け』が嫌いだ」ということくらいは指摘しておいてもいいだろう。

(ところで、田村さんについて書いたこの部分、いうまでもなく田村隆一のほんのわずかな面を叙述したに過ぎず、田村隆一は別の場所にスックリと立っていることを今日のブログの最後に確認しておきたい)

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2008年3月26日水曜日

山椒の佃煮


自宅の小さな庭にある立派な山椒の木は、この中古の家を購入した平成二年、父が挿し木をしたものだ。

あまり日の当たらぬここでも

「山椒なら育つやろ」

父はたっぷりと水をかけた小さな木っ端のような山椒を見ながら、わたしに言った。

思えば、父は野菜や花や樹木をよく育て、カナリヤやチャボやウサギや犬を丹念に飼っていた。
人とはあまりしゃべらない人だった。
いまのわたしが人とはあまりしゃべりたくない気分は通奏低音のように父とつながっているかもしれない。
ようやく身体に不自由を感じ出したこの歳になって、父のことを懐かしく思い出すわたしである。
そのたびに植物や動物とのつきあい方をもっとよく教わっておけばよかったと思う。
なんにしろ過ぎ去ってしまってしみじみと後悔するのが人の常で、仕方なくわたしはものの本を見たり、ネットで調べたりして少しずつ花や木とつきあい始めている。
動物ともつき合うようになるのかもしれない。

写真は、平成二年に父が植えた山椒の若葉で作った佃煮である。
醤油を思い切り控えてあるので日持ちが悪いのだろうが、実にこれがうまい。
ご飯のおかずにはなっても酒の肴としては多少頼りないところも今のわたしに合っている。
酒をまた飲むようになったら、もう少し強い味付けのものも少しだけ作ろうかと思っている。

そのときは、あなたとともに杯を傾けるといいかもしれない。

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捨てたものではない

コンビに払いの振込みがあったので、近くのセブンイレブンに行ったのだが、(そういえば、このところほかに振込みするばかりで、こっちへの振込みがない。昔風に言えば「風前の灯」…まさか消えているんじゃないだろうな)そこで、まともに応対する若者に出会った。

こういうコンビではマニュアルが決まっていてその通りに声を出せばいいことになっている。
よくは知らないが、ま、たとえば「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」、こんな具合だろう。
だから、コンビニというところでは意味内容も持たないコトバたちが、でかい顔をして飛び回っていることが多い。
というわけだから、その人の心が入るという景色はおよそお目にかかれない。

ところがいたのだよ。
自分のコトバを発する人が。

その若者は、マニュアル通りにしゃべっているが確かにそのコトバに重みをもたせてていたのだ。
はっとしました。
わたしは若者の顔を見上げて、「ありがとうね」と再度くり返し、若者の「ありがとう」を再度背中に受けながらコンビニを出たのだが、よもやこんな場所でコトバに重みをつけることのできる人物に出会えるとは思わなかった。

大変なんだよ、コトバに重みをつけることは。
コトバに重みをつけるというのは、どこか自分を開いている部分があって、見た目以上に傷つきやすくなっているので、そういうコトバを使い続けているのは、生来のものか、よほどまわりに恵まれている場合でしかないことなのだが、この若者の場合、後者であることをわたしは切に願うのだ。

今週、そのように自分のもっとも弱い部分をさらして生きてきた男と会うのだが、彼の場合はその姿勢はとらざるを得ない姿勢で、そうすることでしか生きられないようなところがあって、それを理解しない人間たちにぼこぼこにされているのだ。
そして、哀しいことに彼をぼこぼこにした人間たちは、彼をぼこぼこにしたという意識はまるでないのだ。
さらに、ややもすれば、もっとも弱い部分をさらけ出していることが間抜けだとのたまわったりするのだ。(事実、社会通念上は間抜けなのだが……、それでも見ているほうも切なくなる話だよな)

それはいい。
とにかく、今日は久々にいい若者に出会った。(一方的にだが)
彼が、うっすらとでもわたしに幸せを与えてくれたことを感じていればなおいいのだが。

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色川孝子

25日は「知るを楽しむ・色川武大」の最終回。
色川孝子の登場と相成った。
最終回の柳美里はインタビュアーとして終始していて、さすが役どころをよくご存知でした。
彼女に対して過日ブログできついことを書いたのですが、批判めいたその文章に少しつけ加えて、孝子さんの話の一部を取り上げてみたい。

わたしはずいぶん高いことを柳さんに要求していたと思う。
それは、わたしが勝手にそうしたのではなく、彼女もまたそうしようとしていたからだと思う。(失敗して墜落してしまっていたのだが、なんだか自分が落ちてしまったことに気づいていないようだった、そのあたりの真摯さはおそらく書き手である彼女の真骨頂なのかもしれない。よくはわからないが)

わたしの要求、彼女がしようとしているとわたしが見て取ったことは
「色川武大なる人物の混沌とした具体の渦の中からある抽象的なもの、それを概念といってしまってもよいのだが、そいつを取り出すこと。そして、それからが実にもって重要なのだが、取り出した概念を視聴者に(わかる視聴者に)語ることでさらに生き生きと色川武大をその場に(彼女の語る中に)立ち現われさせてしまう」といった大胆不敵な試みだった。

彼女は、ある抽象的なものを取り出したのだが、その概念はコトバでしかなく肉体(身体性)をもっていなかった。
薄っぺらであるというコトバの特性を十分にわからせる空疎なものでしかなかった。
しかし、その瑕疵を責めてはならないだろう。
彼女は具体を扱う小説家で小説のなかになにものかを密かに埋めることはできても、取り出すことに長けてはいない。

「思考は概念を手中にすることでその脚力を一挙に加速する」

これは、ある評論家に対するほめコトバであるが、抽象することが「単純化」や「類型化」とはまったく違う地平に立っていることがわかる。

というわけで、彼女は文字通り蟷螂の斧を振るったわけで、場違いな場所にあっても真正面に向かっていくけなげさを見せた、そう見るのが一番妥当だと思う。
つまり、批判するのは大人気なかったと深く反省しております。

さて、あまり長くなるといけないので、孝子さんのコトバにわたしのコトバはあまりつけ加えない。
彼女は色川武大と自分との関係を振り返りながら以下のように話した。(ほぼ以下のように話した)

「(ふたりの関係のなかで)いろんなことがあっても、人は許さなければいけない。(だって)許さなければ一緒に生きていけない(でしょ)」

色川武大と同じ空間に長くいた孝子さんのいま思うことだろう。

人は許さなければ、だれかと一緒にい続けることはできない。
ひっくりかえせば、許すことができないのなら、それはすでに別れたほうがいい関係なのだろう。

大事なことがひとつ残ったが、
「許す」ということがどういうことかは、個々人で考えることにするとしましょう。

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2008年3月25日火曜日

あれに逢いに




最近もキャベツが仲間に意思を伝えているとの研究が(青虫が葉を蝕むときに青虫の天敵の蜂を呼んだり、すぐそばの連中に青虫が来ているからねと教えたりしているというのだ)発表されていたが、植物に何らかのシグナルがあるというのはそういった研究前からわたしたちのなかにはっきりと感じることがあった。

わたしが「あれ」と呼ぶ善福寺川沿いのハクモクレンにもう遅すぎるぞと思いながら午後遅くに会いにいった。
怒っているだろうなという思いは、わたしと「あれ」においては擬人法ではない。
実際そういうやり取りがある。

「あれ」が最後の白く立ち染める姿でそこにいたのはわたしの幸せであった。
近所の方だろうか、初老の婦人が、
「ことしはなかな咲かなかったから心配してたの」
とわたしの肩越しから声をかけた。

こういう逢瀬もある。
「あれ」を見ながらそう思った。

しばらく、わたしはそばにいたが、「あれ」の機嫌が直る風情をいくらか感じたときに去ることにした。
そのそばにある梅にふふと目がいってしまったが、「あれ」もそれほど狭量ではあるまい。

また、花の咲かぬころ訪ねることにするよ。

今日は圧倒的な暖かさで、人出も多いかと思ったが、「あれ」のそばにはだれもおらず、先述の婦人がわたしの後から現われただけだ。

みなの目はすでに三部咲きから五部咲きに移りゆく桜に向けられていた。

けれど、わたしは「あれ」だけに目を遣っていた。
「あれ」への思いは空に向かうあの白いりりしい花の散りしあとにも続く。

わたしにとって、「あれ」もまた大事な仲間なのであった。

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依存する人たち

「依存する人たち」には、わたしも含まれている。

(こういうところをなぜわざわざ押さえるかというと「自分を含む集合」か「自分を含まない集合」かの区別は何かを考えるときに大きなポイントになるからです。
と、えらそうに書いておりますが、これは論理学の基本の基本です。
基本の基本ではありますが、たとえば校則は「教師を含まない集合」に対してのものですが、そのことを意識している教師は驚くほど少ない。
自分には影響のない校則を生徒に強いるという行為がどういう意味を持つのか考えたことがない。
念のために書いておきますが、これは個別の校則、教師に対する批判ではなく、校則というものがもつ特殊性を語っている話で「メタ校則」といった領域にあります。ご注意ください。
もちろん、こんなことはそこらあたりにゴロンゴロンころがっており、たとえ舗装することで隠されていようとも、わたしたちの周りにわたしたちを縛る「そいつらが含まれていない集合」という形の決め事は驚くほど数多くあるのです)

先日、わたしの大きく敬愛する主治医、若き心療内科の田中さんと面白いやり取りをした。
彼にとっては当たり前のことであったのだろうが、わたしは目の前が開けた。

そうか、わたしは、こんな突堤に立っていたのか。

こんなやり取りである。
「先生からもらっているあの睡眠薬ですが、中毒性が若干あるんじゃないんですか、あれを飲まないとだんだん眠られないような感じになってるんです」
「ないですよ」
「ない?」
「そう、中毒性はないです」
「そうですか」
「中毒性はないですが、依存性は生じますよ」

「人間はなんにでも依存するんです。山本さんはおそらく睡眠剤に依存し始めているのでしょう。同じように毎晩チョコレートを食べて眠る癖がつくとチョコレートに依存するようになる。ラーメンを食べて寝れば、ラーメン依存症。男がいなければ眠られないと…」

ま、田中さんは男が云々までは語らなかったが、そういうことである。

面白い話だと思った。
「睡眠薬に中毒性はないが、睡眠薬に依存してしまうことがある」

これはいくらでも広がる大きな話なのでそこそこで止めておくことにしますが、たとえばあなたなりわたしなりが慣れ親しんでいることが生活のなかにはある。
わたしなら、食事以外にもおやつのようにゴマを食べていてゴマがなくなると不安なので常時台所の水屋に何袋か放り込んである。
いわゆるところのゴマ依存症。
あなたにもそういう食べ物があるでしょう。
よく話題になるのは、マヨネーズや唐辛子。
自慢げに話す連中がいるが、なに、あれは依存症の一種に過ぎない。
何のことはない。

自分の考え、意見が何の吟味もなく正しいと思っている連中もいる。(「ドクサ」というタームを導入しておこうか)
こいつが手におえない。
私見ではあるが、長く無批判に自分の考えや意見を抱いているとその考えや意見に依存するようになる。
依存すると、やつらは、てこでもその考え意見を曲げない。
曲げなくても大丈夫な保障として彼らは数を頼みにする。
この数を頼みにした考えを世間では「常識」とか「社会通念」と言う。

たまたま正し(この場合「正しい」はそういう考えがこの世に存在してもあまりわれわれの邪魔にはならないというほどの意味)ければいいが、その考えで糾弾されるのはたまらない。

「みんながやっている」
「みんなそう考えている」
   ………

そういった依存症の人たち(この場合わたしはその集合に入っていない)の切り札は、数だからつい「みんな」「社会人」「世間の人」といった大きな集合を持ち出して、われわれ弱者(この集合にあなたが入っているかどうかは大きな問題だが、これは、あなたに下駄を預けるしかない)を責めてくる。

これは面倒だ。
ひとつだけ確かなことを述べておけば、かれらは依存症だから論破することはできない。
強い依存症であればあるほど眠る前に睡眠薬を飲むことは必然になってしまう、チョコレートを食べることは必然になってしまう、そして無批判に長くもって過ごしてきた彼らの考えは(実はその考えは彼らが深く真摯な思弁の底に見つけ出したものではないのだが)ア・プリオリなものになってしまっている。
そのア・プリオリなものはア・ポステリオリなものに取って代わられることはない。
誰かに与えられたものであっても無批判に後生大事に持っていればそうなってしまう。

「それでも地球は回っている」

と嘆いた科学者の気分も少しはわかるだろう。
あの科学者のような歴史上の出来事にはならないが、われわれも日々そのような状況に囲まれている。

私事だが、昨日、話したくない人と話さざるを得なくなってしまい、しばらく話したが、これにはまいった。
わたしの心の方々に傷跡が残った。
傷跡は、「重いうつ気質」と「うつ病」の境目に住まいするわたしをほんの少し「うつ病」に追いやった。
そのため、わたしは昨日今日としばらく飲まない「レキソタン」を嚥下にした。

わたしの場合はこれでいいが、食っていくために社会と接する機会が多くなるあなたは計算高く対抗手段をもたなければならない。
その対抗手段の一つに心を外界から遮断する、帳を下ろしてしまうやり方がある。
離人症にもつながる危険なやり方だが、有効であることもまた確かだ。
社会と接するときに自分自身であっては身がもたない。
たとえば、誰かほかの人間を演じてしまう意識が必要だろう。(role-playing)

そういったことを真剣に考え実践することで、自分を守りたまえ。

そうしていれば、ときに自分をある程度出してもいいかなと思える人と出会える。
その意味で仲間はとても大切だ。
それが異性であろうが同性であろうが、老若男女問わずだ。
わたしなどは、猫を飼おうと考えているぐらいだから、人間であることも仲間の条件からはずしている。
そうやって日々をゆっくり自分自身で、少しだけでも楽しみながら過ごしていけば、また会うときもある。

そのときは、
あなたとおいしい紅茶を飲もう。
極上のチーズケーキでもほうばりながらがいいかな。

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2008年3月24日月曜日

雨の日に…




カーテンを開けると、雨が降っていた。
雨はそのまま夕べまで続く。

自宅の小さな庭先を眺めると緑が目立つようになっていて、暖かさのなかに感じた春を庭先の濡れた緑にもぼんやりと感じる。
これが、夏や冬であれば「ぼんやり」とは感じないのだろうが、春秋という間の季節はどこかゆったりとした気分がある。
それがいやで、わたしは長く夏や冬のきっぱりとした季節を好んでいたのだが、庭先を眺める自分にふと気づき、自分のなかで季節の好みも変わり始めていることを思った。

こういうふうに自分が消えていくのだとしたら、悪くもないのかと不意に思う。

このところ、読む本読む本、前と違ってよくわかるのはわたしのなかに静かに入り込んできている老いのせいかもしれない。

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2008年3月23日日曜日

猫が娘か、娘が猫か


知らないことに毎日のようにぶつかって無知を思い知るわたしの生活なのだが、無知でなければ知ることはできないのだから「知らないでいる自分」をそうそう嘆いてわけでもない。
この前書いた「知るを楽しむ」という番組タイトル名も、裏返せば知らないから「知るを楽しむ」ことができるわけで「無知を楽しむ」といってもいいのだろう。(ほんとうか?)

さっき、魚屋に行ったら「メジ(長崎産天然もの)」とあったが、マグロの養殖がそれほど出回っているのかと驚いた。
ちなみに「メジ」というのはマグロ類の幼魚に対して使われる呼称で、少しプロっぽく言えば、クロマグロは「本めじ」、キハダは「黄めじ」となる。
これがわたしの育った三重になると「メジ」ではなく「ヨコワ」となる。
(詳しくは知らないが、つけ加えておけば「メジ」は「目近」、つまり吻(口)からすぐ後に目があるというので「メジ」と呼ぶようになってきたらしい)

で、「メジ」が今回の本題かというと話はそれではない。(思いつきを書いているとあっちこっち行って実にせわしない。申し訳ないことです)

少し前に紹介した南木佳士の「トラや」であるが、それが内田百閒「ノラや」を下敷きにしていることを最近知った。
わたしは愛猫家ではないのでその筋ではあまりにも有名な「ノラや」の存在を知らなかったのだ。
けれどもそのおかげで、いまごろになって「ノラや」をしみじみと楽しめることができる。

ところでわたしの住んでいる近くに土日だけ開かれる八百屋さんがあって、そこはたいていご主人と若い娘さんでやっているのだが、その娘さんをわたしは贔屓している。
とくにどうのこうのという娘ではないのだが、その愛嬌は飛びぬけていて、おばさん連中はいつも親しげに娘に話しかけて会話はゴムマリのようにはずんでいる。
会話がゴムマリか娘がゴムマリかよくわからない。

その娘を見るたびに娘も親しげにわたしを見るのだが、そのときの気分がなんともいえなくてその気分をしばらく内に抱えていたのだが、ようやくどういう気分かわかってきた。

わたしは猫をとくに愛する人間ではないが、この娘が猫であるならばわたしのそばに置いていただろうことに思いが到った。(こう書くと娘か猫のどちらかに怒られてしまいそうだが、思い至ったことは多少の障壁があっても書かずばなるまい)
猫になった娘は、あるいは娘であった猫は、はじめわたしにまとわりつくのだろう。
そういうことは今までにもあった。
多くは子どもだが、あやつらはわたしの弱気を見抜くのだ。
見抜いて底抜けに甘えてくる。
甘えられたこちらはやりようがない。
これが、子どもに混じって「アカサギ」に近い娘だと黙ってだまされたふりをするしかない。
まあ、めちゃくちゃな話だが、見抜かれたわたしの負けということだ。

さて猫になった娘は、ひがなわたしにじゃれついてくるが、終いには寄りつかなくなり、去って行ってしまうだろう。
しかし、これがほんとうに去って行ったかと思うと、さにあらず、わたしの気持ちが落ちていくときを見計らうように突如そばにぺたりと座ったりする。

ああ、この猫が…

そんなふうに知らぬうちに助けられたりしながら生きていければと娘を見ながら思いをふわりとたゆたわせていると、この思い、もともとは「トラや」や「ノラや」のなかで教えられ身の内に入ってきた思いだと気がつくのである。

そんなことを思いながら娘を猫に変えるすべもない男は、娘から買った花豆を煮たのを片手にとぼとぼと帰っていくのでした。

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一調二機三声


NHK教育に「知るを楽しむ」という番組があり、今月の毎火曜日の夜は柳美里が「色川武大」の話をしているが、彼女の語りの拙さは目を覆うばかりである。
それでも、彼女がこの番組を引き受けてくれたことでわたしは色川さんについて知らなかった幾つかの面を教えられてとても貴重な時間をいただいた。
柳さんのつたなさというのは、彼女の色川評が十分に熟しきれていない抽象化で、とってつけたようなコトバを頼りに話をするものだから、彼女が色川さんを好きであったことはかろうじてわかるのだが、彼女の見た色川さんはどこにも彼女の話の中にはないといった不具合が生じていところにある。

タイトル「一調二機三声」は世阿弥が発声に関して述べたものであるが、発声でこれだけ奥が深いのだから柳さんの語りをあれこれ言うつもりは一切なく、実のところはそのつたなさも彼女の愛嬌のごときものが見え隠れしたりしていて、あまり悪い気はしないのであった。
それに彼女には小説という書き言葉の世界があって、そこに話芸を要求するのも大人気ないではないか。

ああいう話しかたしかできない彼女が、小説においてはあるレベルを越える。
書くと話すはかように違うものかとあらためて思ったりもする。
確かに噺家がうまい書き手とは限らない。

座談の名手であった鶴見俊輔や吉行淳之介が特異なだけのことなのだろう。
とにかく今週の火曜夜は最終回、あの色川孝子さんが登場する。
色川武大はずいぶんせつない心性をもちこの世を生きてきたことを、今週で終るこの番組で実感させていただいた。
それは、わたしの小さな支えとして長く記憶に残ると思う。
いろいろ書いたが、もちろん柳さんにも十分に感謝している。

そういえば、土曜夜だろうか「刑事の現場」というNHKドラマがあるが、三上幸四郎脚本のあのドラマも今週が最終回となる。(確か全四回)
脚本のがんばりとそれに向き合うような演技者がいるこのごろでは珍しいような作品ではないだろうか。

もちろん環境音楽とか環境映像としてはまったく不向きなのだが…

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2008年3月22日土曜日

日記とブログ

「日記とブログ」
さほど差のないもののように思えるし、それに読み手の気持ちは、読み手として登場するわたしの感覚でしかわからないので、いたずらな寸評になってしまうかもしれないが、お許し願いたい。

上質な日記というものは、具体的な日常がおもに書かれており、そこにわずかな書き手の心がのぞくといったところに相場は決まっていて、それは「病床六尺」「断腸亭日乗」だとかに始まりいくつか挙げることが可能だろう。

日記には精神的な彷徨はあまり書かないことになっている。
もちろん、精神的な彷徨を書いて読みものとして良質なものは残っている。
が、日記といえば読者は自分自身と決まっており、(それに多少色気を出してしまうのが職業作家の常だが)この読者は自分自身だという部分だけを強く照射するならば、読者が読み返して腑に落ちるのは日常の具体的なさまざまな記述となる。(内面的な描写は本人にとってはたとえ時が過ぎていても生々しすぎるのである)

たとえば、その日に食べた漬物であるとか、庭先にアジサイが咲いていたとか、昨夜はよく眠れたとか、珍しくあいつがたずねてきたとか…一見愚にもつかないように思えるのだが、その実、後から読み返してみると、まざまざとゆきさりし日が思い出され、感慨深いものである。

おわかりかと思うが、読者である自分自身の内にあるそのころ思いめぐらせた記憶と日記が相まっての読み物になっているところにその秘密はある。

一方ブログは日々の記録であっても読者は他者なので、書き手の日常的記録はそのままどこかしらにある日常にしかすぎない。
にもかかわらず、単なる日常を書いているブログを多くの人が読むということはどういうことなのかと不思議にも思うが、いろいろの理由があるのだろう。

ひとつはブログの主催者への個人的な興味から。
ひとつはある種の共同体の感覚から。(ああ、ここにもわたしと同じ時間を生きている人がいるといったもので、決して強い意味の共同体ではなく――ジャン=リュック・ナンシーを参考にされればいい)

そして、そうあっては少し恐ろしくもあるのですが、
すでに読者の中に日常が消失してしまっている場合。(だから他者の日常が郷愁を誘う)

「日常の消失」とはいかなることか。

残念ながら、これはひとつのテーマとなることで、このブログでは手に余る。
いつものことではあるが、思わせぶりを深くお詫びします。

ごめんネ。

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2008年3月21日金曜日

花見じゃ花見じゃ


「花見じゃ花見じゃ」と浮かれる前に「詩や俳句や短歌がときにこの世から離してくれる」というわたしの発言が危なっかしいので多少コトバを加えたい。
「詩や俳句や短歌」は、確かにこの世から少し外に出してくれるが、やはり世の中の引力圏にあって、どうしてもそこから世の中を眺めるような視点は残ってしまうことになる。
けれども「少し外」にいることで気持ちがふっとぬけるから不思議なもので、ずいぶん楽な気持ちになるときがある、そんなことを話してみたくて書いたことをここで確認させてください。

さて、最初に書いた「花見じゃ花見じゃ」というのはマスコミのかもし出す雰囲気で、それに乗せられて「ワイワイガヤガヤ」とあいなるわれわれを茶化したものである。(わたしも含めてね)
わたしはといえば、正統なひきこもりだから、ひきこもりの責務としてたとえこの季節でも部屋にじっとしているのだが、隙を見て内緒で出かけてみようとは思っているところです、はい。
全生園あたりへ。

ところで、ご存知のように東京の開花宣言は、九段靖國神社「開花標本木」に指定されたソメイヨシノが5~6輪咲いた状態で気象庁から出される。
さっきニュースでもう3輪咲いているといっていた。
なんのかんの言っても平和なニュースが流れるこの国であります。
靖國神社に桜とはあまりにぴったりした話だが、これは東京オリンピックの後から決めた話だという。
なんかねえ、と思うが、こんなことは妙に思うだけでもいいのかもしれない。
あまり大きな身振りでは話したくない気にもなる。

さて、みなさんは、花見なんぞにお出かけですか。
いい気候になりましたしね。

で、
「花見じゃ花見じゃ」「花見じゃ花見じゃ」「花見じゃ花見じゃ」

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2008年3月20日木曜日

NO MORE WAR



このブログの文脈からわたしがアメリカのことを悪く思っていると感じておられる方がいるかもしれない。
じつは、意外にそうではないのだ。

イラク戦争が始まって五年目の今日、アメリカのあちこちで反戦デモが行われた。
もともとイラク戦争は、ひと握りのブッシュとひと握りのネオコンがはじめたものだという意見があるが、概ねわたしもその意見に賛同する。
賛同するが、そのひと握りが大きな権力を握っていることも言及しなければならないし、その背後にどういう人々がいるかということも言及しなければならないだろう。
そのようにアメリカはモザイクになっており、そもそも十把一絡げに「アメリカは…」という発言自体危なっかしいもので、その危なっかしさを認識せずに「アメリカは…」と言っている御仁は、あまり信用しないほうがいい。

というようなことを今日のアメリカの様子を映像で見て、その重層性についてつらつら思っていたのでした。


わたしの近くにときどき、若者が豆腐を売りに来るのですが、そのとき昔懐かしい豆腐屋のラッパを吹く。
もともとは、豆腐は生き物で水に泳がせていてもその日のうちに売り切ってしまわないといたむので、こういう行商は始まった。
ということを思うと、水に泳がせてもいないのに今のスーパーの豆腐はなかなか腐らない。

なぜだろう。

考えてみてもいい話だ。
豆腐談義はともかく、豆腐ラッパは「宮本ラッパ」にかぎるというのが豆腐屋さんの見解で、足立区宮本喇叭製作所で作られたこのラッパが日本全国で使用されているのだが、すでに職人さんは死去し宮本喇叭製作所は廃業してしまっている。
だから、吹いたときに「パー」と音がし、次に息を吸い込んで「プー」となるあのハーモニカと同じようなリードが使われていた宮本ラッパは、各豆腐屋さんが手元においているもので終りとなる。(時代が過ぎていくのを感じるのはこういうときだろうか)

この間、「タテタカコ」を聴きに行ったとき、宮益坂を歩いたが、有名な「志賀昆虫」と「小川はかり店」を見かけた。
「小川はかり店」はご主人の病気ですでにしめておられると聞いたが、「志賀昆虫普及社」はいまだ健在といった風情だった。
おそらく「志賀昆虫」の店内に入れば、いまでも防虫用のホルマリンやアルコールが微かに臭い、採集用具や飼育用品、標本作成用具、南米のモルフォ蝶の標本、貴重な専門書が並べられているのだろう。

こういったものたちは、普段目にするテレビの中には登場せず、日本がモザイク社会でなくなって、何色かわからないが、けばけばしい原色で塗りつぶされていっているようにも感じてしまう。
良くも悪くもモザイク社会アメリカとは違うと言うわけだ。

志賀昆虫店は昭和6年創業、いまの4階建ての店は昭和38年に建てられた。

ここで、昔、北杜夫を見かけたことがある。
そのときも思ったが、今も思う。

「どくとるマンボウ昆虫記」はやはりいい本なんだな。

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この世と関係ないもの


ときどき詩を読んだりする。
それは俳句であったり短歌であったりもする。

ものにもよるが、そういった韻文は時にこの世から離してくれる。
もちろん戻ってくるのは、この世だし、そういう韻文を読んだ後はこの世が、なおつらいときもある。
そのまま一年三万人以上の自殺者を抱えるこの日本で、最後尾についてしまえばいいのかもしれないが、残念ながらわたしの中に自殺願望は希薄だ。
言ってしまえば、消滅願望のほうが強い。
そして消滅した後もふわふわとこの世を漂っていたり、あの世へ行ったりできるのなら、悪くない話だとも思う。
そう思うわたしであることうを産土神さまはお叱りになるだろうか。

ところで、俳句には著作権がない。
歳時記が出せなくなってしまうからね。
そういうところも意外と好もしく思っているつむじ曲がりのわたしである。

道々に みかんの皮を こぼしゆく
日輪は 古びてまわり 年新た

ともに虚子だが、この虚子先生、夏目漱石や正岡子規がらみで目にする人だが、なかなかの人である。

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2008年3月19日水曜日

「NAKBA」


パレスチナ難民問題を描いたドキュメンタリー映画「パレスチナ1948・NAKBA」が22日から、渋谷区円山町の映画館「ユーロスペース」で上映される。監督のフォトジャーナリスト広河隆一さん(64)は、「なぜ難民が生まれ、弾圧とテロの応酬がやまないのか、その始まりを知ってほしい」と話している。(竹井陽平)
 「NAKBA」(ナクバ)とは、1948年のイスラエル建国でパレスチナ人が故郷を追放されたことを指す。この時、パレスチナ人の村が400以上壊され、約70万人の難民が発生した。映画は、その悲劇の歴史を、広河さんの40年に及ぶ取材活動と現地での交流を通して描いた。
(2008年3月16日 読売新聞)

この映画をできれば見たく思っています。
あなたが、見るにしても見ないにしても、「NAKBA」という映画があるというお知らせです。
わたしはといえば、広河氏のこともこの映画のことも深くは知らないのです。

ただ、何か予感があるものだから、ここに記しておきます。
http://www.nakba.jp/(ここに詳しい説明があります)

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コトバの重み

 【シリコンバレー17日時事】
複数の欧米メディアによると、中国政府は17日までに、米動画投稿サイト「ユーチューブ」を中国内で利用できないよう、インターネット経由での接続を遮断する措置を講じた。チベット暴動の映像が投稿、閲覧されるのを防ぐ情報統制の狙いがあるようだ。
 ユーチューブの親会社である米ネット大手グーグルやヤフーが運営する各ニュースサイトも閲覧が難しい状況。グーグルのサイトではネット検閲も実施され、検索キーワードに「チベット」「ダライ・ラマ」と入力すると結果が表示されないという。 

テレビのニュースや時事問題にも商品価値はもちろんあり、その社会に評価された商品価値をもつ番組は売れるわけだから(視聴率が高い)、見えにくくされてはいるが、一見、客観性を保っているように見えるテレビ画面の裏で利害がぶつかっているのは言うまでもない。
また、その影響力を悪用しようとする人たちがいるのも、これもまた言うまでもない。

最初に掲げたニュースによる中国だけではなく、この日本でも同じようなことが程度の差こそあれ行われている。
キャスターも所詮商品にすぎず、それに逆らうキャスターは干される羽目に陥る。
にもかかわらず、戦う報道者に深く敬意を表する。

さて、このところ何人かにはがきを出しているのだが、その返事は、ほとんどメールで来る。
ここまで、メールの位置は上がっているのかと自分の不覚を認識した。

このブログでは、語っていないかと思うが、コトバなどというものはもともととても軽いもので、たとえば日本語としての文法を守って正確な日本語を語ったところで相手に深く伝わるかどうかはわからない。
「つきあってください」は、正確な日本語だが、そう言ったところで、あるいはそう書いたところで、相手が反応するかどうかとは別のことだ。
相手を動かすほどの重さは、単なるコトバにはない。

しかしながら、相手を動かすコトバがわれわれの前に現われることはある。
それは、われわれの現実生活のある場面で発せられた言葉であり、小説のあるシーンで書き起こされたコトバであり、あなたの好きなあの歌のメローディーに乗って届くコトバだ。

ハガキに綴られたコトバはメールのコトバより重い。

すでにその間違いに気づかされてしまったわたしですが、そのように長く思っていました。
ハガキに書くという行為のほうが、キーボードをたたく行為よりもコトバに重みをつけるのだと。
いまでも受信者であるわたしは、ハガキを重んじる感覚がある。

メールにおける利便性とむやみにコトバを重くしない特性はこの時代にすぐれて生かされており、すでにそれにとやかくの感慨を持つわたしは通り過ぎた街角に佇んでいる浮浪者のごときものなのだろう。

おそらくコトバを重くする作業自体、いまや必要とされていないのかもしれない。
それは、テレビドラマにおける久世光彦が必要とされなくなってしまったように。(テレビドラマもまた、重いものは厭われ、環境音楽のごときドラマ、滞ることなくそこに流れていることを第一とするドラマが主流を占めるようになっていく)

立ち止まらせ、自分に問い直す契機となるものは、すべて忌み嫌われる時代だ。
時代は自己肯定に走り、自己否定を遠ざけようとする。
自己肯定の時代は、そのまま受け入れる時代で、そこで生きる人々はこの社会も政治もそのまま受け入れるようになっていく。
その音頭とりが、ニュースであり、ワイドショーであり、報道番組だ。

しかし、わたしの本心を言えば身の内に自己否定を含まぬ人間祖の底は浅く、社会が吹かせる風にふわふわとたなびいている。
すぐれた表現者が自己否定を身の内にもっているのはこの極地で、同時にかれらは虚実皮膜の合わせ目に生き、生死の合わせ目も見てしまっている。

メールに肩代わりさせることでなくなっていくものを見てみようと、本日はこういったことをぼんやりと考え、独り言ちてみました。

そういえば、わたしによくハガキをくれる編集者のIさんは、流されることを極度に嫌うところがあり、「書」を嗜み、コトバの重みに向き合うことをたくまずして行っている。
こういう人がいることをわたしの生きる力にしていきたい。

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2008年3月18日火曜日

壊れ物としての人間


久しぶりにテレビで上野千鶴子を見かけたが、ずいぶんやさしげに見えた。
それでも懐に刃物を帯びているのは十分にわかったが、それは見方によっては柔らかな知性にも見えるのだった。
評判になっている「おひとりさまの老後」につて彼女はインタビューに答えていたが、上野くらいのインタビュイーになるとインタビューアーの未熟さがあからさまに露呈してしまっていた。
その露呈してしまうインタビュアーのほころびを上野が、かばうシーンが印象的だった。

むかしなら、フン、と鼻で笑い、場合によってはその女性を(インタビュアーは女性だった)壊してしまっていただろう。
ひとの壊れ方はいろいろあるのでここで詳しく書くことは難しいが、いい小説の中にはその壊れ方に執着して追いかけていく作品がいくつかある。
それらは、壊れた人間が壊れたまま終るものと壊れた人間が何とかなっていく、あるいは何とかなっていく予感を秘めさせるものとに分かれるのだが、ここではその寄り道(小説についての話)にはよらず上野さんの話に戻していくことにしよう。

そのときの上野さんの話によると「ようやく、わたしは人間が壊れ物だということがわかった」ということになる。(これは「おひとりさまの老後」にもある)
わかるまでにずいぶん人を壊してきたと過去を振り返ったりもする。

「人間は壊れ物だ」

という認識は大切で、このテーゼはひっくり返すと、知らぬ間にわたしたちはひとを壊すことがある、壊さないまでも十分に深くひとを傷つけることがある、となる。
このことはその人間が気づかなければ、一生繰り返し行われ続けていく。
アメリカが非戦闘員たる市民を殺し続けるように。

人を傷つけることに鈍感な人間は、アメリカの行為に対しても鈍感だ。
おそらく今回のチベットの事件もポテトチップスとビール片手にテレビで眺めていることだろう。

わたしの主張は、だから立ち上がれという主張ではない。
アメリカが東京大空襲を何かの映画でも眺めるように見ていたとき、地上の紅蓮の炎の中、難死していく無数の名もなき日本市民がいたことを知っておこうといっている。
わたしがテレビ画像を通して眺めるチベットの暴動のなかに、チベットを思い死んでいく人がいる、そういうことを思ってしまう人間でありたいと願っている。

その後になにをするかはあなたのそしてわたしの自由だ。

無知であることは、ある場合、とても恥ずかしいことだ。
そういう自覚をわたしはわたし自身に求める。

「ひとが壊れ物」であると知った上野千鶴子もまた多くのことは他者に求めないのではないのだろうか。
ただし、自分にかかわってくれば叩き落しにかかるだろう、その腹に飲んだギラリと光る刃物で。

「ひとは壊れ物だ」

だから自分を大事にするときには、大事にすことに賭けたほうがいい。
自分を奮い立たせるのには多くの条件がいる。
その一つひとつの条件を克服し、結果的に立ち上がれるその日を待つことの時間を
わたしは「日常」と呼んでいる。

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2008年3月17日月曜日

東京大空襲

1945年3月10日明け方、かねてよりの綿密な調査、実験の結果をもとに、米空軍は実際に隅田川をはさむ東京の下町地区で、無差別爆撃を実行した。
無差別と書くとめちゃくちゃのように感じるが、めちゃくちゃどころか、ちゃんと焼け死ぬように炎の進む方向を、もちろん風を計算に入れて焼夷弾(この爆撃のために新規開発したもの)を落としたのであった。
それもまずは、隅田川、荒川の堤に沿ってわたしたちが水の中に逃れられぬように火をともしていったのだ。
(実際に焼夷弾は空の上からはぼんぼりのようでさえあっただろう。それが、アメリカにとっての美しき炎の群れの「東京大空襲」であった)

http://www.ne.jp/asahi/k/m/kusyu/kuusyu.html

かくて十万人といわれる日本の市民はクロコゲとなって死んでいった。
「敵の非戦闘員は殺してはならない」というのは、戦時下であっても大原則としてもあるのだが、この大空襲に象徴されるようにアメリカは、沖縄でもベトナムでもイラクでも非戦闘員を殺し続け、いまだに殺し続けている。
そして、このモンスターであるアメリカを推進させているアメリカ国内の一派(アメリカは一色ではない。モザイクのようにいろいろな人々からなる国家と認識するほうが妥当だと思われる)を無批判に支持する国が世界のなかにたったひとつある。

それが、わが日本国だ。

たしか、今日明日と東京大空襲のテレビドラマをやっているはずだが、どのように描いているのだろうか。
「9/11」もまた、非戦闘員を巻き込んだテロであるが故に認めるわけにはいかない。
しかし、彼らの心情はわからなくはないという気持ちを持つ人々がいる。
彼らは当のアメリカ軍によって非戦闘員の自分の親や子どもや兄弟、仲間を殺された痛みに満ちた記憶をもっている。

さて、わが日本だが、東京大空襲から20年ほど過ぎたころ、十万になんなんとする生きたままわたしたちを焼き殺した東京空襲の最高司令官、カーチス・ルメイに「勲一等旭日大綬章」を授与したのであった。

わたしたちの国はこのような過去をもつ国である。
まず疑わなければならないのではないか。

この国になにをされるかわからないと思っていたほうがいいというのが、わたしの個人的な実感だ。

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2008年3月16日日曜日

タテタカコ



啓蟄の 月夜にガマの 背に光

若者に誘われて渋谷「A TO Z」へ「タテタカコ」の音楽を聴きに行く。
このタテタカコという人が実に感じのいい娘(こ)なのだった。

29歳だと本人が話していたが、話し方にそのまま内面の傷つきやすさが現われていて、よくぞここまでそういう自分を守り通したなあ、と感慨にふけってしまったのですが、その歌声はどこか遠くのものに伝えようとするような、ライブハウスのなかに半分たゆたうような、一端彼女の口から外にこぼれてしまうと、少し奇妙な有り様をするのでした。
ファンであろうその夜の客の中には、その声をとても頼りにするように多少涙ぐみながら見ている人もいたのですが、おそらくタテさん自身もその歌に(それは歌を作ろうとする意志の中か、作り上げていく過程の中か、それとも歌そのものが別の世界に彼女を連れて行くことの中か、よくわかりませんが、それでも確かにその歌に)助けられていた時間があったことを思わせるのでした。

語る言葉も初々しく、29歳のユニセックスのように見えて、確かな女性性を内包した少女は、そこにすわってエレクトーンを弾きながら、どこから溢れだすのか、どぎまぎしてしまうような声を遠くへ近くへ、遠くへ近くへ、そして、そとへうちへと、響かせているのでした。

帰りの家路の途中、どこからどこへ行くのか月夜に照らされた一匹のガマを見かけました。

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シアナマイド液


今日は、夕方から若い友人と青山で会うので、そのことにふと思いをめぐらせていたら、急に酒を飲もうかという気になった。
ふいにである。
そして強く。

かように我が精神は酒に対して無防備で弱い瞬間を迎える。
なるほど、なるほど、と自分のなかの酒への思いとしばらく向き合ってみる。

その後に「シアナマイド液」を飲み干した。
「シアナマイド液」、いわゆる断酒剤だ。

 
                   酒がのみたい夜
  
                   酒がのみたい夜は 
                   酒だけではない
                   未来へも罪障へも
                   口をつけたいのだ
                   日のあけくれへ
                   うずくまる腰や
                   夕暮れとともにしずむ肩
                   酒がのみたいやつを
                   しっかりと砲座に据え
                   行動をその片側へ
                   たきぎのように一挙に積みあげる
                   夜がこないと
                   いうことの意味だ
                   酒がのみたい夜はそれだけでも
                   時刻は巨きな
                   枡のようだ
                   血の出るほど打たれた頬が
                   そこでも ここでも
                   まだほてっているのに
                   林立するうなじばかりが
                   まっさおな夜明けを
                   まちのぞむのだ
                   酒が飲みたい夜は
                   青銅の指がたまねぎを剥き
                   着物のように着る夜も
                   ぬぐ夜も
                   工兵のようにふしあわせに
                   真夜中の大地を掘りかえして
                   夜あけは だれの
                   ぶどうのひとふさだ   

                 (石原吉郎 詩集『サンチョパンサの帰郷』1963) 

石原さんの詩はふと思いついて挿入しただけで、このブログにおいての意味はあまりないので、単独で眺めてください。(わたしが入れたかったから入れただけなのです。)

さて、そのように酒に対して無力なわたしだが、だからといって自己卑下ばかりはしていられない。
逆も同じことで、自分を好きすぎてしまっていても困ることになる。
生きていく難しさはこのあたりの「さじ加減」にあって、同時にこの「さじ加減」がわれわれの個性となる。
だから、間違っても「さじ加減」を誰かほかの人や機構や団体や組織に譲り渡してはならない。
自己中心的は当たり前のことで、そのことを知ったうえでさてどうするかというのが、われわれの気にするところだ。

ラルフ・バートン・ペリーは「イーゴ・セントリック・プレディカメント」をそういう意味で扱っている。

われわれは、否応なく自己を中心としてものを見るのだが、われわれにはほかにものを見る場がないのも確かなことなのだ。
繰り返すが、さてどうするかだ。

問題を小さくして、自分が酒に無力だと認識をしたわたしは「シアナマイド液」でこの問題は処理した。
しかし、それは根本的な解決ではなく、わたしは何の解決もなく、そのまま、また生きていく。

いいことも悪いことも含めて。

うん、まあ、そういうことだな。
 
 

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2008年3月15日土曜日

田村隆一あるいは鶴見俊輔のこと


田村さんのエッセイを読んでいると書かれてすでに三十年以上経っているにもかかわらず、やはりこのエッセイは読んでおくエッセイだったと改めて感じ入るのだった。

たとえば、誰かの何かの本を読んだとして、それはもう間違いなく読んだことなのだが、それでもあなたにとってのその本とほかのだれか(もちろんその人もあなたと同じ本を読んだのだが)にとってのその本の相貌は違ってくる。

だから「インド酔夢行」を読んでいるとそこには1973年10月4日~17日、1975年3月13日~28日という三十年以上前の田村氏が見たインド、ネパールの様子が描かれているのだが、では、その時代にタイムスリップして「ジャンパー」のように田村氏と同じ場所に行って同じものを見ようとしてもそこには彼によって書かれたものがあるかどうかはわからない。
もっとしっかり書けば、あなたによって見ることができるかどうかは保証の限りではない。

田村氏の見たインドは田村氏の中にしかない。
所詮あなたはあなたの目を通してしかインドを見ることはできない。

といわけで田村氏の見たインドがかろうじて垣間見れるのは「インド酔夢行」のなかとなるわけだ。
そういう意味で、こういった本は古ぼけたものにはならない。
インドがいくら変わろうともそのことは問題ではない。

おそらく、「インド酔夢行」にはインドを書くことによってわたしたちに示した田村氏が存在しているだけだからだ。
そのように本は書かれなければならない。(ほんとうのことを言えばそうだが、やみくもに誰にも彼にもこんなことを願ってはいけない。その人の技量というものがあるのだし、その人の生きかたというものもある)
また、そのように書かれた本を見抜き大切にしたいものだ。

さて、かつてわたしは鶴見俊輔の入門書として上原隆「『普通の人』の哲学」を紹介したが、(いや、このブログではなかったかもしれない。ボケもここまで進めば『もうろくの春』か)いま読んでいる『みんなで考えよう①~③』(晶文社)の鶴見さんと中学生たちの寺子屋シリーズがさらにいいのかもしれない。

とにかく鶴見俊輔という人はわかりやすくわかりやすく深いことに対してものを言う人だから、しっかりついていけば眺望開ける高台に行き着くことができる。
そこまで連れて行ってもらえば、後は自分で考え始めればいい。
そうすれば、見えなかったものが見えるようになると思う。(もちろん、わたしも含めて)

目の前に見えないというだけで、そこにそれがないと思うな。

見えるようになる時が来る可能性もある。

何かを身の内に抱えるという作業は見えない明日へ向かっての自分自身へのエールだ。
いいものに触れながら、生きていこうではないですか。

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さらにルイ・フェルディナン・セリーヌ



セリーヌとはあのセリーヌである、「夜の果てへの旅」の。
この人もずいぶん長く胸のうちにしまっていた人だが、今回読んでみて、ようやく彼の書くことが感じられるようになった。
ふわりとわたしの中に軟着陸した。
それからも、もぞもぞと動いているようだが、気持ちが悪いわけではない。
もはや身の内になったものは、わたし同然だから、血液が流れるのと、リンパ液が流れるのと、ホルモンを分泌するのと同じようなものだ。

ここで重要なのは理解しよう、わかろうとしようという意志で、このようなかたくなな態度は何ものも引き寄せることはないし身の内に運ばない。
わたしは、この態度だけは一貫しており、そのため多くの理解できない作品群、人物群を抱え込んでいるが、このところそれが次々と氷解していく。
これも地球温暖化の影響でしょうか。

何度もこのような話を書いていますが、このての話のポイントはひとつ。

「わかろうとするな、感じろ」です。

わかる、理解するの世界は、わたしやあなたとはまったく別の世界だから、気にするのはやめましょう。
そして、それが同じだと思ってしまいがちなわれわれに塗り込められた習慣に気をつけましょう。
いろんなことがわかっている人は、何の脅威でもないのです。
むしろ感じる人を恐れましょう。
むしろ感じる人を大切にしましょう。
自分も含めた集合として。

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2008年3月14日金曜日

田村隆一のエッセイ




いろいろなことを知らないと書きはしたが、田村隆一の詩はある程度知っていた。
しかし、残念なことにエッセイを知らなかった。(ほら、見たことか、浅学者)
それで、ポツポツと読んだのだが、本好きでこれを見逃す手はないと思い、本の好きな方のため紹介しておきます。

『荒地の恋』のからみで『すばらしい世界』をまず読んだが、このエッセイは面白くはあるが、まあぱらぱらと眺めておけばいい。
もちろん時間の十分にある方なら読んでおいても悪くはないだろう。

それよりも『小さな島からの手紙』『インド酔夢行』だ。
なにしろ、闊達自在(造語だよ)、田村隆一が何ものであったのかを感じることのできるエッセイである。
読んでおいて損はない。
もっとはっきり言えば、傍に置いておくような本だ。
田村隆一は酒を飲むことばかり取りざたされるが、こういうエッセイを読むと酒は彼にとって、なにほどのこともない、ただ好きで呑んでいたに過ぎないと思う。
まあ、「好きで飲んでいたにすぎない」と言い切ったこの部分だけで、彼なら一冊のエッセイを書くのだろうが。

田村さんの文章はいい。
わたしごときものの解説はいらない。
まずもって読んで御覧なさい。
そして、彼のエッセンスを感じてみてください。
感じなければ、しばらく抱え込んでいてください。
そうして、いつか再び扉をたたけばいい。
酔眼の田村氏がそのとき、なにを言うのかを楽しみにして。

いい読み物に出会い、うれしかったので、つい一文を書いてしまいました。

みなさま、お元気でらっしゃいますか。

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久々の映画



春の雨 まにあいそうねと 女云い

肩と首が限界を超えてこってしまっていたので、息も絶え絶えに孫先生のところに逃げ込んだのが、16時。
その前に安いチケットを所有していたので、無理をして『クロサギ』『ジャンパー』を見る。
久しぶりの映画もいいものだ。

『クロサギ』では山崎努を見られて幸せだった。
前々から好きな俳優であったが、ガキタレントたちとは段違いの演技をした。(けれど、作品として閉じるためにはガキタレントも大いに重要なファクターであったし、山崎とは違うだけで、がんばっておりましたよ、みんな、はい)
あれを演技と呼んでいいのか、どうかは別として。
自宅に戻って、数年前に読んだ「俳優のノート」山崎努著を引っ張り出して眺めたが、いいものを見た思いが、再び湧いてくる。
彼の舞台を近々見たいものだ。

ストーリーなどは、いま流行のマンガから起こしたものであるから、週刊ヤングサンデー連載の夏原武原案、黒丸漫画の作品を追えばいい。(2003年11月から連載開始)
よくできたストーリーだ。
だいたいが、「シロサギ」「アカサギ」「クロサギ」の説明からたいしたエンターテイメント性を感じさせるではないか。
それに加えて主人公の「クロサギ」が黒崎という名前。
おーおー、ようやってくれるわ。
『新宿鮫』も真っ青ではないか。

後は、丹念に話を作っていけばこれはヒット間違いない。
間違いないとはいえ、その取材はとても大変だろう。
とにかく、原作者に拍手。
漫画自体は読んでいないので、漫画家さんのことはよくわからない。

『クロサギ』のなかに
シェークスピア「マクベス」からとったセリフが出てくるが、このときの山崎は圧巻だった。

「明日、また明日、また明日、また明日、また明日、… と時は小刻みに過ぎゆき、ついには決められた最後の一瞬にたどりつく、人間は動き回る影に過ぎない」

これは、以下の『マクベス』からの借用だろう。

「明日、また明日、また明日と、時は小きざみな足どりで一日一日を歩み、
ついには歴史の最後の一瞬にたどりつく、
昨日という日はすべて愚かな人間が塵と化す死への道を照らしてきた。
消えろ、消えろ、つかの間の燈火、人生は歩きまわる影法師、あわれな役者だ。
舞台の上ではおおげさにみえをきっても出場が終われば消えてしまう、
白痴のしゃべる物語だ。
わめき立てる響きと怒りはすさまじいが、意味はなに一つありはしない。」

にしてはあまり変えすぎているが、どちらも翻訳だからこれ以上立ち入っても仕方あるまい。
脚本の箱崎さんもがんばったと解釈すればいい。
『クロサギ』は山崎努を見るだけでも価値はあるな。

「どうしてライター使わないんですか?」
「忘れた」

いいシーンを入れましたね、箱崎さん。

さらに『ジャンパー』も佳品として好感が持てた。
ハリウッドは『ストックホルム症候群』的な状況をすぐに使いたがるが、(厳密に言えば、主人公は犯人じゃないけど、「何かの理由で事件に巻き込まれた女が、主人公と一時的に時間や場所を共有することでついには過度の同情、さらにラスト近くに特別な依存感情を抱くようになってしまう」 とストックホルム症候群を読みかえればわかるだろう。)この安直なストーリー構成には辟易だ。
『ジャンパー』にも若干そういう構成はあるが、軽くいなす風情があり、よろしかった。
特撮も楽しめた。
これはこれで、たまに見るのにいい映画でした。

わたしはその後、孫先生にこりをとってもらい、その後清王朝の話などをして、(清の漢民族融和政策とか、孝庄太后の話とか、さ)自宅に戻ったのだが、もう少し中国語ができないとこれ以上孫先生とは深く話せないと思い、自分の不勉強さをのろった。

明日、明後日は土日となるが、どこか短時間でもいいから働き口を探そうと思っている。
こうも手元不如意が続くと、わたしもきびしいのです。

これも、わたしがキリギリスであったことへのツケでしょうか。
生きていくのもなかなかに大変で、正岡子規のような気分になるのは、いつの日やら。

仕事がらみの情報「tonbomaru55@yahoo.co.jp」までよろしく。

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2008年3月13日木曜日

梅の花


春の夜の闇はあやなし梅の花 色こそ見えね香やは隠るる

「古今集」にある凡河内躬恒の歌である。
同じく躬恒だが「拾遺集」には以下のように詠んだ。

吹く風をなにいとひけむ 梅の花散りくる時ぞ香はまさりける

また、「古今集」には詠み人知らずで

色よりも香こそあはれと思ほゆれ 誰が袖触れしやどの梅ぞも

という歌も残っている。

どれもこれも梅の「花」ではなく「香」を詠っているが、確かに梅の香を詠んだ古歌は多い。
姿よりも薫り、この美学、もはやあまり残ってはおるまいが、自分の心の奥底にそれがわずかながら仄見える感じがある。
視覚に律しきれぬ世界がわがうちにもあることを頼もしく思う反面そのか弱さに嘆声を洩らしそうにもなる。

上代文学、たとえば万葉集あたりでは「花」といえば「梅」だった。
それが平安のころから「梅」は「桜」に取って代わられます。
そのころに、「花」といえば「桜」、「花の香」といえば「梅」となったようで、自然、中古の歌で「梅」を取り扱うときは「香」に主眼が置かれていったのでした。(「梅」が「桜」に取って代わられたのは文学的には平安、生活としては江戸あたりでしょうか)
さらに時代が過ぎると「桜の姿」に「梅の香」が押されるようにもなってきました。
それは、「梅」が中国から持ち帰り広まったという経歴もかかわるのでしょうが、とにかく「姿」が「香」を凌駕していく傾向は、わたしの好みとしてはあまりうれしくないことです。(比喩的にも)

梅に関しては「探梅」・「覚梅」・「送梅」という言葉があります。
「咲いた梅を探し、咲いた梅を愛で、散りゆく梅を見送る」といったところでしょうか。
いまやすでに「覚梅」のころ。
夜の梅を楽しみに行くというのも悪かありませんな。
「花の香」を楽しむわけです。

誰かと行きたいものですが、その人の薫りだけだとしてもかまわないような気分です。

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抱きしめ続けること

誰かを肉体的に抱きしめ続けるのは難しい。
抱きしめているはずの相手がするりとどこかへ行って、いなくなってしまうことはままある。
生き物とはそういうもので、その危うさがそばに密着していることのいとおししさにもつながる。
抱きしめていられることはある奇跡だと思っておいて間違いない。

するりと逃げ去った相手だが、いなくなった影を心で抱きしめ続けることは可能だ。
そうやって、抱きしめ続けていればまた出会えるかも知れない。
たとえ、お互いに変わっていようともそのときは再び相まみえることができる。
それが、「いなくなった影を心で抱きしめ続けること」で迎える瞬間だ。
もしもそうでなかったら、物理的に同じ空間に居合わすことがあったとしても、それは流れゆく時間の中の出来事にさえならない泡沫だ。

抱え続けるということは大切なことだ。
その大切なものをわれわれは「六三三制」という教育の中で見失うように教育されてきた。
提示されたものはすぐに捨て去ることばかり教えられてきた。(出された問題は制限時間内に解け)
また、提示されたもの自体、はじめから捨て去ることを予期して用意されていた。(解答のある問題だけしか与えられてこなかった)

「抱え続けるもの」は解答不能、何かわからぬものが多い。
何かわからないが放り出せないものが大切なものだ。(誰かに説明する必要などないのだ)
これこれしかじかの理由があって放り出せないのではない。
とにかくそばにおいておく、そういった感じに近い。
その感覚がすでに身の内になければ、何かを抱え続けることなど出来はしない。

気をつけてほしい。
われわれはこの国の教育制度の中で「何かを抱え続けること」から引き離れされてきた。
しかし、「何かを抱え続けること」でしか出会えないものがある。
「六三三制」で削られようとしてきたものをあなたはもう一度その手に取り返せるのだろうか。
取り戻してほしいというのがわたしの願望だ。

「何かを抱え続けること」に即効性はない。
一見無駄なように見えるが、また無駄そのものかもしれないが、その無駄こそがあるときわたしたちを助けてくれる。

わたしに一人の息子と娘がいる。
どこがどうというのでもないが、長年見てきているだけにあのときの彼は、彼女はオレを助けてくれたなあという思い出がある。
彼らの存在それ自体がオレを助けてくれたのだった。
それだけのためだけであっても――

「愛されてもいない相手を好きになる趣味はない」と書いたわたしだが、一瞬の愛であっても愛を与えた人とその恩は忘れない。
この身の内には「抱え込んだひとがいる」、「抱え込んだ風景がある」、同じように「抱え込んだ問題」もある。
抱え込んだものたちが何かをすぐにしてくれることはないが、知らないうちに何かを手渡してくれることがある。
「抱え込む」作業には、いいことがあるからとかそのほうが生きていくのに有利だとか、そういう安直で確かな理由はない。
ただ、そうしていたいからそうするだけのことだ。

ここにそのことをわざわざ取り立てて書いているのは、しっかりした理由や効果がないと、なにをするにしても批判の目が集まる風潮のこの世の中で、もしもあなたが何かを抱え続けているのなら、ああ、それはすばらしい、と語ってみたかったからだ。

黙っていつまでも「抱きしめ続けていてください」そう書いてみたかったのだ。

外はポカポカと春めいてきている。
梅の香でも探しに行こうではないか。

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2008年3月12日水曜日

エレクトラ

「エレクトラ」を読了した。
この本によってわたしは「中上健次」「高山文彦」、二人に出会うことになる。

高山文彦は長くこの人はと思っていたノンフィクションライターだった。
その契機となるのは、確か夕刊紙に載った彼の青春の思い出を綴ったエッセーだった。
詳しい内容は忘れたが、その忘れた内容で「この男は信用できる」とわたしは判断した。
その後、彼の著作は追いかけたが、どれも最後まで読み進むことができなかった。
「火花」「少年A」[14歳の肖像」…
半年前に「水の森」を読み返したとき、やっと、この男、文章に心を織り込めるんだなとわかった。

そして「エレクトラ」。
この作品を一気に読み干した。
読み干したあと、これからは高山氏の作品はどれでも読めるようになるだろうという感じをもった。
ようやく彼の作品を読める目がわたしに宿ったのだろう。

「エレクトラ」はサブタイトルに「中上健次の生涯」とある。
この作品で、わたしは高山氏によって、中上健次を紹介された。

中上健次もわたしにとって、どこか知らない世界の人だったし、たまに手にとって見ても何がどうなのかまるで見えなかった。
それは見えないはずで、座っていたのは大蛇の背中だったというようなことである。

高山氏によって見せていただいた中上氏の全体像がわたしには見えていなかったのだ。
ほんとうに何も見てこなかったんだなという思いとようやくたどり着いたわずかな安堵とうれしさが交錯している。

とにかくく「エレクトラ」で新しい出会いがあり、見えないものが見えるようになった。
肉体的に視力は減退し続けていくのであろうが、もうひとつのものを見る力でのぞくこの世界は、わたしのいままで見てこなかった世界だ。
毎夜毎夜、恥ずかしげもなくよくぞ酒を飲んでこられたものだ。
ディレッタントに落ち込んだ連中の相手をしながら、よくぞ時間をどぶに棄ててこられたものだ。

いま見えかけているこの世界、もう少し見続けていたいと思う。
「のぞきからくり」のように、「押し絵」のように、わたしをどこかへ連れて行ってくれるかもしれない。

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2008年3月11日火曜日

読書




このところ、わりと本を読んでいる。
結構当たりはいいが(いい本に出会う確率)、エンターテイメントとなるといい本に当たるのは難しい。
こういう風に読んでくると、宮部みゆきなどはずいぶん打率の高い人なんだな、と感心したりもする。

一体にエンターテイメントのジャンルに入る小説はページターナーの属性を幾ばくかは背負わねばならず、そのポイントで作品を深めるという方向性の維持を難しくしている。
最近読んだのは、「沈底魚」と「悪人」で、「沈底魚」は、最近評判の乱歩賞を獲得した小説だが、資料の読み込みとそれを小説に生かす技に長けていた。
だから、読んでも損はしないし、今の国際間のスパイ合戦はこうなっているのかがわかって興味深い。
しかし、娯楽どまりだろう。(もちろん娯楽のために書かれた小説であるのだから、「娯楽どまり」はこの小説の批判にはならない。ご注意を。)

もうひとつの「悪人」は吉田修一の作品だが、さすがに前の「沈底魚」と比較すると圧倒的に人物造形に長けていて、話に深みをかもし出している。
その結果、幾人かの登場人物を通してこの国の社会のありようも見えてくる秀作だった。
しかし、それはこの社会の描写であって、登場人物にこれからの可能性を感じさせるところまではいっていない。(あたりまえだろう。エンターテイメントとして閉じなければならない作品なのだから、そのなかに息づく人間に可能性を大きく出してしまうと、作品としての欠損になりかねない。)

さて、今夕、小田実の「終らない旅」を手にとって、そのラストに近い部分を読んでみた。
以下、少し引用する。


<I>と<YOU>の関係からそのまま<WE>へと自然に移行して行くことも、あり得ないことではないと思った。そして、その想像は、決して不愉快なものではなかった。


ここだけ読んでもわかりにくかろうが、これは小田さんと玄さんの関係を匂わせている。
小田実が、ひとりに話すときも何千人を相手に話すときもそのスタイルを変えないということを驚きをもって教えてくれたのは、鶴見俊輔だったが、小説になっても小田さんの場合、そのスタイルをあまり変えないみたいだ。
それは、こういう風にも書けるよと言っているようで、わたしにとっては、ずいぶん励ましになった。

もちろんこういったことをエンターテイメントに望むほうがどうかしていて、このような出会いは、やはり小田さんなり、色川さんなりに求めるものなのだろう。

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違う風景を見せておくれ


先に紹介したETV「小田実特別番組」のラスト近く、玄順恵がスタッフに、夕映えに広がる「いわし雲」を気づかせるシーンがある。
そのシーンを眺めながら、このように小田さんもいくつかの風景を見せてもらったのだろうと感じた。

玄順恵は美しい女性である。
「九条の会」でお見かけしたときそう思った。
しかしながら、彼女と小田さんがいっしょになる前後の写真を見るとそのころは飛び抜けた美人でないことがわかる。
小田さんも動きのない静的な写真を見る限りだが、あまり今ほどの魅力はない。
(あくまでも姿形の話に限定してのことだから、ご注意を)

おそらく、彼らの三十年余りの、ともに歩いた生活が彼らをあのように育てたのだろう。
そして、内面はともかく外から眺めていても美しい寄り添う二人の風景になっていったのだろう。

ある人とある人がともに寄り添うことでこのような歩みをもてるということは、そうそうあることではない。
そうそうあることではないが、まったくないわけでもないのだ。
自分に違う風景を見せてくれる相手、そして、その相手の目に自分の目を素直に重ねられる自分。
そういう関係はある。

人間関係に関して、憎憎しげなことばかり書いているわたしだが、人間関係の可能性を忘れているわけではない。
相手を憎んだり蔑んだり批判したりするだけが人間関係ではない。

ともにいることで、二人して歩んでいくことでしかたどり着けない道をたどることもできるのだ。

小田さんは玄順恵を「人生の同行者」と呼んだ。
あたりまえのことだろうが、かけがえのない「同行者」だったのだろう。

思い出してしまったので、重ねて同じ番組の感想を書いておくことにした。

願わくば、そういう誰かに皆さんが出会われることを望む。

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2008年3月10日月曜日

鍛えの入った一手

コトバの重みのことを書いた。
実は、このことをわたしはいまも考えている。
わたしの頭にいつもあることのひとつだ。
鶴見さん風に言えば、「親問題」に近い「子問題」だ。

「親問題」とは、かなり荒っぽく言えば、「解決不能な人生の大きな問題」だから、それに近い「子問題」の「コトバの重みとは何か」も一般的には、かなり解決不能に近い。
ここで、「一般的には」と入れたのは、ある人が言葉に重みをつける技術を持っていたとしても、私自身が言葉に重みをつけることに大きくプラスにはならないことを気にしてのことだ。

いくらイチローがバッティングについていろいろしゃべってくれて、実際に彼のバッティングフォームにこの目で接しても、彼のように安打が製造できないのと、似た話をしている。

皆さんのあまり知らない将棋で言えば、将棋の駒なんかごくごく軽いもので誰にでも動かせるのだが、それがたとえば羽生善治の指によってひとマス移動させられたときに、「鍛えの入った一手」だとか「読みの入った一手」だとか、はたまた「羽生マジック」、「驚異的な一手」…さまざまに言われる。

同じように、あなたもわたしもその将棋の駒を動かせるのになぜ羽生の動かした駒だけが、光るのか?

日本語を鶴見俊輔と同じように話せるのに、(もちろん、厳密には同じではない。否、否、否)なぜ彼のコトバだけが重みを持つのか。

それは、おそらく「鍛え」の差だと思う。
どれだけその「思い」と長く暮らしてきたかによるのだと思う。
その「思い」と共にいる長き暮らしの中からゆっくりと滴るしずくを集め、そうしてそれを…、の結果、吐き出されたコトバだからだろうと思う。

さて、ここで、ここまでのところを私自身で読み返したのだが、結局は、なにを書いているのかもうひとつわからないのだ。
申し訳ない。
まだこの問題との添い寝が足らないようです。

でも、まあいいのだよ。
「コトバの重み」という問題に長くつき合う覚悟さえあれば、必ず見えてくる。
このコトバは重い、このコトバは重くないって。

それで?

さあ。

これはわたしにとって大事なことだから、「コトバの重み」が具体的にわかることは、わたしにとっては大きな実感があるが、「コトバの重み」など大事でもなんでもないならば、どうでもいいことだろう。

もちろんそれでいい。
ただ、「鍛えの入った一手」を見るのは、とても心揺さぶられるものですよ。

いいと思うのだがな、そういう瞬間を自分が作り出すことができた実感をほんのわずかでももってみることは。

妄言多謝

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いまだに、知らない自分に出会えるのか

断酒を始めて三週間ほどになるが、わたしの予期しないことが起こっている。
あの酒飲みで鳴らしたわたしが、このところ酒のことを忘れかけているのだ。
飲むのを我慢するというレベルではないのだ。
ときどき、酒の存在をきれいさっぱり忘れるのだ。

酒が、嫉妬深い女なら(事実嫉妬深いのだが)、あたしゃ殺されているね。
「あなたとあたしはなんだったのよ」
なんて、えらいことだろうな。

しかし、わたしだとて知らなかったのだ。
まさか、酒を忘れるような事態になるなどとは。

わたしに酒はまったく必要なかったのか。
もちろん、アルコールにあれだけ親しんだわたしのことだから飲み始めればまた元に戻るのは見えているのだが、それにしてもだ。
わたしに酒が、果たして必要であったのかは考える必要がある。
その先には、人に個人的に必要なものを判断する力はあるのか。
人に必要なものはなにかを判断させてくれるのに十分な要件とは何か、というところへつながっていく。

わたしは、酒を忘れてしまう自分の姿をイメージしたことはなかった。

ということで、タイトルだ。

「いまだに、知らない自分に出会えるのか」

とにかく、知らないことだらけだワイ。

だからさ、あなたもそこら辺の誰かに何か言われたって、気にすることはないからね。
その誰かが、わかっているはずはないもの。
おそらく何もわかっていないに違いない。
その証拠にあなたにアドバイスか何かしただろう。
それが証拠だ。
何を教わったか知らないが、ものを考えている人間が要もないにもかかわらず、軽佻浮薄に話すことはない。

いや、もしかしたら、あるかもしれないって。
そりゃあそうだ。
だったら続けよう。

そして、さらに大事なことは、われわれは彼なり彼女なりの話がどの程度のものかを量るには、内容で判断してはいけないということだ。

では、どうするか?

すべからくコトバは重さで判断しなさい。

どうやって重さを量るかって。

それが難しいんだよ、ご同輩。

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2008年3月9日日曜日

小田実氏の番組を見て


ひとつ前のブログで「当事者と傍観者」なることを書いたが、あれから一日もたっていない今、小田さんの思い出、あるいは言説を綴った番組を見て、「あのブログ、ずいぶんとえらっそうだったワイ」と語気とは裏腹に、クシュンとなってしまっている。

だいたいが、わたしなるものは当事者として本当に生きてきたのだろうかねえ。
そう思い始めてしまう。
だが、考えるのはよそう。(また、夢になるといけねえから…「芝浜」じゃないんだから)

「見る前に跳べ」ということだろうな。

ああ、まいった、まいった。いい番組だった。

要は、当事者であっても前に進んでいない当事者もいるわけで、そのあたりがせつない。
わたしの場合は、おそらくはわずかながら前に進んでいるのだろうが、それを進んでいるというのか、むしろ止まっていると言ったほうがよくはないか、というところか。

当事者は、当事者らしく前に進めということだろうな、良くも悪くも、結果など気にせずに。

悩んだり、憎んだり、後悔したりしていてもたいして役には立たんということだろうな。
それでも、悩みはするだろうが…

まず、前向きにいかせていただきます、ぼちぼちと。

ところで、小田さんも言っていたが、この国は、やはりかなり間抜けらしいぞ。
それだけは知っておこう。
それを具体的に知ったその後どうするかは、それぞれの問題だが、この国がひどいものだということは、知っておいたほうがよさそうだ。

それが、市民の義務だろう。
小田さんのコトバで言えば、そうでないと「大きな人間」に「小さな人間」が振り回されてしまう。

これは小田さんに教えられた手前、はっきり書いておきますが、どのようなことをしていてもそれはわたしとあなたの自由ですが、この国の状態がどうであるか、この国がアメリカに対して、アジアに対して、われわれに対して、…どのような態度であるかは知っておいたほうがいい。
なんなら、小田実を図書館で覗き見すればいいではないですか。(小説じゃないほうの作品をね)

で、さらに書きますが、今、この国で、広げて世界で何が行われているか、大事なことを知らないのは罪だと思います。(何が大事かというのは、はしょりますね。)
もう一度繰り返しますが、知った後は、あなたが何をしようがあなた人生ですもの、自由です。
ただ、知っておかなければいけないこともある。
そういうことです。

まあ、牛の歩みではあっても、愚痴ったり、人を憎んだりしないで、少しでも足を踏み出していこうではないですか。
もちろん、どの方向へ、足を踏み出すかは、あなた自身の決めることです。

よくよく見ていると、ごっつい人があちこちにおられて、恐縮至極です。

明るく陽気にいきましょう。(ぴろき風に)

ラベル:

当事者と傍観者

このタイトルで以前も書いたような気もするが、大切に思っていることなのだから自戒を込めて、何度書いてもよかろう。

今朝のTBS「時事放談」に鶴見俊輔氏が出演されていた。
異常なことだ。
彼は必要以上にはテレビに出ることを好まなかったはずである。

そのとき、彼が話したことは
「いまの日本の人々には当事者の意識がない」
ということだ。

つまり、道路特定財源はあなたの問題であるはずなのに、傍観者然として何の反応もしない。
出発点がおかしいんですよ、ということを言っていた。(ニュースで見ただけだから細部は危ない。)

しかしながら、こういう現実は鶴見さんは先刻ご承知のはずである。
にもかかわらず、なぜにテレビまで出演して語ったか。
この社会が、とても危ない状態に来ているという認識なのだろうか。
しかし、この日本に対する絶望は、四五年前に京都でお会いしたときにすでに語っておられた。
それが、なぜ今になって、こうも躍起に。
小田実死去ということもあろう、あるいは自分の身体に対するある予感もあるのだろう。

3月1日には我孫子で柳宗悦について語る講演も引き受けておられた。
(出来れば、もう一度お会いしたい。)

話がそれにそれた。
それたついでに書く元気もなくなってきた。
それでも…

人は自分として生きていく。
その自分は、まさに当事者としての自分だ。
自分が見たものを自分で考え、自分で行動し、自分でその結果を負う。
そしてまた同じように自分で進んでいく。
自分が自分であり続けるというのはこういうスパイラルの軌跡を描いていく運動だ。

もうひとつの態度がある。
それが傍観者である。
人がすることにあれこれ批評をし、自分の位置をこれっぽっちも変えようとしない姿勢、だがそれはいい。
傍観者であることがもっとも恐ろしいのは、自分に対しても傍観者になってしまうことである。
つまりは、自分を棄ててしまうのである。

マスコミや誰かの言ったこと、主張することをいとも簡単に自分の考えや思いとすり替えてしまう。
そうすることで、うまく立ち回っていくが、立ち回り始めたときには、なし崩し的に自分は消失する。
そして、傍観者たちはどうやらそうすることが気持ちいいと思っているきらいがある。

まあ、そうしたほうが楽だしね、何しろ当事者として生きていないから痛みを持つことはないし、感動は人からもらえばいいし、楽しみもマスコミのいうようにやっていれば楽しい気分にはなる。
もし欠けているとしたら、当事者としてしか味わえない「本気の味」だろう。

「本気の味」

ひさしぶりに語る言葉だ。
この味を知ってしまえば、傍観者であることはつらくなるが、知らなければ傍観者として安穏として生きていける。
もちろん生きているのはあなたではなく別の誰か(=国家やマスコミによって作られた都合のいいステレオタイプの人間なのだろう)なのだが、それに気づくことはない。
恋愛でさえ、他人の目を気にする。
傍観者の悪しき性癖だ。

まあ、いいさ、そうやって傍観者として生きていくのも。
ただ、望むならば、自分が傍観者として生きていくことを選び取ったということを認識してほしい。
その認識さえあれば、あなたは当事者へとオセロのように裏返る。
めんどくさく言えば、当事者としての傍観者となり、いつの日にか本格的な当事者として登場するかもしれない。

なにか、傍観者である誰かに対する批判のようになってしまったが、じつは、これはたくまれたもので、そのようにこの国は出来上がっている。

「そのように?」

そう、そのように、つまり傍観者を再生産するように。

それはいつ誰が仕組んだのか。
ここまで書いてきて、はっきりと思い出した。
この文脈は以前も書いた。(進歩ないねえ)

そのことを明らかにするのは、社会学者たちの仕事だ。

鶴見さんは今朝のテレビで言う。

「傍観者じゃだめだ、当事者でなければ、この国の多くの人々は出発点から間違えているんだよ」

しかし、私は依然彼から同じ文脈を聞いた。
そのとき、彼は確か、そう追い込まれていくシステムがこの国にあるようなことも同時に言っていた。

当事者である人々は、いま連帯できるのか。
それよりも何より、当事者はいまこの国にどれくらいいるのか。

「おまえが一番の女だ」と言うとき、腹の底からそのセリフをはける当事者がどれだけいるのか。

「もはやどうしようもないところまで胃がんは進行しています」
そう医者に宣告された小田実と妻、玄順恵(ヒョン・スンヒエorスエ)は部屋に戻ってからも押し黙ったままだった。
しばらくの沈黙のあと、小田は顔を上げて順恵を見た。

「おまえは、いい女だった。オレの知っている中で一番いい女だった…」

それから…小田は少し間を置いた。

窓際からは、薄日が差している。
よく聞けば、遠くに小鳥のさえずる声も聞こえる。

いたずらっ子のように小田の目が光った。

「けど、オレもなかなかの男だったろう、順恵」

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2008年3月8日土曜日

「九条の会」


「九条の会」については、それぞれの方が、それぞれのご意見をお持ちだから、それはみなさんにお任せする。
わたしは、今日の「九条の会」で見たある景色をここに写し取ることをこのブログでしておくことにする。

それは、85歳を越えようとする老人が、まさに85歳を越える老人の姿をし、壇上に立ち上がり、そして、いすに腰掛けながら話し出したとき、老人が、瞬く間に若者にメタモルフォーゼするその瞬間のことだ。
こういうことは、ごくごくまれに起こる。
それは、加藤周一氏の講演のときに見たことがある。
そして、今日は、身びいきになってしまうが、鶴見俊輔氏の中に見た。
何と若々しく力強い語り口なのだろうか。
ものを考え続けるという作業が彼をここまで連れてきたことは実感できるが、その道のりまでは、わたしにははっきりとはイメージできない。

しかし、今日の講演で彼が口にした。

「自分がいま見たこの世界を大切にする」

という亡き小田実の流儀でいけば、わたしも目の前で語る鶴見さんの姿や声を大切にしていけばいいのだなと、思う。

内容は、ここで書くのはよそう。
それは、それぞれの方が、実際の鶴見さんの文章で出会えばいいことだろう。
ただ、参考までに本日の講演ではないが、2004年8月13日『憲法九条、今こそ旬』の講演内容から一部を引いておくことにする。


★「個人として、人類の歴史として、何かがあったから法がつくられたのです」
「法の前にあるものがとても重要だ」
 鶴見氏は続ける。
政治を捉えるには広い解釈が必要であり、例えば家庭の親子関係など「人間の関係から政治は始まって」おり、つまり「家庭は政治とつながって」いて、「国会の中にあることだけが政治ではなく、政治を職業政治家集団に委ねてはならない」
「私が理屈として言いたいことはそれだけ。今日は、法の底にあるものについてお話したい。私の中に生きていることだけをお話ししたい」と鶴見氏は述べた。


★鶴見氏はアメリカの捕虜収容所にいた際、日本に帰ることができる「交換船」に乗るかどうか、選択を迫られた。
彼は「監獄の中にいても、アメリカにいれば生き残ることができる」と考えていたし、「日本は確実に負ける。そして日本国家がいいとも全然思っていなかった」と言う。
しかし、「乗る」と答えた。
 その理由を、鶴見氏は、愛国心でも何でもなく「負ける時には負ける側にいたい」というぼんやりとした「哲学的信条」にあったと言う。
鶴見氏は「自分にとって重大な信条とはぼんやりしている。
明示的にはっきりと命題にできるものは必ずしも自分を生かし、支えていく重大な信条ではない」と語る。「自分を支える哲学の底には自分が分かっていないものがあるのです」

これに対しての感想は、あなたとわたしでは違うだろうが、少なくともうわべの意味内容ではなく幾層にも重ねられた思弁の中から、ようやく取り出され、それをようやく表現したものだと、わたしは知っている。
ここに、ひとつの思想家の姿があるとわたしは思っている。

もちろん、これはいまわたしのたどり着いた感想であるし、それ以上の意味は持たない。
したがって、鶴見氏の発言内容について議論する気はさらさらない。

わたしが述べているのは、鶴見氏が2004年8月13日『憲法九条、今こそ旬』の講演のなかで、このようなことを語ったというだけのことです。

そして、ときとして、内容を吟味するより、まずはその発言をそのまま身の内に取り入れてしまうことが大切なことがあるということを付け加えておきたい。
これは無批判ということではなく、身の内に取り入れずに何かをいうことではなく、身の内に取り入れてしまって、その内容と幾日か幾ヶ月か暮らす中である考えが自分のなかに湧いてくるのを待つという作業が、思考するには必要なときがあるというわたしの判断を言っているのです。

そうではないと思えば、そうではないようにすればいい。
いつも書くように、たいていのことはあなたに任されているのだから、いらぬ心配はいらない。

本日の九条の会は『小田実追悼会』であった。

「一人でもやる。一人でもやめる。」

小田さんの生前よく口にした印象的な言葉でこのブログを締めることにする。

鶴見さんが、ここまでよく生きていてくれたことに感謝する。

そして、深々と小田さんに合掌。

ラベル:

小田実追悼会に行く前に

昨日上野千鶴子氏のことを書いたが、さらに加えておくことにします。

この書き手は、切れ味の素晴しいセリフを好む。
その嗜好がどこから来たのか、深くは知らないが、その太刀さばきはかなりなものである。
こういう文章には、その切れ味のよさのためにほころびが見えてしまうのだが、彼女は、そのほころびを縫う社会学での修行がある。
そいったところが、彼女の強みだと思う。

彼女の剣が打ち伏せたものに目をやれば、そうではない敵がいなかったかというような、批判を出したくなるが、それはあまり意味はない。
そういうものは、彼女の見逃したものが、あまりに大きいときに真っ向から彼女にぶつければいいのであって、彼女のいないところで、つまらぬ荒捜しをしてもあなたの身にはならない。
これは、誰に対する批判についても同じだ。

そして、言わずもがなだが、批判をするにも相手を選ぶ必要がある、という認識は大事なことだ。

以下、彼女に教えられたことのうち二三の例を挙げて、小田さんの会に行くことにする。

もちろん、すべてに感服しているわけではないうが、そうではないのではないか、という疑問よりも、彼女に教わったことのほうが大きい。


「家族のメンテナンスを怠ってきたからこそ、男は家庭に居場所を失ったのだ。」
「ほうっておいても保つような関係は、関係とはいわない。無関係というのだ。」
「愛し合ったらコトバはいらないが、そうなるまでにはコトバがいる。」(石川好からの引用)


すべて、わたしに抜けていた視点だ。

わたしは、それでも、このようなことを無視して、「コトバのいらない愛し合った世界」に、「「居場所のある家庭」に「ほうっておいて保つような関係」に、別のルートから入っていけると思うが、そのようなことをここで語るより、上野さんに教えてもらった視点のほうが大きい。

「人を信じることが、あなたには必要だと思う。たとえ、それで裏切られようとも、あなたには人を信じるということが必要な気がする。」

これは、東氏が柳美里にいったコトバだという。
正確な文句かどうかは危うい。

この東氏のコトバと上野氏の発言の差を考える値打ちはある。
それは、批判ではなくあなた自身、わたし自身の中に入ってくる何ものかをもたらしてくれると思う。

単なる予感だが、確かな予感だ。
これを「気配」という。

時間が迫ってきた。

昨日に続けてここに記しておくが、わたしは、上野さんから少なからず教えられた。
ありがたく思っています。

では、再見!

ラベル:

2008年3月7日金曜日

さすがは上野千鶴子


「おひとりさまの老後」を読み通しました。
読後感は、やはりよくお考えだということです。
男に対してあまりに手厳しいと思ったが、よくよく読めば、わたしの男に対する認識が甘かった。
いろいろ教えられたデス、ハイ。
また、思考するという行為をよく鍛え上げられています。
何かしら彼女に失礼なことを書いた気がしますが、上野さんは、ものを考える、ものを見る力のあることをここにご報告申し上げます。
その方向性については、それぞれのみなさんでお考えください。
実は、方向性のほうが重要であるという議論は承知の上で。

しかし、人を批判してもろくなことはない。

私は、つまらないものは見なかったことにする、
素晴らしいと思ったものは、素晴らしいと語る。

と城戸さんは、自分の在り様を語るが、まことにもっておっしゃるとおりで、つまらないものをつまらないと騒いで、足しになることはない。
だからこそ、「最も高いところで討て」ということになる。
おそらく、そこそこの人物であれば、批判するべきポイントがあり、それはその人の最も重要なところにあるというようなことなのだろうが、そういった条件をつけなければ、批判になんらプラス要素はない。

そう、しみじみ思い、男のだらしなさも加えて、赤い花のお茶をすすりながら考えている夜である。

明日は、小田実の追悼会に渋谷に出かけます。
どなたか行かれる方はいらっしゃいますか。

ラベル:

いかなる状態であっても

正岡子規の「病床六尺」を読んでいると頭の下がる思いがする。
南木佳士の「トラや」になるとそれが少し身近になるが、身近にはなるものの彼の生きる姿にある距離を感じるほど真剣に自分と自分のまわりに対していくこの小説の中身は、南木さんが、たくまずにいたものだろうが、滋味があふれる。

「トラや」という本のなかには、このブログで展開した多くのことが、さらに深い眼差しで書かれている。
頭の下がる思いだ。

このブログのどこかの箇所に何かを感じていただける人ならば、この一冊を読むことによって、多くのことをわかってもらえると思う。
そのことを南木さんは、自分のうつ病体験の中から拾い出していく。
そこに「トラ」という猫を添えたのは、南木さんの小説家としての技量である。
ただし、これは技術的なことではなく、「トラ」がいなければ、この小説は成り立たないと感知した彼の才である。
ここまで丁寧に書かれると、なるほど、わたしのブログに書いた内容のある進むべき可能性の一つも見えてくる。

しかし、まあ、このしんどいときにこんな本によく出合せていただいたものである。

誰かが、どこかでわたしを見てくれているのかしらん、と思ってしまいそうになる。

がんばらずに、少しだけ生きていこうと思う。

ラベル:

2008年3月6日木曜日

血圧、下がらず

残念ながら、血圧異常は続いていた。
あと、一ヵ月後に最後の検査を受け、だめなら、副腎から直接血液採取、そしてどちらかの副腎が異常であると発覚すれば、その副腎を摘出する。
そうすると七割か八割、血圧は戻る。

とにかく隘路に入ってしまった。
一ヶ月は、できるだけのカリウムとカルシウムと食物繊維を取り込み、軽く歩く。

ああ、これじゃ何のために生きているのだか…。

しかし、先哲の寸言にある。

「ほんとうの決断とは状況判断することではなく、状況そのもをひきうけることなのだ」

この何もかもがしょうもない人生を、肉体も、精神も、経済的にも、家庭的にも…何もかにもだ。
すべて、引き受けることにしようではないか。

一ヶ月のトライの後、副腎から直接血液採取に応じることにしよう。
そして、その後の判断は、医者の言うとおりだと、そのときわたしが判断したら、そのままそれを受け入れることにしよう。

乗りかかった船だ。
できるだけ、胸は張っていたいな。
風切る船の船先に猫背じゃ、絵にならんだろうからな。

ラベル:

ふと気がついたのだが…

ものの本を広げてみると、
「ナトリウムは通常の食生活ならまず不足することはありません。逆に過剰摂取が心配させることから、摂取量制限が叫ばれているミネラルです。特に日本人は醤油や味噌をはじめとして、食生活に塩分が多く取り入れられているという環境にあります。 」

といわけで、わたしは「アルドステロン」がナトリウム貯蓄をうながすホルモンなら、徹底的に塩分を控えてやろうかと考えついたわけです。
もちろん、検査の前、数日間の話です。

わたしは、愛がほしいのではないのです。
愛のようなもの、わたしが愛と間違えてとらえてしまうものがほしいのです。

身体がたとえよくなくても、よい検査結果がほしいのです。
そして、その数値を残すすべを会得しておきたいのです。
わたしの身体もまた、わたしとともに生きていてほしく、暴走はしてほしくないのです。

このような極端な塩分制限対策に気づいたのは、今日なので、朝からしか出来ませんが、それでも何らかの効果があればいいな、と思っています。
「仮住まい」が「永遠の住処」となってしまうこともあるではないですか。

みなさんも、身体には十分お気をつけて。
身体が自分を裏切りだすというのは、これはこれでかなり鬱陶しいものなのです。

わたしでこれなのだから、
色川武大氏のナルコレプシーなどは、わたしなりの想像はつきますが、わたしの想像を離れて、ひどい状態だったのだろな、と他人事ながら、思います。

色川さんとは一度だけお会いして、少し話をしていただいたことがあります。
生意気な若造であるわたしにも、あの人は、やさしい人でした。

この場合の「やさしい」というのは、わたしのような瑕瑾だらけの若造さえもそのまま受け入れてくれたという意味です。

この人は、とわたしの眼を見開かせてくれた人の一人です。

ラベル:

2008年3月5日水曜日

久しぶりの虎ノ門病院

明日は、久しぶりの虎ノ門病院。
副腎の専門医、竹下さんのところへ行く。

病状は、何、たいしたことではない。
おさだまりの高血圧なのだが、わたしの場合は「原発性アルドステロン症」に端を発する高血圧で、少し治療がめんどくさい。

この「原発性アルドステロン症」という病気は、副腎にできた腫瘍のため「アルドステロン」というホルモンが過剰に出ることを言うのだが、この「アルドステロン」は、ナトリウムを溜め込んで血圧を上げる作用をするホルモンで、こいつが異常に出ていると血圧も異常に上がって、そのうちに脳卒中や心臓肥大で死ぬというコースをたどることになる。

で、どうするかというと、まあ簡単な話で腫瘍をとるわけである。
ところが、わたしの場合はさらにややこしく、その腫瘍が見つからないので、困ったということになっている。

この場合考えられるのは、まれな話だが両方の副腎が大きくなってしまう過形成による「原発性アルドステロン症」だが、竹下さんはもしかしたら、とても小さい腫瘍があるかもしれないから、そいつをカテーテルを大動脈に入れて調べてみましょうと言っているが、あたしゃいやだよ、恐いもの。

ほんとうは恐くないらしいが、でもなんだかねえ。

それで、ちょっと様子を見てみましょうと、竹下さんをくどいて薬物療法をしているわけだ。
でも、このままずっと薬物療法では、なかなか血圧は下がらず、いずれ脳卒中や心臓肥大に到る。
そうなると、身体のどこかに爆発が起きることになる。
そのままどこかへ行ってしまえればいいが、半身不随や寝たきりになったら目も当てられない。

てなわけで、昨今は少し生き急いだり、呑み急いだりしていたわけだが、考えてみれば、実に小心な男である。
さらに思い巡らせば、実にしょうもない奴で、覚悟があるとすれば、そのしょうもない人間である自分を生きていこうという意志ぐらいのことだろうか。

わたしに最後にできるのは、そのしょうもない人間を受け止めて生きていく姿を作品化することか。
作品化といっても、これもしょうもない話で、わかりやすく書けば、感傷の飾りつけをせず、あるひとつの童話のように、そういった人間のありようをみなさんにお見せしたいな、ということです。

そこに無垢の魂が宿っていれば、それはとてもいい話なのだが。

というわけで、しょうもなさをしょうもないまま受け止めることに、無垢の魂は嫌がらずに一緒にいてくれるだろうかというのが、当面のわたしのとても気になることなのです。

とはいえ、なんにしろ明日は虎ノ門の竹下さんと少し話をしなければなるまい。
自分の今から目を避けて、「しょうもなさをしょうもないまま受け止めること」ができるはずもなく、そうだとしたら、つまり、目をそむけようとするならば、一瞬の後に無垢なるものはどこかに過ぎ去って行ってしまうだろう。

あれは、酷薄なところがあるからなあ…
しっぺ返しといったところだろうか。

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名づをけが、あなたを止めている


わたしが、人の目から見て「呑んだくれ」としてそこにあるのならば、「呑んだくれ」として過ごせばいい。
しかし、わたしが実は「呑んだくれ」という役割を安直に演じているにすぎず、本来の(この「本来」というところが物議をかもすところで、こんなふうに使ってはいけないのだ、甘い言葉の使い方だと、しばし反省しきり。)わたしがどこか他にいるとしたら、それを探すためには、まずは「酒をやめる」こと、「呑んだくれ」を演じるのをやめることから始まるのは事の道理であろう。

というような話を書こうと思っていたのだが、それはまた次にさせてください。
ふと今日、思ったことを書きつけさせてほしい。

いくつかのモノグラフになりそうなことを書きなぐっていく、こういうわたしのブログのありようを深くお詫びし、それでも読んでくださる、あなたに感謝いたします。

このブログであったろうか、わたしは、私自身に「帰巣本能」や「営巣本能」がないことを書いた。
いわば、そのように自分自身を言葉によって決めつけたのだ。

「言葉によっての決めつけ」から敷衍して「名づけによる立ち止まり効果」というわたしの造語の話をさせてください。

わたしは、きれいになった我が家の中にいてそれでも残っているほこりや汚れに目がいくようになっている自分に気がつきました。(かみさん指示のもとに部屋を掃除したのでした。)
それは、このごろのことです。
そして、本日はっきりわかったのです。

わたしには、今まで見えていなかった部屋のなかのゴミやすすやほこりや汚れが見えるようになった。
さらに、そのことがとても気になる。

わたしの母は毎日家を掃除していました。
それは、昔の女たちにとっては、哀しい日常だったのでしょうか。
そのことをわたしは詳しくは知りませんが、母の掃除姿はいまだに目に焼きついています。

そういうことを考えながら、気がつけば、わたしは雑巾がけをしているのだ。
その行為は、心地よくさえある。

わたしは自分に「営巣本能」がないと書いたし、そう思ってもいた。

嘘である。

その「決めつけ」がわたしの別の姿、「本来(=おそらく)」そうであったろう姿を見えなくしていた。
「営巣本能のない男」というわたしによるわたしへの「名づけ」がわたしにそこへの「立ち止まり」を強要していたのだ。

知らない自分と出会ったのは、かみさんとの関係がもたらしたものだ。
その新たな自分は私自身の行ったわたしへの「名づけ」の放棄から始まった。

「名づけ」はいたるところで行われている。
わたしに関してだけ振り返っても、いたるところで行っている。

問題は、その「名づけ」が間違っているかもしれないという意識だ。
もしその意識を意図して持たなければ」「名づけによる立ち止まり効果」は明らかに発生する。
あなたが名づけたようにあなたは振舞うようになり、そのようなあなたにあなたはなっていく。

ああ、たくまずして元の地点に戻ってきた。
「呑んだくれ」という名づけにもその効果はある。
おまえは、ほんとうに「呑んだくれ」という名づけのもとに生きている男なのか?

きれい好きな、営巣本能に長けたこのわたしは、そのように自問してみるのだ。

我が断酒はさらに続き、「呑んだくれ」という役割で生きていく安らかなる場所はさらに遠ざかっていく。
おまえは何ものだったのか。

『狂人日記』色川武大著をもう一度読み返そうと思っている。

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2008年3月4日火曜日

目の前のコップならば…


目の前にあるコップならば、叩き壊せばその存在を消し去ることはできるかもしれない。
しかし、思想は違う、思想はコップのように叩き壊すことは出来ない。
では、どうすれば自分のなかからその思想を消し去ることができるのか。

目の前にあるコップならば、叩き壊せばその存在を消し去ることはできるかもしれない。
しかし、あの女への愛は違う、あの女がいなくなったとしても愛だけは残る。
では、どうすればその愛を消し去ることができるのか、その愛は決して残滓のように自分の中にあるわけではない、はっきりしすぎるほど、しっかりと残っているのだ。

時間だろうか。
そうかもしれない。
時間が記憶を薄らげてくれるから。
だが、もう一度その女が自分の前に現われたとしたらどうか、フラッシュバックしないのか?

やはり、ひとおもいに女を殺し、その殺した記憶を時間を頼りに消し去るのがいいのか。
ばかな、殺したとなるとそうも簡単にはいかんだろう。
あなたが、特殊な人間ならば別だけれど。

あまりに安直な結論で恐縮だが、その愛を消し去るためには新たな女への新たな愛をあなたのなかに生み出せばいいだけのことだ。
そのような女が現れず、新たな愛が生まれないとしたら、あの女への愛は残る。

あの女は、あの愛はかけがえのないものだったということになる。
壊しようのないコップをあなたの心に宿らせたことになるわけだ。

では、断酒中のわたしの酒への思いはどうだろうか。
同じように、酒への思いを越える何ものかがわたしの中に生じなければ、酒への思いは消えない。

で、わたしにはある。酒への思いを越える何ものかが、わたしのなかに。

だから、ここにときどき書かせていただいている。

その何ものかが十分にわたしの身体のなかに入り込んできたならば、その何ものかへの思いが消えるだろう。
これをして願いが成就したというが、そのように願いが成就すれば、思いは消えていく。

わたしは、戦地からの息子の帰還を祈願してお茶断ちをした亡き祖母を持っている。
わたしは、戦地からの息子の帰還を祈願して酒断ちをした亡き祖父を持っている。

彼らは、息子が戦地から帰ってきたときから、また、お茶を酒を飲み始めた。
息子恋しの思いが消えたからだ。
消えたから、お茶への酒への思いが浮上した。

酒への思いが消えていたわけではなかったのだ。
それ以上の思いが身のうちに宿っていたに過ぎないのだ。

わたしとても同じことである。
でなければ、酒などやめるものか。
あんなにわたしによくしてくれた酒をやめるわけがない。

酒も女も煙草も止めて 百まで生きた馬鹿もいる
(そうはなりたくないものだ。)

酒、歌、煙草、また女 ほかに覚えしこともなし

今回酒を飲まなくしているのは、すこしつらいがわたしにとっては大きいこととなる、うまくいけばだが。
つらいというのは飲めないからつらいという意味ではない。

「酒飲み」という役を演じられないつらさだ。

このことは、このことで少し長くなる。
また新たに書き起こすことにします。

できれば、お付き合いください。

ラベル:

「比べられるもの」あるいは「比べる必要のないもの」


写真は棋士番号222「木村一基八段」である。

昨日から今日の早朝にかけて「将棋界で一番長い日」がゆっくりと、そして時には濁流のごとく過ぎていった。
「将棋界で一番長い日」
「A級順位戦最終日」のことを将棋界ではそう呼ぶ。
詳しくは説明しないが、「A級」とは、「名人」に続く将棋棋士のトップ10と考えていただいてかまわない。
そのトップ10の総当たり戦が 「A級順位戦」である。
この順位戦での優勝者が、名人挑戦者となる。
今年度は、その資格を羽生善治、あの男が獲得した。
羽生の話は、また改めて起こしたい。
向こう見ずにまともに生き抜いてきた男であり、そして才能を磨きぬいた技術も持っている幸せなような不幸なような男である。
もちろん敬意をもって相対すべきことは言うまでもない、頭の下がる男だ。

さて、今回の「将棋界で一番長い日」には、もうひとつの焦点があった。
一秒に一億三手読むと棋士たちに敬意を表されている佐藤康光棋聖がA級陥落の危機にあったのだ。
最終戦に佐藤が勝てば、残留。
しかし、負ければ、事件になる。
その佐藤の最終戦の相手が木村一基だった。
木村は、あろうことかタイトル戦以外に棋士がめったに着用しない着物姿で登場した。
本気になって、佐藤を負かしに来たのだ。
言っておくが、この最終戦、木村にとって勝っても負けてもどちらでもよい勝負だった。
(正確に書けば、佐藤ほどの意味はなかった。)
それを、本気になって、佐藤を地の底に落としに来たのだ。

勝負は、圧倒的に佐藤有利な将棋を木村が、粘りに粘りひっくり返しにかかった。
おそらく、通常の棋士なら指さないであろう手を何度も指し、耐えに耐え、逆転のチャンスを待った。

そして、ついにそのチャンスは訪れた。
午前十時に始まったその将棋は、すでに翌日に入っていた。
もう、十二時間以上指し続けているのだ。
佐藤の顔が苦悩にゆがむ。
一方、木村は涼しく、美しく、わずかに輝きさえしている蛇蝎の顔をしていた。

将棋のわかる方は、棋譜を並べてみればいい。
その逆転後から両者は一分将棋に入る。(一分以内に指さないと負けというルールだ。)
そのなかで、木村は詰みを逃す。(勝っていたのに勝ちきれなかったというほどの意味。)

佐藤勝つ。

時刻はすでに午前一時を過ぎていた。
佐藤A級残留決定。

インサイダーで有名なNHKの衛星テレビでやっていたので、ご覧になった方もいるだろうか。
その番組はこういう空間が、いまの日本にもあるといった空間を映し続けた。

その間、間の抜けたNHKアナウンサーの言葉が入り続ける。

「おまえは黙っていればいいのだ。おまえのその穢れ切った言葉の一つひとつが映されているこの空間をどれだけ台無しにしているのかわかっているのか。」

そう、わたしは、何度も思ったが、それは仕方なかろうとも思った。
このNHKのアナウンサーなる男は何も見えていないのだ。
目の前の空間が、いかなる空間か見えていないのだ。

みなさんは、目の前の空間が、誰の目にも同じように映るなどという迷信を信じておられはしまい。
だから、見えなければ、それは仕方がないことだし、その人に文句をいうこともできない。
ただし、NHKにそれが見える人がいれば、あの番組制作態度は疑う。
目の前の光景をナレーションのセリフが汚すシーンなど数えきれぬほどあるだろう。
そのためにあなたたちは映像作りに苦労するのではないか。

局後の二人の対局者の姿は、そのままそのありうべからざる空間を維持し続けた。

じつは、この番組には彼のNHKのアナウンサー以外に二人の解説者がいた。
二人ともプロ棋士である。
目の前に繰り広げられる将棋を前にして、ひとりは途中から黙った。
深浦康市王位だ。
もうひとりは、軽い言葉を発し続けた。
橋本崇載七段である。
若さがさせたわざかも知れぬ。

しかし、橋本さん、それはいかんだろう。

局後の対局室に現われた棋士がいた。先崎学だ。
木村の見逃した詰みを指摘しにきたのだ。
彼の評価も難しいところだ。

棋士たちは、何かを極めようとしている。
本人が、それを知っていようがいまいが、それは事実である。
そして、次第次第に極めることから何人かが離れていく。
選び取られた人間たちの中にもそういうことは起こる。

そのことは、あるとき比較して語られても仕方ないことだろうし、何よりも自分のありようと木村一基のありようを本人が比べなければならないだろう。自分が選び取ったプロという職業だからな。

「いいものを見ました」

テレビの中で橋本七段はそう語ったが、見えているはずはない。
テレビに映った顔、とりわけその目を見て思った。
でも、まあ、いいさ、君はまだ若い。
いつの日にか過去の将棋を思い出して見ることができるかもしれない。
人の記憶は何度でもトライさせてくれるやさしいところがある。
今日のところは、記憶に焼き付けるだけでもいいさ。

一方、深浦王位はなにもコメントしなかった。
見たのだろう。
彼は確かに見たのだろう。
それは、何かわからないが、おそらくわたしより数段深くえぐられるようななにものかだろうが、確かに彼は見たのだろう。
彼は強くなっている。そして、さらに強くなるのかもしれない。
深浦康一は来期A級に復帰する。
恐い存在になっているように思う。
れる橋本崇載七段?
ここしばらくはムリかも知れんな。

先崎学?
テレビに映った彼は、傍観者だった。
棋士があの勝負を当事者でなく傍観者として眺められるということは終わったということである。
先崎は棋士生命が終わっているのかもしれない。

かくのごとく、彼らは比べられるし、本人が比べられること、そして比べることから逃れることは出来ない。

彼のNHKアナウンサー?
彼は棋士ではないもの、比べる必要も意義もないでしょう。
彼はアナウンサーとして彼の思うように生きていけばいいだけのことだ。

さて、わたしはといえば、佐藤康光や木村一基と比べる必要はない。
ただし、あの生きる姿は翻って我が胸のうちにたずねることを生み出す。
わたしもまたそこからは、逃れることは出来ない。

いいものを見させていただきました。

長いブログになってしまった。

ごめんね。

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2008年3月3日月曜日

しぐさは嘘をつかない



このところ、かみさんの言うとおりにしているのだが、ときどき驚くことがある。
それは、わたしが、もともと勝手気ままに生きてきた人種で、そのため必要としない相手の反応に鈍かったからなのかもしれない。(だから気づかなかったのだな。)
わたしがこどもが嫌いなのも、こどもはわたしにとって必要のない相手だからかもしれない。
もちろん、幼き日の我が子は可愛かった。
あれは特別だ。
いまは、どうか?
いまの娘と息子がわたしにとってどうか、それはわからない。
愛されてもいない人間に対し愛を贈る習慣をわたしは持っていない。
(それが正しいかどうかの話ではない。わたしはそういう類の人間だといっている。)
愛されたときは、ひとにもよるが、それはそれは大変に感動することになる。
よくぞ、わたしごとき人間を愛してくださいました、となる。
それがどんな愛され方であっても、まあ、そういうふうに初期的には作動する。
それから先は物語だ。
いろいろと違う物語が展開する。

さて、もどって、あまり相手もしてこなかったかみさんとつきあっていると、教えられることがある。
教えられるとは「自分が知らなかったことを、あなたはこういうことがわかっていないのよ」と諭されることだ。

最近、大きく諭されたのは、ちゃんと言葉に出して言えということだ。

「ありがとうございました」
「おまたせしました」
「ごちそうさまでした」

まあ、あいさつだな。
なるほど、そう言えばまるく収まる。
わたしは、あまり、そういうことを言わない。

人から出された食べ物があまりおいしくなければ「おいしい」とは言わない。
しかし、おいしければ口を極めてほめたたえる。
特にその料理に手間暇かかっていたりしたら、それはそれは、ほめそやす。
そういう愛情に出会うのはいいものだ。

ところが、社会で生きていく場合は、そういう中身は関係ないらしい。
とにかく

「ありがとうございました」
「おまたせしました」
「ごちそうさまでした」

でいくといいらしい。
確かにそういうことばをしゃべる努力をしていくとかみさんとうまくいく。

しかしなあ、と思うのはわたしの浅はかさだろうか。

わたしは、亡くなったおふくろに「ありがとう」なんてあまり言わなかったのだよ。
おふくろはわたしの顔を見てそんなことは、すべて了解していたのだよ。

人間は言葉を使ってコミュニケーションをするが、言葉の占めるコミュニケーションのポジションはそれほど大きくはないらしい。
専門家の本のなかを探してみたらいいが、確か、半分いかないのではなかったか。
つまり、ジェスチャーや表情やその他の身体の動きの送る記号のほうがコミュニケーションにおいては大きいというのだ。

確かに日常生活をおくっていくうえで、言葉は大きな潤滑油になるだろう。
しかし、それは潤滑油で必ずしも内容のあるものではない。
潤滑油は必要だろうが、油ばっかりでは胸焼けしないか?

コンビニやハンバーガー屋に行くとそんなあいさつは山ほど聞けるが、今は亡き「灘コロンビア」の新井徳司氏の笑顔にはめったに出会えない。

新井さん亡き後の灘コロンビアに行ったときにやけに店内が暗く感じられたのを覚えている。
そう思いながら飲んでいると、どうも妙な感じがする。
変だなと店内を二三度見回して気づいた。

一ヶ所だけ明るいのだ。

「ああ、これが妙な気分にさせていたのだ」

そこには亡き「新井徳司」の写真が飾ってあった。

人が人に向けてする挨拶もここまでいくことがある。
言葉が大事なら大事でいいが、言葉なんて中に何にも込めなくても簡単に操れることも知っていないとね。

「しぐさは嘘をつかない」

いい言葉だと思う。

握り締めたその手だけがおまえの真実だ、などといっているのは、何も甘いだけのセリフでもないのだ。
心底そう思っているところがあるのです。

ちゃんと言葉にするのが、社会生活をおくるのにとても大事なこともわかるけどさ。
やっぱり、抽象的にも具体的にも抱きしめているほうがいいよな、それも日向くさい中でさ。

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真夜中の瀧の音

昨日は、自宅にいられぬ理由が出来、2時間ほど図書館に行った。
そこで、恥ずかしい話だが、久しぶりに止まってしまっている自作、「真夜中の瀧の音」の下調べをした。
自分が、ぐいぐいとその作品の中に引き込まれる感触を、また覚えた。

何かを作るとか、何かをし続けること一般に隠されている秘密は、そのことをどれだけ長く考え続けていくかということである。
作家は、書くときだけそのことを考えているわけではない。
歌歌いは唄っているときだけ歌を思っているわけではない。
ボクサーは試合のときだけ、練習のときだけ、ボクシングのことを考えているわけではない。

作品と言ってしまおうか。
ここで言う作品とは、歌であり、ボクシングの試合であり、成し遂げた仕事の成果であり、ほれぬいた女との恋の成就であり、作りたかった味の完成である。

作品が作品となるためにはイメージが必要なのだろう。
イメージを実体化させるのが作品であるならば、もともとイメージのない人間に作品を仕上げることは出来ないではないか。

では、いかにイメージを作るか。
その秘密のひとつが、そのことを考え続けるということである。

あまり健康的な話ではないし、ゆったり生活している人が入り込む世界ではない。
(おそらく、そのゆったりした生活のほうが数倍素敵だろうから…「トニオクレーゲル」の主旋律のひとつは、おそらく、そのゆったりと生活できる人々への限りない憧憬だろう。)

しかし、何かを作り出すことを本当に思うならば、これは仕方ない。
身も世もなくそのことを思うことである。
そうすれば叶う。

でも、もし叶わなければ…?

それは、狂うしかないんだな、これは。

しかしさ、思い続けている限り、結果は登場しないという真実もある。
思うことを止めるから、やっぱりだめだったんだなという結果が登場するのだ。
あくまでも結果を登場させるかどうかを決めるのは、あなたであり、わたしなのだ。

さて、まあ、よしんば、思い続ける何かを持っていたとしようか、あなたとわたしが。

それはそれ。

暖かくなってきた。
ふたりで、しばらく、そこの縁側で日向ぼっこでもしないか。
それで眠くなってきたら、船でもこぎゃあいいさ。

気を抜きながら、身も世もなく 日向の中の 向こう側

とはいうものの、
基本的にはがんばっちゃだめだ。

自然の流れで、そう思わずにいられぬ自分と向き合うのがいいな。

とにかく、もう少し生きていこう。

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2008年3月2日日曜日

わかっておったつもりが…

まだまだ罪滅ぼしにもならないのだが、さらにかみさんの言いなりの生活をしておる山本です。

いやなことはときどき言われるが、これは一般の他人よりも圧倒的に少ないかもしれない。
わたしは、人間嫌いの人間好きだから、他人なんぞというものはもっとも嫌いな人種で、あなたが好きなだけなのである。

となるとかみさんは、他人とあなたの中間で、なかなかいいところをいっているわけである。
でいながら、やはりいやなことは言うが、そういういやなことは早く忘れるほうがいいし、かみさん程度のいやな言葉は風に吹かれるゴミみたいなもので、世の中には強風にびくともしないウンコみたな臭気と重みのあるいやなことをしたり言ったりするやからは五萬といるので、こんなことは書く必要はないのだが、少しだけ書いてみた。

こんなやわな気持ち、わかりまっか。

で、問題は、この次で、わたしは部屋の汚いことはあまり気にならないほうで、坂口安吾のあの写真のような部屋がいいなというふうな男なのだが、かみさんにおおせつかって大きな掃除をして、ええっと我ながら思うようなきれいな部屋にしてしまった。

その結果、お茶を飲みながら部屋を眺めて思うのだが、(断酒中だからね。おまけに今日は断酒剤燕下中だからね。)気持ちがいいのである。

ああ、俺はきれいな部屋が好きだったのか。(ほんまかいな。)
いや、そこまでいかなくても、きれいな部屋も好きだったのは間違いない。

いやいや、やはりきれいな部屋のほうが好きだったのだろうな、この感触は。

というくらいに自分の好悪の感情もハッキリしない、というのがわかってしまったのだ。

だからさ、皆様方もあんまり決め打ちしなさんな。
あなたの隣の、どう見ても性悪な女、つきあってみたら離れられんようになるかも知れまへんで。
悪女の深情け、醜女のこいた屁はくさい、いいましてな。
くさい屁がいやや思とるのも勘違いかもしれまへんで。

たまりまへんな。

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2008年3月1日土曜日

断酒あるいは願掛け

わたしは故あって、断酒に入っている。(飲んで身体が困ることはない。そばの人が困るだけだ。)
これは本格的なもので、同時にある願掛けにもなっている。
願掛けの掟としてなにを願っているかは公表しないが、そのことが叶うまでは一切酒は口にしない。
そのために、「シアナマイド液」という抗酒剤も手に入れている。
「powerless over アルコール」のわたしは、飲む危険性がある場合にはすかさず、わたしのうちにある強力なアルコール分解酵素を無力にするこの毒々しい液を飲むのである。
そのようにして、断酒を続ける。

そして、願掛けがあけたときには、ちびりちびりと酒をやりたいものである。
そのときには、細々とした生活を支える金の入ってくる仕組みと、優しい仲間たちが何人かそろっているはずである。
そうして、そういう生活が、ほんの百日ほど続けば、わたしは、自分の人生が幸せだったと思うに違いない。

酒のない生活が苦しいだろうと思う人がいるかもしれないが、それはない。
酒好きにもいろいろあって、わたしは酒を1滴も口に入れなければそれはそれでいいのだ。
問題は、たった1滴でも入れたその直後からの酔生夢死状態だ。
あの状態で人に迷惑をかけるためには、いくつかの細工が必要だ。
いまのわたしに何の細工もない。

その細工作りのための断酒でもある。

心ある人ならば、もう一度わたしと飲むために、飯でも食わないか。
いや、ぜんざいでもいいな。
クリームパフェでも。

ご存知だろうが、酒も最後は糖分に変わるものだから、大量の酒を飲んでいた男が、酒を止めたときには、無償に甘いものをほしがるというわけだ。

それと酔わずに過ごす長い時間のために良質な会話がほしいものだ。
会話は、自然とでもいいのかも知れない。
陶器とでも、漆器とでも、絵画とでも、詩集とでも…しかし良質でなければならない。

とにかく、いつまで続くかわからないのだから、今は願掛けが早く叶うように日々歩んでいるところさ。

で、どうだい、ぜんざいでもケーキでも団子でも飯でも散歩でもかまわないから、
誰か誘ってはくれないか。

もちろん、あなたは好きなだけ飲んでいたらいいんだからさ。

ラベル:

人の心はわからぬもので…

タイトルにこう書いたからといって,他人様の心の内側を指しているのではない。
むしろ場合によっては、他人様のほうがわかりやすい場合もある。一時的には。
変わるからねえ、心なんぞというものは。

夢でいいから 持ちたいものは 金のなる木と いい女房

いい女房というのは、変わらぬ心をもっているのかねえ。
いやあ、もってないだろう。
持ってない代わりにほかに何か持っているんだろう。
いい女房というくらいだからね。

まあ、自分にしても他人にしても人の心なんぞ探らぬものだ。
心なんぞ、そんなに固定的なものではないし、はっきりしたものでもない。
闇夜に浮かぶ枯れ尾花のほうがよっぽどましだろう。

もし、ある心が固定的だとしたら、それはその心の中に悪意が交じっているからだろう。
まあ、経験的には、そういうことになるね。

大切な友人が今秋田に行っている。
今夜は、横田泊まりだという。
明日は、親父に会うのだろう。
一人暮らしの親父と会うのは、大変だろう。
むかし、校長先生をやっていた親父と一人息子の彼はなにを話すのだろう。

親父の話をただただ聞いていてくれればいいのだろうが…、彼が話さないといいなあ。
親父は、話しているうちにいまの自分が何者かとわかり始めてくるだろう。
それが、北国のしんしんとした夜の父と息子の風景だ。
間に熱燗の日本も置いておくか。
かすべは、先ほどのビールで食べてしまっている。

感情のこもる親父の話から徐々に感情が剥ぎ取られていく。
そして、さらにゆっくりとしんみりと話し続ける。
息子は時間の流れが変わったのをはっきりと感じる。

そんな夜はないか。
淡い期待だろうか。

田舎に親父がひとり、息子は都心で結婚している。妻ひとり、子どもひとりだ。

さて、どうする。
難しい問題だ。

「おひとりさまの老後」をわたしは全面的に支持はしていないが、そこはそれ、名だたる切れ者、いいことも書いてあるわけだ。
同居の大変さがしみじみとわかる本だ。

「むかしむかし、あるところにおじいさんとおばあさんがいました」

てな具合ではない。

「このごろは、いたるところ、どこへ行ってもおじいさんとおばあさんがいます。特におばあさんなんぞは、いないところを探すのが大変なくらいで…」

ところどころにいた、むかしのおじいさんとおばあさんとの同居といまの同居の質は違う。
そういうことを上野さんは教えてくれる。

我が友人は、どんな結果を持って帰ってくるのだろうか。
いずれにしろ、わたしは支援しなければなるまい。

そこのところが、かれとわたしの関係の変わらないところだ。

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