2008年3月13日木曜日

抱きしめ続けること

誰かを肉体的に抱きしめ続けるのは難しい。
抱きしめているはずの相手がするりとどこかへ行って、いなくなってしまうことはままある。
生き物とはそういうもので、その危うさがそばに密着していることのいとおししさにもつながる。
抱きしめていられることはある奇跡だと思っておいて間違いない。

するりと逃げ去った相手だが、いなくなった影を心で抱きしめ続けることは可能だ。
そうやって、抱きしめ続けていればまた出会えるかも知れない。
たとえ、お互いに変わっていようともそのときは再び相まみえることができる。
それが、「いなくなった影を心で抱きしめ続けること」で迎える瞬間だ。
もしもそうでなかったら、物理的に同じ空間に居合わすことがあったとしても、それは流れゆく時間の中の出来事にさえならない泡沫だ。

抱え続けるということは大切なことだ。
その大切なものをわれわれは「六三三制」という教育の中で見失うように教育されてきた。
提示されたものはすぐに捨て去ることばかり教えられてきた。(出された問題は制限時間内に解け)
また、提示されたもの自体、はじめから捨て去ることを予期して用意されていた。(解答のある問題だけしか与えられてこなかった)

「抱え続けるもの」は解答不能、何かわからぬものが多い。
何かわからないが放り出せないものが大切なものだ。(誰かに説明する必要などないのだ)
これこれしかじかの理由があって放り出せないのではない。
とにかくそばにおいておく、そういった感じに近い。
その感覚がすでに身の内になければ、何かを抱え続けることなど出来はしない。

気をつけてほしい。
われわれはこの国の教育制度の中で「何かを抱え続けること」から引き離れされてきた。
しかし、「何かを抱え続けること」でしか出会えないものがある。
「六三三制」で削られようとしてきたものをあなたはもう一度その手に取り返せるのだろうか。
取り戻してほしいというのがわたしの願望だ。

「何かを抱え続けること」に即効性はない。
一見無駄なように見えるが、また無駄そのものかもしれないが、その無駄こそがあるときわたしたちを助けてくれる。

わたしに一人の息子と娘がいる。
どこがどうというのでもないが、長年見てきているだけにあのときの彼は、彼女はオレを助けてくれたなあという思い出がある。
彼らの存在それ自体がオレを助けてくれたのだった。
それだけのためだけであっても――

「愛されてもいない相手を好きになる趣味はない」と書いたわたしだが、一瞬の愛であっても愛を与えた人とその恩は忘れない。
この身の内には「抱え込んだひとがいる」、「抱え込んだ風景がある」、同じように「抱え込んだ問題」もある。
抱え込んだものたちが何かをすぐにしてくれることはないが、知らないうちに何かを手渡してくれることがある。
「抱え込む」作業には、いいことがあるからとかそのほうが生きていくのに有利だとか、そういう安直で確かな理由はない。
ただ、そうしていたいからそうするだけのことだ。

ここにそのことをわざわざ取り立てて書いているのは、しっかりした理由や効果がないと、なにをするにしても批判の目が集まる風潮のこの世の中で、もしもあなたが何かを抱え続けているのなら、ああ、それはすばらしい、と語ってみたかったからだ。

黙っていつまでも「抱きしめ続けていてください」そう書いてみたかったのだ。

外はポカポカと春めいてきている。
梅の香でも探しに行こうではないか。

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