2008年3月10日月曜日

鍛えの入った一手

コトバの重みのことを書いた。
実は、このことをわたしはいまも考えている。
わたしの頭にいつもあることのひとつだ。
鶴見さん風に言えば、「親問題」に近い「子問題」だ。

「親問題」とは、かなり荒っぽく言えば、「解決不能な人生の大きな問題」だから、それに近い「子問題」の「コトバの重みとは何か」も一般的には、かなり解決不能に近い。
ここで、「一般的には」と入れたのは、ある人が言葉に重みをつける技術を持っていたとしても、私自身が言葉に重みをつけることに大きくプラスにはならないことを気にしてのことだ。

いくらイチローがバッティングについていろいろしゃべってくれて、実際に彼のバッティングフォームにこの目で接しても、彼のように安打が製造できないのと、似た話をしている。

皆さんのあまり知らない将棋で言えば、将棋の駒なんかごくごく軽いもので誰にでも動かせるのだが、それがたとえば羽生善治の指によってひとマス移動させられたときに、「鍛えの入った一手」だとか「読みの入った一手」だとか、はたまた「羽生マジック」、「驚異的な一手」…さまざまに言われる。

同じように、あなたもわたしもその将棋の駒を動かせるのになぜ羽生の動かした駒だけが、光るのか?

日本語を鶴見俊輔と同じように話せるのに、(もちろん、厳密には同じではない。否、否、否)なぜ彼のコトバだけが重みを持つのか。

それは、おそらく「鍛え」の差だと思う。
どれだけその「思い」と長く暮らしてきたかによるのだと思う。
その「思い」と共にいる長き暮らしの中からゆっくりと滴るしずくを集め、そうしてそれを…、の結果、吐き出されたコトバだからだろうと思う。

さて、ここで、ここまでのところを私自身で読み返したのだが、結局は、なにを書いているのかもうひとつわからないのだ。
申し訳ない。
まだこの問題との添い寝が足らないようです。

でも、まあいいのだよ。
「コトバの重み」という問題に長くつき合う覚悟さえあれば、必ず見えてくる。
このコトバは重い、このコトバは重くないって。

それで?

さあ。

これはわたしにとって大事なことだから、「コトバの重み」が具体的にわかることは、わたしにとっては大きな実感があるが、「コトバの重み」など大事でもなんでもないならば、どうでもいいことだろう。

もちろんそれでいい。
ただ、「鍛えの入った一手」を見るのは、とても心揺さぶられるものですよ。

いいと思うのだがな、そういう瞬間を自分が作り出すことができた実感をほんのわずかでももってみることは。

妄言多謝

ラベル:

0 件のコメント:

コメントを投稿

登録 コメントの投稿 [Atom]

<< ホーム