久しぶりの虎ノ門病院
明日は、久しぶりの虎ノ門病院。
副腎の専門医、竹下さんのところへ行く。
病状は、何、たいしたことではない。
おさだまりの高血圧なのだが、わたしの場合は「原発性アルドステロン症」に端を発する高血圧で、少し治療がめんどくさい。
この「原発性アルドステロン症」という病気は、副腎にできた腫瘍のため「アルドステロン」というホルモンが過剰に出ることを言うのだが、この「アルドステロン」は、ナトリウムを溜め込んで血圧を上げる作用をするホルモンで、こいつが異常に出ていると血圧も異常に上がって、そのうちに脳卒中や心臓肥大で死ぬというコースをたどることになる。
で、どうするかというと、まあ簡単な話で腫瘍をとるわけである。
ところが、わたしの場合はさらにややこしく、その腫瘍が見つからないので、困ったということになっている。
この場合考えられるのは、まれな話だが両方の副腎が大きくなってしまう過形成による「原発性アルドステロン症」だが、竹下さんはもしかしたら、とても小さい腫瘍があるかもしれないから、そいつをカテーテルを大動脈に入れて調べてみましょうと言っているが、あたしゃいやだよ、恐いもの。
ほんとうは恐くないらしいが、でもなんだかねえ。
それで、ちょっと様子を見てみましょうと、竹下さんをくどいて薬物療法をしているわけだ。
でも、このままずっと薬物療法では、なかなか血圧は下がらず、いずれ脳卒中や心臓肥大に到る。
そうなると、身体のどこかに爆発が起きることになる。
そのままどこかへ行ってしまえればいいが、半身不随や寝たきりになったら目も当てられない。
てなわけで、昨今は少し生き急いだり、呑み急いだりしていたわけだが、考えてみれば、実に小心な男である。
さらに思い巡らせば、実にしょうもない奴で、覚悟があるとすれば、そのしょうもない人間である自分を生きていこうという意志ぐらいのことだろうか。
わたしに最後にできるのは、そのしょうもない人間を受け止めて生きていく姿を作品化することか。
作品化といっても、これもしょうもない話で、わかりやすく書けば、感傷の飾りつけをせず、あるひとつの童話のように、そういった人間のありようをみなさんにお見せしたいな、ということです。
そこに無垢の魂が宿っていれば、それはとてもいい話なのだが。
というわけで、しょうもなさをしょうもないまま受け止めることに、無垢の魂は嫌がらずに一緒にいてくれるだろうかというのが、当面のわたしのとても気になることなのです。
とはいえ、なんにしろ明日は虎ノ門の竹下さんと少し話をしなければなるまい。
自分の今から目を避けて、「しょうもなさをしょうもないまま受け止めること」ができるはずもなく、そうだとしたら、つまり、目をそむけようとするならば、一瞬の後に無垢なるものはどこかに過ぎ去って行ってしまうだろう。
あれは、酷薄なところがあるからなあ…
しっぺ返しといったところだろうか。
副腎の専門医、竹下さんのところへ行く。
病状は、何、たいしたことではない。
おさだまりの高血圧なのだが、わたしの場合は「原発性アルドステロン症」に端を発する高血圧で、少し治療がめんどくさい。
この「原発性アルドステロン症」という病気は、副腎にできた腫瘍のため「アルドステロン」というホルモンが過剰に出ることを言うのだが、この「アルドステロン」は、ナトリウムを溜め込んで血圧を上げる作用をするホルモンで、こいつが異常に出ていると血圧も異常に上がって、そのうちに脳卒中や心臓肥大で死ぬというコースをたどることになる。
で、どうするかというと、まあ簡単な話で腫瘍をとるわけである。
ところが、わたしの場合はさらにややこしく、その腫瘍が見つからないので、困ったということになっている。
この場合考えられるのは、まれな話だが両方の副腎が大きくなってしまう過形成による「原発性アルドステロン症」だが、竹下さんはもしかしたら、とても小さい腫瘍があるかもしれないから、そいつをカテーテルを大動脈に入れて調べてみましょうと言っているが、あたしゃいやだよ、恐いもの。
ほんとうは恐くないらしいが、でもなんだかねえ。
それで、ちょっと様子を見てみましょうと、竹下さんをくどいて薬物療法をしているわけだ。
でも、このままずっと薬物療法では、なかなか血圧は下がらず、いずれ脳卒中や心臓肥大に到る。
そうなると、身体のどこかに爆発が起きることになる。
そのままどこかへ行ってしまえればいいが、半身不随や寝たきりになったら目も当てられない。
てなわけで、昨今は少し生き急いだり、呑み急いだりしていたわけだが、考えてみれば、実に小心な男である。
さらに思い巡らせば、実にしょうもない奴で、覚悟があるとすれば、そのしょうもない人間である自分を生きていこうという意志ぐらいのことだろうか。
わたしに最後にできるのは、そのしょうもない人間を受け止めて生きていく姿を作品化することか。
作品化といっても、これもしょうもない話で、わかりやすく書けば、感傷の飾りつけをせず、あるひとつの童話のように、そういった人間のありようをみなさんにお見せしたいな、ということです。
そこに無垢の魂が宿っていれば、それはとてもいい話なのだが。
というわけで、しょうもなさをしょうもないまま受け止めることに、無垢の魂は嫌がらずに一緒にいてくれるだろうかというのが、当面のわたしのとても気になることなのです。
とはいえ、なんにしろ明日は虎ノ門の竹下さんと少し話をしなければなるまい。
自分の今から目を避けて、「しょうもなさをしょうもないまま受け止めること」ができるはずもなく、そうだとしたら、つまり、目をそむけようとするならば、一瞬の後に無垢なるものはどこかに過ぎ去って行ってしまうだろう。
あれは、酷薄なところがあるからなあ…
しっぺ返しといったところだろうか。
ラベル: 作品
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