2008年3月4日火曜日

目の前のコップならば…


目の前にあるコップならば、叩き壊せばその存在を消し去ることはできるかもしれない。
しかし、思想は違う、思想はコップのように叩き壊すことは出来ない。
では、どうすれば自分のなかからその思想を消し去ることができるのか。

目の前にあるコップならば、叩き壊せばその存在を消し去ることはできるかもしれない。
しかし、あの女への愛は違う、あの女がいなくなったとしても愛だけは残る。
では、どうすればその愛を消し去ることができるのか、その愛は決して残滓のように自分の中にあるわけではない、はっきりしすぎるほど、しっかりと残っているのだ。

時間だろうか。
そうかもしれない。
時間が記憶を薄らげてくれるから。
だが、もう一度その女が自分の前に現われたとしたらどうか、フラッシュバックしないのか?

やはり、ひとおもいに女を殺し、その殺した記憶を時間を頼りに消し去るのがいいのか。
ばかな、殺したとなるとそうも簡単にはいかんだろう。
あなたが、特殊な人間ならば別だけれど。

あまりに安直な結論で恐縮だが、その愛を消し去るためには新たな女への新たな愛をあなたのなかに生み出せばいいだけのことだ。
そのような女が現れず、新たな愛が生まれないとしたら、あの女への愛は残る。

あの女は、あの愛はかけがえのないものだったということになる。
壊しようのないコップをあなたの心に宿らせたことになるわけだ。

では、断酒中のわたしの酒への思いはどうだろうか。
同じように、酒への思いを越える何ものかがわたしの中に生じなければ、酒への思いは消えない。

で、わたしにはある。酒への思いを越える何ものかが、わたしのなかに。

だから、ここにときどき書かせていただいている。

その何ものかが十分にわたしの身体のなかに入り込んできたならば、その何ものかへの思いが消えるだろう。
これをして願いが成就したというが、そのように願いが成就すれば、思いは消えていく。

わたしは、戦地からの息子の帰還を祈願してお茶断ちをした亡き祖母を持っている。
わたしは、戦地からの息子の帰還を祈願して酒断ちをした亡き祖父を持っている。

彼らは、息子が戦地から帰ってきたときから、また、お茶を酒を飲み始めた。
息子恋しの思いが消えたからだ。
消えたから、お茶への酒への思いが浮上した。

酒への思いが消えていたわけではなかったのだ。
それ以上の思いが身のうちに宿っていたに過ぎないのだ。

わたしとても同じことである。
でなければ、酒などやめるものか。
あんなにわたしによくしてくれた酒をやめるわけがない。

酒も女も煙草も止めて 百まで生きた馬鹿もいる
(そうはなりたくないものだ。)

酒、歌、煙草、また女 ほかに覚えしこともなし

今回酒を飲まなくしているのは、すこしつらいがわたしにとっては大きいこととなる、うまくいけばだが。
つらいというのは飲めないからつらいという意味ではない。

「酒飲み」という役を演じられないつらさだ。

このことは、このことで少し長くなる。
また新たに書き起こすことにします。

できれば、お付き合いください。

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