みんな仲良く
いまや「みんな仲良く」は幻想と化してしまっているのだろう。
何せ、統一した敵も持っていないのだから。
もっとも、そういうイメージを作ろうとしている連中はいるが、あれは嘘だ。
そういう敵を作ればうまく進むというところから始まっている。
まあ、そう考えておいて間違いはない。
統一した敵は共同戦線、やわらかく言えば仲良しを作るのに最適だがそれもはっきりとないのだから、と嘆いて見せるのだが、可能性がないではない。
たとえば、「ペテルの家」がある。
住む人のいなくなった田舎の家に新しい共同体を作ろうとする動きがある。
これらには特定の敵といったものはないが、弱者が自然に持ってしまう敵、敵とといっては、語弊があるが、やや厳しすぎる圧迫感があるのだ。
弱者は気遣われなければ、そのまま圧迫感を持ち、その圧迫感に何かで対抗していかなくてはならない。
それはある場合は強い意志だろうし、仲間だろうし、ひきこもりだろう。
そのなかで、わたしは可能であれば仲間というものの可能性を追求できればと思う。
ここで重要なのは、現象としては違うが、
強い意志も、仲間を欲する柔らかな意志も、ひとりきりで立てこもる引きこもりも同じ根を持っているところだ。
だから、強い意志をもてなくても恥じることはない。
いまの世の中、弱いものにだけ許されているそのものが、
仲間を求める緩やかな意志だ。
急いではならない。
仲間選びはとても繊細な作業だからだ。
「おひとりさまの老後」という本を書いた女がいる。
この女の悪は、男を敵と見ているところだ。
男もいろいろで、あなたが目の仇にするような間抜けで、強くて、(強いと思っていて)ものを考えないやつだけではないのだ。
弱きものの代表として、ひなたでひざを抱えて座っているような繊細な、あえていえば美少年もいるのだ。
その著者はむかしで言えばもうおばあさんだ。
そのおばあさんにお願いしたい。
そういう美しき弱者である男たちは見捨てないでいただけないか。
それが、ささやかなそのおばあさんへのお願いだ。
まあ、そのほかの、か弱い男たちは、ゆっくりと仲間を選んで生きていくからさ。
一人じゃ生きていけないんだから、これはもうしかたない。
仲間たちよ、またいつの日かどこかの場所で。
何せ、統一した敵も持っていないのだから。
もっとも、そういうイメージを作ろうとしている連中はいるが、あれは嘘だ。
そういう敵を作ればうまく進むというところから始まっている。
まあ、そう考えておいて間違いはない。
統一した敵は共同戦線、やわらかく言えば仲良しを作るのに最適だがそれもはっきりとないのだから、と嘆いて見せるのだが、可能性がないではない。
たとえば、「ペテルの家」がある。
住む人のいなくなった田舎の家に新しい共同体を作ろうとする動きがある。
これらには特定の敵といったものはないが、弱者が自然に持ってしまう敵、敵とといっては、語弊があるが、やや厳しすぎる圧迫感があるのだ。
弱者は気遣われなければ、そのまま圧迫感を持ち、その圧迫感に何かで対抗していかなくてはならない。
それはある場合は強い意志だろうし、仲間だろうし、ひきこもりだろう。
そのなかで、わたしは可能であれば仲間というものの可能性を追求できればと思う。
ここで重要なのは、現象としては違うが、
強い意志も、仲間を欲する柔らかな意志も、ひとりきりで立てこもる引きこもりも同じ根を持っているところだ。
だから、強い意志をもてなくても恥じることはない。
いまの世の中、弱いものにだけ許されているそのものが、
仲間を求める緩やかな意志だ。
急いではならない。
仲間選びはとても繊細な作業だからだ。
「おひとりさまの老後」という本を書いた女がいる。
この女の悪は、男を敵と見ているところだ。
男もいろいろで、あなたが目の仇にするような間抜けで、強くて、(強いと思っていて)ものを考えないやつだけではないのだ。
弱きものの代表として、ひなたでひざを抱えて座っているような繊細な、あえていえば美少年もいるのだ。
その著者はむかしで言えばもうおばあさんだ。
そのおばあさんにお願いしたい。
そういう美しき弱者である男たちは見捨てないでいただけないか。
それが、ささやかなそのおばあさんへのお願いだ。
まあ、そのほかの、か弱い男たちは、ゆっくりと仲間を選んで生きていくからさ。
一人じゃ生きていけないんだから、これはもうしかたない。
仲間たちよ、またいつの日かどこかの場所で。
ラベル: 日常 考察
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