2008年2月26日火曜日

自由という名の不自由

昨夜、25日は沢登秀信の歌を聴きに行った。
いい歌だった。

そこに歌を、何かを作り続けている人を見た。
こういう人を見ると涙ぐむ。
生きているのだなあと思う。

わたしは、故あって、ここしばらくかみさんの言うとおりに生きている。
「たまには女の言うとおりに生きてみるものだ」
といったのは沢田龍彦だ。

そういったときに、自分がいかに不自由に生きてきたのかわかる。
自由であるというのはある選択肢を選ぶことの自由だ。
したがって、ほかの選択肢を棄てなければならない。
無数の選択肢を捨てるという行為に潜む不自由さ。

俺は、選んだこのこと以外は、何もかも出来ないのだな、と思う。

そういったとき、かみさんの言うとおり生きてみると自由を感じる。
彼女の与えたわたしへの自由はそれしかない選択肢を自由そのものに感じるのだ。

自分が自由であるためには、いかに多くの選択肢を棄てる不自由をしていかなければならないか。
そのことを沢登さんは静かにわたしに話してくれた。

自由という名の不自由さをしみじみと感じるこのころ、沢登さんの生き方はしみじみと自由だった。
いいものを教えてくれた。

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