2008年2月19日火曜日

道楽で詩は書けない

北村太郎は、タイトルのようにそう思う。
だから、治子と生活をし始めた私に詩が書けるはずはない。
片手間では無理なのだ。

しかしながら、詩を手放すことで得た幸せもある。
家庭の幸せである。
では、なぜにその得た幸せを手放すのか。
再び詩を得るためか。

彼の感じたように生活と詩は相互排他的なのか。
ここでいう「生活」とは山之口獏の言う「生活」とはまったく違うことはおわかりだろう。

北村は、「思い巡らす道筋」があるという。
肝心なのはこの道筋で、その道筋を守り続けていれば生活を壊すことはない。
しかし、一端、横道にそれてしまったら、その道筋に戻るのは少少面倒なことになる。

「荒地の恋」を読んでいて、自分が生活のために「思い巡らす道筋」をたどったことがあるかどうかを振り返った。
もちろん、「思い巡らす道筋」をたどっていないとしても詩人になれる保証はない。
むしろなれはしないだろう。

「荒地の恋」には、「思い巡らす道筋」をそれてしまうことがそのままどこかへの道筋になってしまっていた男の話が書いてある。
そこにはそれにかかわる男たちや女たちが出てくるが、どうにもこうにも弱ったことには、誰もが悪くはないのだ。
それでいながら、だれもが痛みを引き受けなければならない仕組みになっている。
なかには、無神経な女もいるにはいるのだが・・・。

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