2008年2月5日火曜日

ナウ・アンド・ヒア と ゼン・アンド・ゼア

「今ここで」と「あのときあそこで」といった意味のタイトルですが、わたしなどは、「now and here」
の人間で、「then and there」にあまり重きを置かぬ傾向があります。

あのときあそこでどうであったにしろ、いまここにいるあなたを信頼しましょうとでもいった心持でしょうか。
それとも思い出を自分のなかに取り込むことで、思い出そのものが、わたしにとっての「now and here」に変質しなければ、「やあやあやあ」などと肩をたたきあう気分を持たぬ人間なのでしょうか。

ですから、同窓会はかなり苦手で、いつも逃げ回っております。
あなたが、わたしにとっての「now and here」であり続けてくれれば、それはそれで大丈夫ですし、身勝手な話ですが、そういう人とはまた逢いたくなることも、とある夜にふと思い出して、懐かしむこともありますが、「then and there」であるだけになってしまっては、それは少し困ります。

「あの時は楽しかったね」といわれても返事のしようはないのです。

そういった意味で「彷彿」のない人間との再会や「彷彿」のない出来事の話は、かなり困ってしまうのです。

同じように、「then and there」の記憶に頼って、もう一度あのときのように助けてくれないかという発言もよほど自分のなかのものとして、「then and there」の記憶が血肉化していなければ語りかけることは出来ないのです。

人は変わりゆく存在です。
あのときのままその人が、今もそばにいるというようなロマンティックな発想はわたしには、とてもできないのです。
その逆に、「now and here」の出来事やひとに対しては、おたおたしてしまうほどサービスしようとしてしまうテイタラクな部分を持ってもいます。

いま、目の前にいるあなたが笑っていなければ、愉快そうにしていてくれなければ困ってしまうのです。

こう書いてくると、なんとも理解しがたい、ある脆弱ささえ感じてしまう存在なのですが、しかしながら、あのときどのようであったとしても、今ここで、何ものでもなければ、それは、一種の甘えになるように思えてしまうのです。

あの時とは違う自分をわたしは知らぬうちに期待してしまうのです。

変わり続けること、それをわたしは、ときに「生き続けること」と呼ぶことがあります。
同じように変わることを放棄したままそこにあることを「生きていること」と読んで差別化することがあります。

ある入射角で物申せば、「now and here」にある種の桎梏を感じるわたしは、「then and there」のなかに安住できる精神に対してある種の煙たさを感じているのかもしれません。
ほめられた感覚ではないのかもしれませんが。

あの時、あなたが書いた文字がいいからといって、今も同じような文字を書いている人に対して、「まだ同じように書いておるんですな」という発言は、言い方を変えれば、「あんたは、今ここに、ほんとうにおるんですか。」という発言になります。

恐ろしい世界ですが、それを魅力的と思うならば、少しでも先に歩まねばならんのでしょうな。
ご同輩。

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