2008年1月31日木曜日

傍観者と当事者

昨日このブログで扱った浅草演芸ホールは、夜の部、午後4時40分始まりだが、この寄席はただ券を多く配っているため、すでに4時前から客が並び始める。
それが、月末ともなるととても増えてくる。(ただ券の期限切れが近づくからね)
演芸ホール側のこの行列の処理の仕方が、まずかった。
詳しくは書かないが、整理係に何のノウハウもなく、その不手際に酔っ払いの客などが絡んだという形になる。

そのとき、行列に並んでいた周りの人たちの反応は明らかに傍観者の立場だった。
「ああすればいい、こうすればいい」
とにわか評論家になるのだった。(あなたにも関係してくるのだよ)

言っておくが、評論家はあれは傍観者の代表だからね。
評論家が主体者、当事者でなければならないと高らかに言い放ったのは小林秀雄であり、その言のもとに生きている評論家はそれほどは多くない。

みんな、浅草演芸ホールの外に立ってああでもない、こうでもないと言い合っていた人々と同じことをマスコミでやっているだけのことだ。
事態を変える気はこれっぽっちもない。

ただ、みんあわたしはどういう状況かわかっているのだ、えらいだろうと言っているにすぎない。
それで、どうするのだと聞けば、彼らは、後ずさりするに違いない。
もともとなんらの行動を取る気もないのだから。

これをもって、傍観者という。

私はといえば、「鬼平犯科帳」を読んでいた。
これを無関心と呼ぶ。
わたしにとって、この事件は、どうでもいいことだったから。(どう巻き込まれようが、身の不運を嘆こうと思っていた。)
もしそうでなければ、わたしもまた「あなたは当事者として動くのか、傍観者として動くのか」と問われただろう。
ここでもう一度繰り返すが、そのどちらでもないあり方もある。
当事者性を発揮できるのは、ごくごく限られた事柄に対してだけだからだ。
それは、われわれが身一つで生きていることを考えれば想像がつくだろう。
そのとき、傍観者でなりたくなければどうするか、はわれわれに与えられた大きな問題だ。

今日の昼間、田中康夫ちゃんが国会で質問していたが、明らかに当事者として質問しようとしていた。
そして、答弁者のなかには、傍観者しかいないのかと嘆いていた。
そのようにわたしには見えた。

わたしは、テレビを見ながら、クツ箱の奥から取り出した、しばらく履いていないがっちりとしたトレッキングシューズを手入れしていたのである。
もちろんその皮を手入れしていたわたしとトレッキングシューズはお互いに当事者同士であった。
当事者はこのような形で出会うものだ。

久々に磨き上げたトレッキングシューズを掲げながら見たとき、トレッキングシューズもわたしのほうを見ていた。

そういうものだ。

人と人との関係は
人とものとの関係は
ものとものとの関係は

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