2008年1月26日土曜日

見透かされし純情

わたしに愛嬌があると言われることがあるとしても、それはわずかな隙を見抜かれる一瞬にすぎない。
無骨なのだよ、わたしは。

少し前のことになるが、書いておきたかったことを今書くことをお許し願いたい。
昨年の9月17日のこと。
わたしは、とあるコンサートに出かけようとして中野の街を歩いていたのです。

わたしの前に幼き我が子を肩車した男とその妻である人が歩いていた。
後姿だけからでも美しき彼らの生活が仄見えるような家族だった。
彼らのそばをわたしが通り過ぎようとするとき、その幼き子どもと目があった。
そのとき、その子はなんとも自然にわたしに微笑みかけたのだった。
わたしは、そのとき、はっとして、すぐさまこの子に見透かされたことを知った。
直後、その子は声に出して笑ったのだった。

幼子の 天に向かいて 笑う声

恥ずかしかった。
隠していたものが、いっぺんに白日の下にさらされたように感じた。
そして、少しだけ幸せな気分にもなった。

どうしても気になって、その母親にコンサート会場の場所を尋ねてしまうわたしがいた。
なんとも自然な、答え方をその女性はされた。
ほほえましい夫婦と愛されしその娘。
こんな家族が中野の街を歩いていた。

そして、恥じ入るように隠していたわたしの純情はいともたやすく見破られてしまったのだ。

幼子の 夢に向かいて 笑う声

見透かされし純情をどのように扱ったらいいのか、いまだわたしは知らないのだった。

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