いいことは、ときどきあればいいさ
昨日は、虎ノ門へ。
本日は、打ち合わせと痛い右足を引きずりながら歩いて出かけるのだが、痛いばかりではなかった。
いいこともそれはそれであったわけさ。
第一に痛さで寒さを忘れる。
電車で座れたときのうれしさに心底ほっとする。
それに昨日と今日で二冊の本が読めた。
昨日は、渡辺明「頭脳勝負」(ちくま新書)
いい本だった。
渡辺さんのブログは有名だが、その更新の頻繁さが、彼の文章力を高めた。
力を抜いた文章で、将棋を知らないひとにまでその魅力をよく伝えていた。
手にあれば 桂馬打ちたし 姉妹(あねいもと)
この本を読めば、このような句がよくわかるだろう。
さらに今日は、山下大明「森の中の小さなテント」に出会った。
名著といってよいだろう。
屋久島に長く通った写真家の文章と写真だ。
たとえば、その国ならば、あるいは都市ならば一週間の滞在者は一週間の滞在者としての眼でその場所や人や習俗を描けるだろう。
一年ならば一年なりに、三年ならばそのように、そこに半生住みつけば住みついたように、そしてその場所の住人ならば住人として。
それがわたしの思いであったが、それがみごとに覆された。
ある種の愛や交流がその土地となければ書けないのだった。
それは期間とは別の話のようだが、そのような愛や交流のためには時間を必要とするのだ。
そのことを教えてくれた屋久島を慈しむような文章だった。
人もまた、そうかもしれない。
だれかではなく、長く人そのものと交流を続けているうちにわたしにも慈しむような眼が、あるいは芽がうちに存在するようになっていた。
そういうわけで、この二冊の本以外にほんの二人ほどの女性にも出会ったが、おそらくいままでは気にもしなかっただろうその人たちに暖かさを感じたのだった。
たとえばそれは薬剤師のお姉さんであったり、本屋の売り子さんだったりしたのだが、その人のありようをとらえるわたしが変わってきているのを感じた。
もちろん、それはその人のいわゆる外見とはまったく違ったもので、そのことに妙に幸せを感じたのだった。
そして、そういうことに、数時間の外出の一瞬にでも出会えることで、いいことがあったとしみじみ思うわたしがいたのでした。
だからさ、いいことは、ときどきあればいいさ、と夜道を足を引きずり、引きずり家路についたのでした。
ラベル: 作品
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