2008年1月15日火曜日

1月4,5日  そして携帯のこと


4,5日は街で知人と話す。
わたしのうような者と話してくれる人がいるのは、望外の幸せだ。
寂しさも一時的には消える。

4日には、年末より故障していた携帯を買い換える。
修理には、一週間以上もかかるのだから、致し方ない選択だろう。
しかし、日常生活で起こる断線が原因とは、あまりにもお粗末だ。
応対の気のいい青年を怒る気にはならなかったが、無駄な出費だ。
東京で本社の苦情係とでもひと悶着する気になっている。

およそわたしは携帯が好きではなく、あの懐に直接飛び込んでくるところが、なんとも恐ろしい。
今の若者が好んで持つのは、実は、この懐に飛び込んでくる感覚がよいのではないのだろうか。
それは一種、眉唾であっても架空の親しい人間関係を創出する。

いわく「いまどこ?」なんてなことだ。

現代の人間が他者に敏感であるのは、すでに社会学者たちが言い始めている。
敏感であるがゆえに他者を恐れる。
恐れるがそれでも求める。
結局他者が自分と異質なものであるのは限りなく真実なのだが、どこかに自分と同じような自分にとってとても都合のよい誰かを求めてしまう。
だが、その異質性にぶつかったとき、彼らはあわてる。

携帯もインターネットもそのように他者を自分にダイレクトに引き込むこと、あるいはダイレクトに他者の内部に入り込むことをそのもっとも大きな特徴としている。
他者へのいびつなあり方は、2チャンネルや掲示板での学友に対するいじめとして象徴される。

そして、それは、食品の偽装問題にもかかわってくる。
この考察は大澤真幸氏に詳しい。
彼によれば、あの偽装食品は、内部に飛び込んでくるといった意味で、携帯やインターネットを思い出させるメターファーなのだという。
なるほど、現代の他者とのかかわりに対する考察として、一考に値する。

賞味期限などどうでもいいことなのだが、なぜにあんなにぎゃーぎゃー騒ぐのかと思っていた。
確かにマスコミがあおったこともその大きな要素のひとつだが、内部告発にしてもなんにしても、それほど現代は他者に敏感になっている時代かもしれない。

そのくせ、その他者を国民とか大衆とか言い換えると他者性はきれいに捨象されていく。
実際、国民も大衆もどこにも存在しないことを考えればそのことは容易に気づくことができる。

薬害肝炎や年金問題は、そこにはいない他者に対する配慮だから、あれほど無体なことをする。

「そのような無体なことはおやめくだされ、代官さま」
そう言ったところで届きはしない。
選挙が困るからな、程度の判断で動くに過ぎない。
そこには、具体的個別的な人間は存在しないのだ。
血も通わぬ、抽象的一般的な人間がいるに過ぎない。
それを国民と呼んだり、大衆と呼んだりする。

それがいやで、あなたは今日も携帯にしがみつくのではないのだろうか。

他者とは何か?

なんだろうな。
それは、血の通ったあなたの手のひらではないのでしょうか。
だとすれば、それはどのようにあなたに対し、この世界に対し動いていくのだろうか。

小田実さんならこういうだろう。

あんさん、えらいたいそうなことをおっしゃいますな。
それで、わたしはどないなりますのや。
あんたはどないしますのや。

わたしもこう答えるしかあるまい。
さっぱり見えませんな。
けど、まあ、考えていろいろ動きましょうや。
よかったら、あんたもいっしょにどないです?

いつでもまいるが、今日もまいった結論です。
すんませんな。

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