1月7~9日 模倣犯
ごたごた動くことが嫌いで、ただじっと陽だまりにい、本を読みながら、はるか向こうの山やすぐ手前の枯れ草を見、ぼんやりとしていることに至福を感じるようなところがわたしにはあって、いつまでもそうやって過ごしたい気分だったのだが、そうもうまくはいかず、いくつかの故郷での用事をこなすうちについに一月も上旬が過ぎようとする9日になってしまい、東京に戻るはめとなった。
東京に帰らなければならないと思うと同時に暗い気持ちになり、何の因果か帰る前の7日の夕方から帰る9日一杯をかけて宮部みゆき「模倣犯」を読むこととなった。
ずいぶん前に古本屋から200円で買い求めはしたが、ずっと放っておいたこの本は読んでみると、なかなかの本であった。
書かれているのは「人間と人間の関わり」であり、それにおどろおどろしい事件がのっかっている、そういう形になっている(わたしの見るところ)。
宮部さんの「人間と人間の関わり」に関する描写は、わたしの認識と一致する部分が多く、彼女がどこでこんな眼を持ったのか不思議に思った。(わたしがそれを得るために歩いてきたあまりにも遠い道のりを考えるとき)
作家の眼というものがあるのだな、しみじみそう思った。
彼女のあとがきにあるようにその眼は多くの人に教えられたものなのだろうが、その多くの人の視点をわがうちに取り込むことのためらいのなさに「なるほど」と感じ入った。
ある人の視点を取り込むことは、自分がいままで形造ってきた自分を壊し再構成しなければならぬ危険性をはらむだけに、多くの人はそれを毛嫌いするようなところがある。
まさにそれが生きることなのだろうとわたしは思っている。
つまり、自分にとっては未知のもの、自分とは異なるものを内に引き込まず、排他することで自分を守り、そうやって自分の今の状態を続けること、それが生きることなのだろうとわたしは思っている。
もっとも、わたしはそういう生きかたを選んでいないが、それはわたしの勝手にすることで、うまく生きることとは外れている。
いたし方あるまい。
しかし、作家はいとも簡単に未知なるもの異なるものを身のうちに引き込み、その視点を描き得るのだ。
「模倣犯」はその意味で驚かされる部分が多い。
原稿用紙3551枚の分量は、小説を書く際の手法、視点のとり方を際立たすために要した枚数である。
つまり、「模倣犯」を書くに当たって、宮部さんはある試みをした。
一見、三人称多視点という小説を書く方法をとっているのだが、この小説にあってはそれが大掛かりなのだ。
そのために小説のストーリー進行だけならもっと枚数が少なくても終わったはずなのに、こんなに大部になってしまっている。
詳しくはここに展開する余裕はないが、この小説は、大雑把に言えば、あるおどろおどろしい犯罪を被害者の側から、犯人の側から、それを描くジャーナリストの側から書いている。
有体に言えば、事件が重層的に描かれているわけだ。
そして、同じ内容を繰り返すこの手法がそれでも淡白なものにならないのは、その中心に「人間と人間の関わり」がすえられているからである。
視点が変わるとき、それぞれは三人称一視点をとり、それぞれの視点からその人生をあるいはその人生のある部分を切り取る工夫がなされている。
というわけだから、この大部の小説は三つくらいの単行本が寄せ集められていることになっている。
それだけでなく、傍らの登場人物に関してもできる限り肉付けしようとしている。
それはもはや死語となってしまったかもしれない「全体小説」を思い出させるといってしまってはほめすぎだろうか。
とにかく、ある志を持ったこのエンターテイメント小説「模倣犯」は、人はそれぞれに違い、それぞれの違う思いをもっている。そして、ときとしてその違う人間同士が触れ合い助け合うことができるということが書かれている。
どのように触れ合うことができるのだろうか、という問いをお持ちの方ならば読む価値は十分にあるが、そうでなければ読まなくてもよい長さである。
人はそれぞれに違う。
このことは大切な認識だ。
だからこそ、人はたやすく人に意見することは出来ない。
それが、好意から出た意見にしろ、違う人間に対して意見することの剣が峰を歩くような危うさを知らぬ者の意見は軽薄だ。
もちろん最初に書いたようにそれがその人の生き方だからそのことに難癖をつける気はもうとうない。
ただ、そんな有り様では、ほんとうの触れ合いなど出来はしないのだろうとわたしはそう思っている。
数少ない触れ合いに出会ったとき、あるひとは酒を酌み交わしたくなるものだ。
そういう夜をだれにも汚す権利はない。
ラベル: 作品
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