マトリックス
ひどい夜を過ごしたあくる日ということで、これを書いている。
まあ、そういう日もある、生きていれば。
「マトリックス」を見た。
「マトリックス」と言えば、オレの好きな
ネオ(キアヌ・リーブス) と
トリニティ (キャリー=アン・モス)
が出ていることで特殊な映画だ。
「マトリックス」のキャリー=アン・モスは、俺が個人的に好きな女だ。
キアヌ・リーブスにいたっては、もう7年くらい前になるのだろうか、オレが、この女と決めていた、フィリピンのミンダナオ島、第三都市、ブテゥワン出身のメラニー・サベーラ・トーマスに酷似している。
もっとも、キアヌ・リーブスは、有名なホモセクシャルで、その点では俺の趣味とは合わない。
さて、この「マトリックス」を見て思うのだが、この映画は、ある世界を描いた映画だ。
それが、現実と通低しているのはいうまでもないが。
井筒和幸や阪本順治が映画とは人間を描くことだ、と断言したりするが、事はそう簡単ではない。
もちろん彼らの発言は非常に重要で、ハリウッド映画のテイタラクを思えば、素晴しい発言だが、ここでは、ハリウッド映画のだめさを語ることはしない。
小説では、だいぶ前から、「わたしとは何ものであるか」を描いたものと「この世界とは何ものなのか」を描いたものと言うような二分法が、闊歩している。
たとえば、J・D・サリンジャー的だとかジョン・アーヴィング的だとかさ。
しかし、この二分法は、きわめて強力なものではない。
なぜかって?
だって、私を描くとき、世界を描かなければならないし、世界を描くとき私を描かなければならないからさ。
つまりは、この二分法は、ある志向を示しているにすぎない。
でもそれが、大事なんだけどね。
村上春樹などは、この手法でやっつけられたりする。
彼は、世界を描こうとした作品はひとつの短編集しかないからね。
「神の子どもたちはみな踊る 」ね。
したがって、この作品はすこぶる評判がいい。
このあたりの分析も今日はここまでね。
しかし、もはや、自分を描く小説に未来はないという言い方にわたしは、抵抗を少し覚える。
というのは、自分を描きながら世界を描くことだってできるからさ。
少し、大きすぎるテーマになってしまった。
また、新たにこのテーマは起こす。
オレは、いま飲みすぎていて、しかも飲みにいこうとしている。
この場合「飲みにいこうとしている」のほうが、ずっと重要なんだけどさ。
で、早急にまとめるのだが、「マトリックス」が世界に対して真剣に描いているのに驚いた。
いい作品だった。
映画を見て、仕合せになることもあるのだ、と思った。
まあ、そんな夜だったというだけの話さ。
な、F山くん。
ラベル: 作品
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