2007年12月23日日曜日

人は自分を変えない、そしてそんな自分を守る

人はいま自分のある状態がそうであるように思いたがる。
いままでもこうであったように、いまからもこうであるように。
つまり変わることのない何かのように。

しかし、人は変わることのできる生き物なのだ。
じつのところ。

人が自分を守るときの構造は、概ねこのような形態をとる。
多くは、その人間がこの国のシステムに取り入れられたときにその傾向は強い。

しかし、そうばかりではない。
いま、自分の思う自分の姿を揺るがすものに出会ったとき、人は、無理ながんばりをする、いや、してしまう。
それが生きるという姿の深いところにある。

たとえば、わたしは、それを「未知のもの」「異物のもの」との出会いのときにはっきりと検証されると思っている。
「未知のもの」「異物のもの」との出会いは、そういう自分の志向への試金石だ。

そんな出会いのとき、ああ、やはりわたしは変わりたくないのだ。
変わる気などないのだ。そう思わせる。
意識的であれ、そうでないであれ。

卑近なことを言おうか。
妻がありながら、新たな女に会う。
キャバクラの女じゃないぜ、もう少し本格的な女、つまり自分の実人生にかかわってしまうような予感をさせる女と出会うとする。
「未知なるもの」との出会いだ。
そのとき、人は、それを放りだそうとする。

間抜けな男なら、一度くらいはエッチをしようかと思うかもしれない。
あほだからね。
しかし、そんなところに問題はない。

「未知のもの」「異物のもの」にであったとき、それにどれだけ真摯に向かい合えるかは、その人間にとっての正念場だ。
向かい合えば、その後が変わる、自分自身が変わる。

恐ろしいかい?

しかし、あなたも少し以前までは、そうしてきたのだよ。

それが小学生のころまでのあなただったのか、高校生のあなただったのか、社会人のあなたであったのか、いつまでのことだったのかは、あなたではないわたしは知らないが、そうであったはずだ。

それを成長という。
成長とは煎じ詰めれば変化だ。
変化とは、過去の自分からの脱却であり、否定だ。
だから、すこし、痛みが生じる。
安楽な場所に立ったとき、人は痛みを拒否しようとする。

「未知のもの」はもともとそこにあったものではないようにしようとするし、
「異物のもの」は、誤った判断、生き方をしたものとして処理しようとする。
そうしなければ、いまの自分の存在が揺るがされるからだ。

それでいいのだろうか?

もともと、存在などというのは揺らぐことを前提にしたものではなかったのか?

もちろん、今でも揺らぐ人はいる。
だから、揺らぐその人にわたしは言う。

「心配するな。おまえがいくら揺らごうともオレがおまえの傍にいる。」
そっと、背中に手を当てる。
娘の目から涙が落ちる。

人はいつでも自分を変えていけるのだ。

心配しなくていいさ。

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