2007年12月22日土曜日

出会いは出会いを呼ぶ


昨夜は高井戸「ちゃんぷる亭」でN沢さんと出会う。
初対面だが、彼はいい顔をしていた。
わたしは人の顔だけはずいぶん見てきた。
だから、たいていの人間は顔を見れば6割程度はわかる。
さらに、少し話を交わせば、十分にイメージできる。
その蓋然性は80%を越える。

ほんとうか?

この場合の蓋然性は、わたしのもったイメージとしてその人物が動き語りだす蓋然性だ。
まあ、そういったごちゃごちゃは別にして、N沢さんからわたしは、ほとんど知らなかった「ロッククライミング」の話をしていただいた。
聞いているうちに、また、もう一度聞いてみたいと思ったものだ。
こういうことは、わたしとしては、珍しいことで、それだけ興味深かったということだ。
その後、ふたりは落語について語ることになる。
が、まあそれはいいだろう。

実は、この日は、「ちゃんぷる亭」の前に、高円寺「稲生座」で沢登秀信氏の歌を聞いていたのだ。
彼との出会いからは、10年以上がたっていたのかもしれない。
彼の姿、あるいは顔には10年の月日が、多少見え隠れしていたかもしれない。
しかし、それよりなにより、沢登秀信が沢登秀信であり続けてきたことが見て取れた。

いいものだ。

その人がその人であり続ける姿を見られることは。

そして彼の歌は深化していた。
いつ聞いても彼の歌は、わたしの心を越えてわたしの深部に響く。

沢登秀信からN沢さんへ、出会いは出会いを呼ぶ。
楽しい夜だった。
こういう夜は、わたしだって飲んではいけない酒も飲むのだ。


以下は蛇足。

沢登氏の「夏草や…」の歌には本歌取りの趣があったが、「夏草やつわものどもが夢の跡」からはるか遠くの場所まで来ていた。
また、ジャン・コクトーの「わたしの耳は貝の殻 海の響きをなつかしむ」を思わせる「耳は汽笛に焦がれている」という一節があったが、これもコクトーの詩句から遠く離れていた。
つまりは、ひとつの作品として美しく屹立していたというわけだ。

まあ、才能とでも言っておけばいいのかな、沢ちゃん。



「本歌取り」

●もっとも初期のころ

 《古今和歌集》巻二の紀貫之の歌

  三輪山をしかも隠すか春霞 人に知られぬ花や咲くらむ
  
  は、万葉集巻一の額田王の歌
  
  三輪山をしかも隠すか雲だにも 心あらなもかくさふべしや

  が本歌になっている。



●近代では以下が有名か(啄木は寺山をまねしているとまで言わせた。寺山自信まねっこの名人だから   さ。)


  ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし   寺山 修司

  
  ふるさとの訛なつかし

  停車場の人ごみの中に

  そを聴きにゆく     石川 啄木

  

  本歌取りは盗作と地続きなのでそのあたりが少し厄介だが、そのことはみんなで調べることとしよう。

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