2007年12月21日金曜日

やさしさ

「やさしさ」についての考察には限りないところがある。
ここでは、本日交わした息子との会話の中に潜む彼の「やさしさ」のことを書き留めるだけのことである。

そのとき、息子がなんと言ったかはあまり大きな問題ではない。
息子は、わたしのある行為に対して
「それは、母さんに悪いではないか」
そう言ったのだ。

優しい顔だった。

わたしはその顔に安心した。
優しい顔のできる人間はそれだけでいい。
彼は、母に対して優しい気持ちを持ち、それをわたしにぶつけた。
いい話だな、と思った。

もちろんそのときしていたわたしの行為には十分意味があり、なんら責められる余地のないものだったのだが、息子にはわたしの行為に対する想像力はなかった。
つまり、一体全体この男は何をしているのだろうか?
その程度のもので、その先にあるわたしへの理解はなかった。

想像力は意外と飛翔能力の脆弱なものだ。

ただ、「やさしさ」を持っていればいつか、彼の想像力ももう少し飛べるかもしれない。
どれだけ限定されていようとも「やさしさ」だけがあれば、救いはある。
あいつはあのとき、やさしい顔をしていた。
いつか彼の想像力がわたしのもとにまで飛んでくることができたならば…
淡い期待を描いたものだ。

ひとは「やさしさ」など簡単になくしてしまう。
そうなれば、終わりだ。
もしかしたら、その人間が死んでしまうことになるのかもしれない。

「やさしさ」には「想像力」が結びつく。
そして、その「想像力」は脆弱ながら「飛翔能力」をもつ。
そこにわずかなその人間への期待が生まれる。

「やさしさ」の方向性などどうでもいいのだ。
「やさしさ」は身のうちにもち続けることに本質はある。
あとは「飛翔能力」の問題となる。

ある程度の飛翔能力をもったそのときに、「やさしさ」は自分にとっての「未知のもの」と「異物」への対応という問題にぶつかることになる。

このこともいつかしっかりと書いてみたいものだ。
わたしには媒体がなさすぎる。

そのときのため、愚痴を言わずに書き溜めていくだけだ。
なあ、遅すぎた脱落者よ。

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