2007年12月15日土曜日

再び、消費者主権

消費者主権とは、消費者が自分の意志で勝手に買うものを決めてしまえということである。
当たり前のように聞こえるが、これがなかなかに難しい。

「AIDOMA」とは広告業界でよく知られた専門用語だ。
Attention(注意)→ Interest(関心)→ Desire(欲求)→ Memory(記憶)→ Action(行動)の頭文字を取ったもので、アメリカのローランド・ホールが提唱した「消費行動」のプロセスに関する仮説である。
消費者があるモノを知り、それから買うという行動に至るまでのプロセスで、コミュニケーションに対する反応プロセスといったことだ。
この一事を取ってもわかるようにわれわれは、かように操作され生きている。
自分の意志で生きることは本当にたいへんなのだ。

そのためのひとつのあり様を鶴見俊輔は以下のように書いている。(著作集第三巻より)

「偏見はつねにより自由かつより合理的な立場から批判されることを必要とする。しかし、だからといって、偏見なしの状態を理想として、偏見をもつことを恐れているのでは、責任をもって行動することからなるべくにげるという結果になってしまう。人間は、ある目標をもってがんばって早く前にすすもうとするとき、ちょうどヨットが進むときのように、かしいで進むものである。こういうさいの航行の推進力となる思想は、偏見の形をまぬかれ得ない。」

美しい文章です。
それは長く遠い、思考の末にたどり着いた文章だからです。
人は、このようにものを考えていければいいなと思う。

鶴見氏の文章を引用したのはほかでもない、「偏見」ということを話したかったからです。
さきほどの「AIDOMA」に代表されるようにこの国の商業主義は常にわれわれに偏見を刷り込もうとしている。
それが「ミシュラン」初版15万部の即完売である。
すでに十分にそれは達成されている。
それでも彼らはもっともっとと思っているのだろうが…

それを反撃するには、われわれには消費者主権しか残っていない。
そして、消費者主権のもっとも肝心なところに「偏見」がある。
私たちはそれぞれが、それぞれの偏見を持てばいいのだ。
そして、その自分の手にした偏見を意識していればいい。
(知らずに刷り込まれ、知らずにもってしまった偏見の恐ろしさは計り知れない。)

自分の手の内に偏見をもち、高らかに掲げればいい。
たとえば、賞味期限など知らない、私の嗅覚や視覚や味覚が決めるのだ、とかね。

だれかさんに、知らぬうちに踊らされているっていうのはあまりかっこよくないからさ。

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