2007年12月7日金曜日

ちゃんぷる亭あるいは「連続性」について

私が世話になっている高井戸「ちゃんぷる亭」は、横笛太郎という作家の始めたものだ。
そのせいで、時おり彼のことが話題になる。
多くは、彼の饒舌と話し上手が語られる。

ところで、先日その店のオープン当時から横笛氏の友人だったO氏と話す機会を持った。
ある理由があって、「ちゃんぷる亭」を出たわれわれ二人はその後、永福町の夜を散策する幸運に出会ったのだった。
そのときの彼が語った横笛評は興味深かった。
彼は「横笛さんは口数の少ない穏やかな人だった」そう言ったのだ。
わたしは、なるほどと思った。

わたしにはかねがね考えている人に対する考察がある。
それは人間における「空間的連続性」と「時間的連続性」だ。
このことばは辞書や辞典を引いてみても出てはこない。
わたしの用語だ。

「空間的連続性」
人は、ある女性に対するときとある男性に対するときとではその態度、印象が変わる。
なに、性のことを言っているのではない。
同性であろうが、誰かと接するときと誰かと接するときでは人は変わる。
当たり前の話だ。

では、そのとき、その人物の「連続性」、つまり、その人がその人であり続けている保証はどこにあるのだろうか。

饒舌な横笛太郎と寡黙な横笛太郎。
たしかに同じ人物なのだろうが、その「同じ」はどこにポイントを置いて語ることばなのだろうか。
同じ空間にいながら、そのときそのときに変わるその人の「連続性」とはどういったものなのか。
その「連続性」、つまり、同じ人間だと信じるわたしたちの根拠はどこにあるのだろうか。
この問題は、意外に奥が深い。

「時間的連続性」
こちらの説明はわかりやすいだろう。
「男子三日会わざれば刮目して見よ」
この慣用句はその成長に焦点を合わせたものだ。
しかしながら、刮目してみたとしてだ。
一年ぶりに見るその男なり女なりが成長していたとしてだ。
その人物が、一年前のその人物と同じである保証はどこにあるのか。

成長とは変化だ。
「連続性」を保証するものは、おそらく変わらないなにものかだ。
その人物の成長にもかかわらず、いまでも前のままにそこにあるもの。
それはなんなのだろうか。
わたしが問題にしているのは、そのことだ。

このふたつの連続性はときおり、文章に書かれることがある。
ただし、集中的に扱われることは少ない。
さらに「空間的連続性」と「時間的連続性」をならべて、考察を加えられたものはわたしの浅学のせいかもしれないが見聞きしたことはない。
わたしにとっては、少し大きすぎるテーマかもしれないが、腰をすえて考えてみたいテーマである。

昨日会ったお前は、いまでもお前であり続けてくれているのだろうか。

「同じように見えて、少しずつ変わっていくキミのことをぼくは知っているのだろか」(沢登さん、うろ覚えでごめんね)

歌手、沢登秀信の名曲の一節だ。
この歌詞にも「連続性」の問題が横たわっている。

横笛太郎に生前に会っていないわたしは彼の「連続性」と向き合うことはできない。
悲しい話だが、事実だ。

生きているもの同士でさえ「連続性」と向き合うことは至難だ。
もし「連続性」があるとすればの話なのだが。

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1 件のコメント:

Anonymous 匿名 さんは書きました...

空間的・時間的連続性はなかなか興味深い考察ですね。福岡伸一のベストセラー「生物と無生物のあいだ」弟9章に詳しいのですが、人間のからだを構成する物質はまさに流れるように絶えず入れ替わっていて、1年前に自分を造っていた原子は今ひとつも留まってはいないそうです。DNAの原子さえも! 生命というのは滔滔と流れ落ちていく原子の滝のスクリーンに投影した幻燈のようなはかなげな「状態」「現象」のようです。ところが自分はやっぱりずっと自分だ。となると、意識というのはいったいなんだろうということになる。奇跡的なればこそ大切にしないと。

2007年12月8日 18:11  

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