2007年12月12日水曜日

弱きもの


最近のわたしのブログに自暴自棄であるとか荒れている様子が垣間見られるといって心配してくれる人がいるが、ありがたいことである。
しかし、事はそう簡単ではない。

最近家人が、「精神の荒廃がその部屋の様子に現われる」とわたしに言ったが、この指摘は正しい。
まさにそういうことだろう。

そのあとに続けられた家人のことばは、「だから部屋をきれいにしなさい」だったが、これはまぬけなことばだ。
問題は精神の荒廃であって、部屋の乱れではないからだ。

「自己責任」などというくだらぬことばがこの国で跋扈しているが、あれもどうかと思う。

弱きものあるいは脱落者、あるいは敗北者、そうまで言ってもいいだろうか。
たとえば、ホームレスといわれる一群の人々がいる。
わたしも同じようなものだ。
彼らは敗北者なのか。

弱きものは、その人間が弱いためにそうなるのではない。
弱きものをその社会が生み出していくことにことの本質はある。
昔、カール・マルクスという人が教えてくれた。
それは資本主義の分析ということを通じて行われた。
彼の著作に間違いが存在するのはいまやよく知られたことではあるが、いい本というのはそのなかに間違いがあってもいい本だといえる。
逆にいかに正しいことだけを書いていようとつまらぬ本はあくまでもつまらない。
あたりまえのことだけどさ。

さて、元に戻ろう。
わたしが自暴自棄や荒れていることが事実だとすればこの国のシステムにわが身が合っていないからだ。
だからといって、その「自暴自棄」や「荒れている状態」捨ておいていいものではない。
ただし、この国のシステムがわたしを作り出したことから目をそらしてはならないと思っている。
もちろんわたしにもいくばくかの責任があるのだろうが、それはわずかなものだ。
弱きものはその程度に考えておいたほうがいい。
なにせ弱きものなのだから。

少し前に書いたことを繰り返すが、わたしはこの日本に暮らす中で「うつ」になっていった人間を擁護する。

あなたは弱きものだが、それはあなたのせいではない。
この国があなたにそれを強いたのだ。
もう少し詳しく書けば、この国のシステムに合うがごとくこの国の企業ができ、それを支えるように個々の家庭が存在している。(もちろん例外はあるさ)
あなたはその中に入るのが耐え切れなかったのだ。

弱きものに対するこの国のシステムに乗った人たちからの批判は厳しい。
彼らの多くは、自分がこの国の価値観をプリンティングされていることを知らない。
まあ犠牲者といえば犠牲者と言えるが、それにしてはあまりにも彼らはあこぎだ。

それはチャウシェスクの時代のルーマニアにおける「ドラキュラの息子たち」を思い出せばわかってもらえるだろうか。
あるいはミャンマー(本当はビルマなんだけどね)におけるアウン・サンスーチーに対するあの扱いを思えばいいのだろうか。

人々は、その国家に合わせて生きていく。
そこから外れたものは弱きものとなる。
そして戦いが始まる。

ではこの国では、なぜ何の暴動も起こらないのか。
ミャンマーのように。
パリのように。
タイの僧侶たちのように。

この問題は大きい。
わたしの力には余る。
ただ、我が敬愛する師は、1905年、つまりは日露戦争の勝利以降にこの国のシステムは構築されてきたと看破する。
誰たちによってか。
そして、具体的にはどのようなシステムか。
繰り返すが、これ以上を語る力をわたしはもたない。

いまは、人ではなくそのシステム自体がこの国を動かしている。
100年以上を越えてこの国を作り出してきたシステムの中、この国の弱きものに暴動を起こす力はなくなってしまった。
そうわたしは理解している。
もしどこかのボタンを押すことによってこの国に暴動が起こるなら、わたしが喜んでそのボタンを押したくも思うが、その可能性はきわめて薄い。

少しでもこの国がよくなることを願ってやまない。

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