2007年12月9日日曜日

ああした、こうした

たしかに生きている以上、わたしはああもしたし、こうもしたのだろう。
それが、何だというのだろうか。
そのような不完全態としてわたしは生きている。
それが批判されるべき対象なのだろうか。

国家の価値観に従い、企業の価値観があり、企業に勤める人々の作る家庭もそれに従う。
ある意味、それが美しいということをわたしは知っているが、
その美しさが、最も醜いものを生み出していくことも知っている。

昔、家の前で七輪でサンマを焼いたものだが、その煙をとやかく言う人はいなかった。
昔、隣にコメや醤油や砂糖を借りに行ったが、そういうことは日常であった。

ある人にいわれた。
これまでの不義を家人に謝れと。

わたしが何をしたというのだ。
たしかに誤ろうと思えば、いくつもの出来事は浮かぶ。
しかし、そんな不義を誤って成り立つ関係性などろくなものではない。

わたしは、正真正銘のろくでなしだ。
そのろくでなしのなかに愛すべきものを見る人だけに愛してもらえばいいのだ。

誤ってまで、愛してもらいたくはない。

愛はあくまでもその人の心に託されており、誤ることにおいて勝ち取るものではない。

胸をはって生きていればいい。
たとえ野垂れ死にをしても頭を下げて愛を請うなどということしてはいけない。

個人的には、来年の初頭の手術のために保証人が、わたしには必要だ。
その保証人に家人はならないというかもしれない。
前回がそうだった。
それはそれでいい。
家人の意志ならそれでいいのだ。

ただ、わたしに愛を感じない女にはどこかわたしのいないところに行ってくれというのがわたしの切なる願いだ。

今回は、彼女の返事はいかに。
意外に優しいかもしれない。

まあ、どうでもいいことだ。

私は、むやみには頭を下げないし、詫びない。
それを誇りという。

どのような人生を送ってきているとしても胸ははり続ける。
それもできないようだったら、そんな人生は、棄ててしまえばいいのだ。

今回は、きつい口調になった。

あらためて、詫びておきます。

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