2007年12月24日月曜日

漱石先生


しっかりと調べをしていないので、はなはだ面目ないのだが、夏目漱石に彼の神経症対策に小説でも書いてはどうだ、と言ったのは、たしか、高浜虚子だったはずだ。
その言を受け、漱石は、「我輩は猫である」を書く。
「猫」の文体のあちらこちらに読む人が読めば、ある種の神経症が仄見えるのはそのせいだ。

で、わたしも漱石先生と比べるのはおこがましいのだが、神経症で、それが、このブログをしたためることで多少緩和されている。

ところで、昨日はがきをふたつ書いたのだが、そのときに驚くことを実感した。
手で書くことのほうが、ずっとわたしの精神にやさしく、強く影響するのだ。
漱石先生の時代、かれは「猫」を我が手で書いたはずだ。
それが、どれほど彼の力になっただろう。

わたしは、このブログが助けになっているが、キーボード入力によるブログは、手書きには劣る。
そのことをわたしは昨夜、ふたつのはがきを書くことで知った。

「箱庭療法」という有名な心療内科の治療法があるが、あれは、何かを作ることが主眼ではないのではないか。
何かを我が手において作り出すことが主眼なのではないか。

石川啄木の昔から、人は追い詰められると手を見ることになる。
それは、ただただ悲観しているのではない。

その手に力があることを暗に知っているのだ。
意識的にせよ、そうでないせよ。

若者よ、恋人の髪に優しく触れろ。
そのことだけが、我々の救いだ。

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