アルコールというもの
このブログを読んでいただいている数少ない大切な人たちの中には、わたしがアルコール依存症にちかいのではないのかと思っておられる方がいらっしゃるかもしれないが、この件は少し複雑だ。
わたしは、ずいぶんとお酒を飲んできた。
しかもかなりこだわった飲み方をしてきた。
たとえば、日本酒なら、「神亀 真穂人 中汲み生原酒」というような。
この酒は、恐ろしくうまい。
値段は、そこそこ張るが、たしか一升瓶で五千円弱だったろうか、この値段は実はかなり安いものだ。
神亀は埼玉県蓮田市の酒蔵で、とても良心的な酒蔵だ。
良心的とは、その作り方もそうだが、価格をつけるときに原価率が極めて高いのだ。
つまり、原価と比較してきわめて安く値段を設定する。
日本で一番かもしれない。
なにしろ、この「神亀酒造」には小川原専務がいるから。
小川原さんは、その道では、神亀教教祖と呼ばれたりするほど、酒を愛し、神亀を愛し、酒を飲む人たちを愛する人だ。
その人ありての神亀だ。
この神亀をわたしに教えたのは知る人ぞ知る、浜田山「伊勢屋酒店」の親父だ。
もう十年以上も前になる。
そのころ、酒のことをいろいろと彼から教えられていたわたしは、「今年の神亀 中汲み」はいいとその親父にいわれたのだった。
その親父によると自分が神亀酒造で試飲してきて仕入れたそうだ。
さらに詳しく、親父は説明した。
「いやあ、23番タンクが最高なのさ」
その当時、すでに樽で酒を作っていなかった。
タンクで醸造していたのだ。
そのタンクがいくつかあるのだが、23番タンクの出来が非常にいいというのだ。
つまりはこうなる。
神亀がうまいと親父はいっているのではないのだ。(もちろん神亀酒造は良心的で、そのすべての酒がうまいのだが)
「伊勢屋酒店」の親父は、
「今年の、23番タンクの、神亀の中汲み、はいい」と言ったのだ。
多くの通と称する人間はいう。
やれ、菊姫がいいだとか、天狗舞がいいだとか、開運がいいだとか…
まあ、それはそうだろう。
しかし、それはあまりにもいい加減で、あいまいすぎる物言いではないか。
ほとんど何も言っていないのに等しいのかもしれない。
それ以来、わたしはあまり酒のことを話すことはなくなった。
もちろん、話してわかる人と愉快に話す夜もあるが。
ワインにわたしは詳しくないが、ワインにはビンテージがあるので、話はもう少しシャープになっている。
しかし、ワインのことをしたり顔で話すのはどんなものだろう。
恥ずかしいことではないだろうか。
以上は、ひとつのエピソード。
されに言っておけば、わたしは、日本酒だけを飲んできたわけではないので、バーボンならエズラ、ジンならタンカレー、ラムならバーバンクール、テキーラならゴールド…と、それぞれに好みはある。
そして、実際にはそれらの酒についてはもう少し詳しく語らなければならないが、今回はいい。
あ、ひとつだけ話しておこう。
洋酒に関しては、マール酒、グラッパ、こいつはいい。
とてもお得な酒だということだ。
どちらもワインを絞った後のぶどうかすから作るのだが、フランスではマールと呼び、イタリアではグラッパと呼ぶ。
もちろん、どのワインを作ったしぼりかすかによるが、なんにしろいいものだ。
話が、とんだ横道に入ってしまった。
閑話休題
そのようにしてわたしはアルコールを嗜好品として楽しんできた。
問題はこれからだ。
酒が嗜好品から薬品へと移行するときがある。
ここなのだ、問題は、つまり抗不安剤として、酒を飲み始めることがひとによっては起こるのだ。
そうなると、酒はほとんどどれでもよくなる。
酒の種類を選んでいるうちにはその心配はない。
それが、何でもよくなったときには注意しなければならない。
「酒が強い」ことに何の意味もないが、酒が嗜好品ではなくなるとき、酒の強さは増していく。
そのとき「酒が強い」という表現は「酒に対する耐性ができた」に変わる。
どれだけ呑んでも酔えない状態は酒に強くなったわけではなく、薬として効かなくなってきただけのことなのだ。
くりかえすが、クスリの意味は、代表的には抗不安剤。
平たく言えば、いまの自分を忘れさせるためのもの。
その症状に対する酒はきわめて有効でそれを否定する気持ちはわたしにはない。
ただ、本物の薬のほうがいいに決まっている。
たとえば、いまわたしが使っている「レキソタン」とかね。
とにかく、過敏すぎる精神を持つものは、ときとして酒に走る。
クスリの存在を知らなかったり、医者を嫌がったりで。
で、あなたはどうなのと尋ねられるのですか?
まあ、そんな夜もある、といったところでしょうか。
わたしは依存症の手前で立ち止まっています。
だって、わたしには「レキソタン」とあなたがいるのだから。
ラベル: 作品
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