2008年3月3日月曜日

真夜中の瀧の音

昨日は、自宅にいられぬ理由が出来、2時間ほど図書館に行った。
そこで、恥ずかしい話だが、久しぶりに止まってしまっている自作、「真夜中の瀧の音」の下調べをした。
自分が、ぐいぐいとその作品の中に引き込まれる感触を、また覚えた。

何かを作るとか、何かをし続けること一般に隠されている秘密は、そのことをどれだけ長く考え続けていくかということである。
作家は、書くときだけそのことを考えているわけではない。
歌歌いは唄っているときだけ歌を思っているわけではない。
ボクサーは試合のときだけ、練習のときだけ、ボクシングのことを考えているわけではない。

作品と言ってしまおうか。
ここで言う作品とは、歌であり、ボクシングの試合であり、成し遂げた仕事の成果であり、ほれぬいた女との恋の成就であり、作りたかった味の完成である。

作品が作品となるためにはイメージが必要なのだろう。
イメージを実体化させるのが作品であるならば、もともとイメージのない人間に作品を仕上げることは出来ないではないか。

では、いかにイメージを作るか。
その秘密のひとつが、そのことを考え続けるということである。

あまり健康的な話ではないし、ゆったり生活している人が入り込む世界ではない。
(おそらく、そのゆったりした生活のほうが数倍素敵だろうから…「トニオクレーゲル」の主旋律のひとつは、おそらく、そのゆったりと生活できる人々への限りない憧憬だろう。)

しかし、何かを作り出すことを本当に思うならば、これは仕方ない。
身も世もなくそのことを思うことである。
そうすれば叶う。

でも、もし叶わなければ…?

それは、狂うしかないんだな、これは。

しかしさ、思い続けている限り、結果は登場しないという真実もある。
思うことを止めるから、やっぱりだめだったんだなという結果が登場するのだ。
あくまでも結果を登場させるかどうかを決めるのは、あなたであり、わたしなのだ。

さて、まあ、よしんば、思い続ける何かを持っていたとしようか、あなたとわたしが。

それはそれ。

暖かくなってきた。
ふたりで、しばらく、そこの縁側で日向ぼっこでもしないか。
それで眠くなってきたら、船でもこぎゃあいいさ。

気を抜きながら、身も世もなく 日向の中の 向こう側

とはいうものの、
基本的にはがんばっちゃだめだ。

自然の流れで、そう思わずにいられぬ自分と向き合うのがいいな。

とにかく、もう少し生きていこう。

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