2008年3月1日土曜日

人の心はわからぬもので…

タイトルにこう書いたからといって,他人様の心の内側を指しているのではない。
むしろ場合によっては、他人様のほうがわかりやすい場合もある。一時的には。
変わるからねえ、心なんぞというものは。

夢でいいから 持ちたいものは 金のなる木と いい女房

いい女房というのは、変わらぬ心をもっているのかねえ。
いやあ、もってないだろう。
持ってない代わりにほかに何か持っているんだろう。
いい女房というくらいだからね。

まあ、自分にしても他人にしても人の心なんぞ探らぬものだ。
心なんぞ、そんなに固定的なものではないし、はっきりしたものでもない。
闇夜に浮かぶ枯れ尾花のほうがよっぽどましだろう。

もし、ある心が固定的だとしたら、それはその心の中に悪意が交じっているからだろう。
まあ、経験的には、そういうことになるね。

大切な友人が今秋田に行っている。
今夜は、横田泊まりだという。
明日は、親父に会うのだろう。
一人暮らしの親父と会うのは、大変だろう。
むかし、校長先生をやっていた親父と一人息子の彼はなにを話すのだろう。

親父の話をただただ聞いていてくれればいいのだろうが…、彼が話さないといいなあ。
親父は、話しているうちにいまの自分が何者かとわかり始めてくるだろう。
それが、北国のしんしんとした夜の父と息子の風景だ。
間に熱燗の日本も置いておくか。
かすべは、先ほどのビールで食べてしまっている。

感情のこもる親父の話から徐々に感情が剥ぎ取られていく。
そして、さらにゆっくりとしんみりと話し続ける。
息子は時間の流れが変わったのをはっきりと感じる。

そんな夜はないか。
淡い期待だろうか。

田舎に親父がひとり、息子は都心で結婚している。妻ひとり、子どもひとりだ。

さて、どうする。
難しい問題だ。

「おひとりさまの老後」をわたしは全面的に支持はしていないが、そこはそれ、名だたる切れ者、いいことも書いてあるわけだ。
同居の大変さがしみじみとわかる本だ。

「むかしむかし、あるところにおじいさんとおばあさんがいました」

てな具合ではない。

「このごろは、いたるところ、どこへ行ってもおじいさんとおばあさんがいます。特におばあさんなんぞは、いないところを探すのが大変なくらいで…」

ところどころにいた、むかしのおじいさんとおばあさんとの同居といまの同居の質は違う。
そういうことを上野さんは教えてくれる。

我が友人は、どんな結果を持って帰ってくるのだろうか。
いずれにしろ、わたしは支援しなければなるまい。

そこのところが、かれとわたしの関係の変わらないところだ。

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