2008年3月3日月曜日

しぐさは嘘をつかない



このところ、かみさんの言うとおりにしているのだが、ときどき驚くことがある。
それは、わたしが、もともと勝手気ままに生きてきた人種で、そのため必要としない相手の反応に鈍かったからなのかもしれない。(だから気づかなかったのだな。)
わたしがこどもが嫌いなのも、こどもはわたしにとって必要のない相手だからかもしれない。
もちろん、幼き日の我が子は可愛かった。
あれは特別だ。
いまは、どうか?
いまの娘と息子がわたしにとってどうか、それはわからない。
愛されてもいない人間に対し愛を贈る習慣をわたしは持っていない。
(それが正しいかどうかの話ではない。わたしはそういう類の人間だといっている。)
愛されたときは、ひとにもよるが、それはそれは大変に感動することになる。
よくぞ、わたしごとき人間を愛してくださいました、となる。
それがどんな愛され方であっても、まあ、そういうふうに初期的には作動する。
それから先は物語だ。
いろいろと違う物語が展開する。

さて、もどって、あまり相手もしてこなかったかみさんとつきあっていると、教えられることがある。
教えられるとは「自分が知らなかったことを、あなたはこういうことがわかっていないのよ」と諭されることだ。

最近、大きく諭されたのは、ちゃんと言葉に出して言えということだ。

「ありがとうございました」
「おまたせしました」
「ごちそうさまでした」

まあ、あいさつだな。
なるほど、そう言えばまるく収まる。
わたしは、あまり、そういうことを言わない。

人から出された食べ物があまりおいしくなければ「おいしい」とは言わない。
しかし、おいしければ口を極めてほめたたえる。
特にその料理に手間暇かかっていたりしたら、それはそれは、ほめそやす。
そういう愛情に出会うのはいいものだ。

ところが、社会で生きていく場合は、そういう中身は関係ないらしい。
とにかく

「ありがとうございました」
「おまたせしました」
「ごちそうさまでした」

でいくといいらしい。
確かにそういうことばをしゃべる努力をしていくとかみさんとうまくいく。

しかしなあ、と思うのはわたしの浅はかさだろうか。

わたしは、亡くなったおふくろに「ありがとう」なんてあまり言わなかったのだよ。
おふくろはわたしの顔を見てそんなことは、すべて了解していたのだよ。

人間は言葉を使ってコミュニケーションをするが、言葉の占めるコミュニケーションのポジションはそれほど大きくはないらしい。
専門家の本のなかを探してみたらいいが、確か、半分いかないのではなかったか。
つまり、ジェスチャーや表情やその他の身体の動きの送る記号のほうがコミュニケーションにおいては大きいというのだ。

確かに日常生活をおくっていくうえで、言葉は大きな潤滑油になるだろう。
しかし、それは潤滑油で必ずしも内容のあるものではない。
潤滑油は必要だろうが、油ばっかりでは胸焼けしないか?

コンビニやハンバーガー屋に行くとそんなあいさつは山ほど聞けるが、今は亡き「灘コロンビア」の新井徳司氏の笑顔にはめったに出会えない。

新井さん亡き後の灘コロンビアに行ったときにやけに店内が暗く感じられたのを覚えている。
そう思いながら飲んでいると、どうも妙な感じがする。
変だなと店内を二三度見回して気づいた。

一ヶ所だけ明るいのだ。

「ああ、これが妙な気分にさせていたのだ」

そこには亡き「新井徳司」の写真が飾ってあった。

人が人に向けてする挨拶もここまでいくことがある。
言葉が大事なら大事でいいが、言葉なんて中に何にも込めなくても簡単に操れることも知っていないとね。

「しぐさは嘘をつかない」

いい言葉だと思う。

握り締めたその手だけがおまえの真実だ、などといっているのは、何も甘いだけのセリフでもないのだ。
心底そう思っているところがあるのです。

ちゃんと言葉にするのが、社会生活をおくるのにとても大事なこともわかるけどさ。
やっぱり、抽象的にも具体的にも抱きしめているほうがいいよな、それも日向くさい中でさ。

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