名づをけが、あなたを止めている
わたしが、人の目から見て「呑んだくれ」としてそこにあるのならば、「呑んだくれ」として過ごせばいい。
しかし、わたしが実は「呑んだくれ」という役割を安直に演じているにすぎず、本来の(この「本来」というところが物議をかもすところで、こんなふうに使ってはいけないのだ、甘い言葉の使い方だと、しばし反省しきり。)わたしがどこか他にいるとしたら、それを探すためには、まずは「酒をやめる」こと、「呑んだくれ」を演じるのをやめることから始まるのは事の道理であろう。
というような話を書こうと思っていたのだが、それはまた次にさせてください。
ふと今日、思ったことを書きつけさせてほしい。
いくつかのモノグラフになりそうなことを書きなぐっていく、こういうわたしのブログのありようを深くお詫びし、それでも読んでくださる、あなたに感謝いたします。
このブログであったろうか、わたしは、私自身に「帰巣本能」や「営巣本能」がないことを書いた。
いわば、そのように自分自身を言葉によって決めつけたのだ。
「言葉によっての決めつけ」から敷衍して「名づけによる立ち止まり効果」というわたしの造語の話をさせてください。
わたしは、きれいになった我が家の中にいてそれでも残っているほこりや汚れに目がいくようになっている自分に気がつきました。(かみさん指示のもとに部屋を掃除したのでした。)
それは、このごろのことです。
そして、本日はっきりわかったのです。
わたしには、今まで見えていなかった部屋のなかのゴミやすすやほこりや汚れが見えるようになった。
さらに、そのことがとても気になる。
わたしの母は毎日家を掃除していました。
それは、昔の女たちにとっては、哀しい日常だったのでしょうか。
そのことをわたしは詳しくは知りませんが、母の掃除姿はいまだに目に焼きついています。
そういうことを考えながら、気がつけば、わたしは雑巾がけをしているのだ。
その行為は、心地よくさえある。
わたしは自分に「営巣本能」がないと書いたし、そう思ってもいた。
嘘である。
その「決めつけ」がわたしの別の姿、「本来(=おそらく)」そうであったろう姿を見えなくしていた。
「営巣本能のない男」というわたしによるわたしへの「名づけ」がわたしにそこへの「立ち止まり」を強要していたのだ。
知らない自分と出会ったのは、かみさんとの関係がもたらしたものだ。
その新たな自分は私自身の行ったわたしへの「名づけ」の放棄から始まった。
「名づけ」はいたるところで行われている。
わたしに関してだけ振り返っても、いたるところで行っている。
問題は、その「名づけ」が間違っているかもしれないという意識だ。
もしその意識を意図して持たなければ」「名づけによる立ち止まり効果」は明らかに発生する。
あなたが名づけたようにあなたは振舞うようになり、そのようなあなたにあなたはなっていく。
ああ、たくまずして元の地点に戻ってきた。
「呑んだくれ」という名づけにもその効果はある。
おまえは、ほんとうに「呑んだくれ」という名づけのもとに生きている男なのか?
きれい好きな、営巣本能に長けたこのわたしは、そのように自問してみるのだ。
我が断酒はさらに続き、「呑んだくれ」という役割で生きていく安らかなる場所はさらに遠ざかっていく。
おまえは何ものだったのか。
『狂人日記』色川武大著をもう一度読み返そうと思っている。
ラベル: 作品
0 件のコメント:
コメントを投稿
登録 コメントの投稿 [Atom]
<< ホーム