いかなる状態であっても
正岡子規の「病床六尺」を読んでいると頭の下がる思いがする。
南木佳士の「トラや」になるとそれが少し身近になるが、身近にはなるものの彼の生きる姿にある距離を感じるほど真剣に自分と自分のまわりに対していくこの小説の中身は、南木さんが、たくまずにいたものだろうが、滋味があふれる。
「トラや」という本のなかには、このブログで展開した多くのことが、さらに深い眼差しで書かれている。
頭の下がる思いだ。
このブログのどこかの箇所に何かを感じていただける人ならば、この一冊を読むことによって、多くのことをわかってもらえると思う。
そのことを南木さんは、自分のうつ病体験の中から拾い出していく。
そこに「トラ」という猫を添えたのは、南木さんの小説家としての技量である。
ただし、これは技術的なことではなく、「トラ」がいなければ、この小説は成り立たないと感知した彼の才である。
ここまで丁寧に書かれると、なるほど、わたしのブログに書いた内容のある進むべき可能性の一つも見えてくる。
しかし、まあ、このしんどいときにこんな本によく出合せていただいたものである。
誰かが、どこかでわたしを見てくれているのかしらん、と思ってしまいそうになる。
がんばらずに、少しだけ生きていこうと思う。
南木佳士の「トラや」になるとそれが少し身近になるが、身近にはなるものの彼の生きる姿にある距離を感じるほど真剣に自分と自分のまわりに対していくこの小説の中身は、南木さんが、たくまずにいたものだろうが、滋味があふれる。
「トラや」という本のなかには、このブログで展開した多くのことが、さらに深い眼差しで書かれている。
頭の下がる思いだ。
このブログのどこかの箇所に何かを感じていただける人ならば、この一冊を読むことによって、多くのことをわかってもらえると思う。
そのことを南木さんは、自分のうつ病体験の中から拾い出していく。
そこに「トラ」という猫を添えたのは、南木さんの小説家としての技量である。
ただし、これは技術的なことではなく、「トラ」がいなければ、この小説は成り立たないと感知した彼の才である。
ここまで丁寧に書かれると、なるほど、わたしのブログに書いた内容のある進むべき可能性の一つも見えてくる。
しかし、まあ、このしんどいときにこんな本によく出合せていただいたものである。
誰かが、どこかでわたしを見てくれているのかしらん、と思ってしまいそうになる。
がんばらずに、少しだけ生きていこうと思う。
ラベル: 日常
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