2008年3月8日土曜日

小田実追悼会に行く前に

昨日上野千鶴子氏のことを書いたが、さらに加えておくことにします。

この書き手は、切れ味の素晴しいセリフを好む。
その嗜好がどこから来たのか、深くは知らないが、その太刀さばきはかなりなものである。
こういう文章には、その切れ味のよさのためにほころびが見えてしまうのだが、彼女は、そのほころびを縫う社会学での修行がある。
そいったところが、彼女の強みだと思う。

彼女の剣が打ち伏せたものに目をやれば、そうではない敵がいなかったかというような、批判を出したくなるが、それはあまり意味はない。
そういうものは、彼女の見逃したものが、あまりに大きいときに真っ向から彼女にぶつければいいのであって、彼女のいないところで、つまらぬ荒捜しをしてもあなたの身にはならない。
これは、誰に対する批判についても同じだ。

そして、言わずもがなだが、批判をするにも相手を選ぶ必要がある、という認識は大事なことだ。

以下、彼女に教えられたことのうち二三の例を挙げて、小田さんの会に行くことにする。

もちろん、すべてに感服しているわけではないうが、そうではないのではないか、という疑問よりも、彼女に教わったことのほうが大きい。


「家族のメンテナンスを怠ってきたからこそ、男は家庭に居場所を失ったのだ。」
「ほうっておいても保つような関係は、関係とはいわない。無関係というのだ。」
「愛し合ったらコトバはいらないが、そうなるまでにはコトバがいる。」(石川好からの引用)


すべて、わたしに抜けていた視点だ。

わたしは、それでも、このようなことを無視して、「コトバのいらない愛し合った世界」に、「「居場所のある家庭」に「ほうっておいて保つような関係」に、別のルートから入っていけると思うが、そのようなことをここで語るより、上野さんに教えてもらった視点のほうが大きい。

「人を信じることが、あなたには必要だと思う。たとえ、それで裏切られようとも、あなたには人を信じるということが必要な気がする。」

これは、東氏が柳美里にいったコトバだという。
正確な文句かどうかは危うい。

この東氏のコトバと上野氏の発言の差を考える値打ちはある。
それは、批判ではなくあなた自身、わたし自身の中に入ってくる何ものかをもたらしてくれると思う。

単なる予感だが、確かな予感だ。
これを「気配」という。

時間が迫ってきた。

昨日に続けてここに記しておくが、わたしは、上野さんから少なからず教えられた。
ありがたく思っています。

では、再見!

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