2010年7月31日土曜日

詳細は書きたくない

金曜の夜から土曜の昼にかけての時間は、ここには記せない間抜けぶり。
生来の馬鹿を何度となく確認しながら、今ブログを書き起こしている。
ただ、それでも人と知り合う手立てにだけにはなっており、あの店長との親交を深めたのをはじめ、美しき娘、仙台、シンカちゃん、そして…新宿の裏社会の面々とは懐かしい逢瀬を重ねた。

それをここに書けないのは、あまりにも衝動に任せてこの12時間あまりを疾走したからで、これはしっかり本にでも書かない限り元は取れない。

さらに追い込まれたわたしは、この夏のすべてを地道に執筆作業をすることを誓うのだった。

本当かよ、おまえは!?

あのシンガーを目指す娘に会わなくていいの?

悪魔のささやきが去来する。

先生、
猛省しております。

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2010年7月30日金曜日

久々の鬱

酒をやめているものだから、鬱と会うのは久しぶりだった。
出会いたくない昔の女と道でばったりという感じだ。

かつては大酒を飲んだ後、アルコールが抜けきる頃に強烈なのが来た。
こいつは経験してみなくてはわからない。
これは鬱という病気なのだと意識していても自己否定のスパイラルは耐えがたいものがある。

今回は、その暴風が6時間ほど吹き続けた。
この6時間、心底怖かった。

もし、みなさんのまわりに鬱症状の方がいらっしゃるのなら、思い切りやさしくしてくださいね。
鬱は病気ですから、彼らの意思とは関係ないものですから。

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2010年7月28日水曜日

何のために

わたしは根っこが真面目だから(笑わんでくださいよ)、誰かに恋をする時、何のためにかと思ってしまうことがある。
実は、以前そういうことを教えてくれた人がいたからなのだが、なるほど自問しがいのある問いだと思う。

人はその人を直線的に恋するだけではなく、シリアスな問題から逃げるためにも恋をする。
自分が抱えてしまったシリアスな問題から目をそらせるために一人の女まで利用してしまう身勝手な自分が存在する。

たとえば、わたしを見てみようか。
わたしは、20歳になる長女と交流がない。
言葉も交わさなければ目も合わさない。
笑顔など見たことはないし、笑い声も聞かない。
そのくせ心の奥底ではヒリヒリと焦げつくほど娘を思っている。
どうやらそれがわたしの実態だ。

そういうことに最近気がついた。
そして、異常に若い男女のことを心配するわたしの習癖の謎の中身も少しだけ垣間見えてきた。
(息子とも似たような関係だ。すべて好き勝手に生きてきたわたしが生み出したのだから、まさに自業自得)

わたしは、息子や娘への愛情を認めたくない。
認めてしまえば、その渇望が現在の家庭環境を地獄絵図へと変えてしまうからだ。
けれども認めたくない彼らへの愛情は見ないようにしても確固たるものとしてわたしの中に存在する。

いずれ述べるが、愛情というものは目的地をほしがるものだ。
愛情はどこかに向かいたがるのだ。
行き場のない愛情ほど困った代物はない。
愛する人を失ってしまったケースを考えればわかるだろう。

わたしの場合、溢れ出す娘への愛情が心の中に渦を巻いている。
そいつを維持する苦しさに愛情の目的地として誰かを探し出す。
探し当てれば、娘へ行くはずの愛情が彼女に奔流となって注ぎ込まれる。
彼女がわたしに愛されていると思ってしまう所以だ。
もちろん、それが彼女自身に対する感情に変わることもあるが、始まりは逃げ場としてその人を見つけ出したことは告白しておかなければなるまい。

もちろん、こんな馬鹿げた話を直接話しはしないが、自分への確認のためにここに記しておくことにした。

念のためにつけ加えれば、もしわたしと娘の関係が良好に流れ出したとすれば、ハッキリとつき合っている彼女の意味はわかる。
それでも彼女が必要ならば、それはすでにその人を愛し始めているのだし、必要ないと思ってしまえば、申し訳ないことだが、逃げ場としてしか考えていなかったことになる。

このような恋愛もあることを知っておいてほしい。

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TUTAYAにて

昨晩、と言っても深夜近く腹がくちくなっていたのでふらふらと散歩していたのだが、その途中で「TUTAYA」に遭遇した。
2時までやっているこの本屋兼ビデオ屋に寄ってみるべえと入ったのだが、そこで浴衣姿の三人の娘に会ったのだった。
ビデオを借りようとしているその三人の娘は、まさになんだかなあというような間抜けな会話を交わしていたのだが、あろうことかそのうちの一人のしゃべるときの表情がウチの長女と同じだったのである。

ああ、ウチの娘はこの女レベルだったのかと改めて感慨にふける。
通りでわたしの話を理解しなかったはずだし、通りで怒鳴って怒ったときから交渉がなくなったはずだ。

けれども残念ながらわたしにこの種のバカ女と話す趣味はない。

長女ももう20歳。
都心にある大学に通っている。
時おり見かけるが、間抜け顔から少しは脱却したようだ。
これからどうなっていくのだろうか。
せめて、わたしに言葉を交わせる仕合せを与えてほしい。

せっかく須賀敦子が教壇に立った大学に行っているのだもの。

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2010年7月27日火曜日

ブラックジャックによろしく

「ブラックジャックによろしく」を読み継いでいる。
しかし、マンガというものはまったくもって侮れない。
むしろマンガこそ、と言っていいのかもしれない。

わが畏友板垣恵介のバキシリーズにおける彼の苦労も聞くたびに感化されるし、その内情を知ってしまってからいくつかのマンガに驚嘆の声を上げる。

マンガは売れなければならない。
そして、売れたものこそ本物が多いという事実がある。
そこが、軽軽しく芸術云々してしまう小説とは違うのである。
(もちろん、小説にも度肝を抜かれる作品はあるのだが…)

標題に掲げた「ブラックジャックによろしく」だが、恐ろしいほどの取材力だと思う。
さらに、これだけの重い話題をよくぞ売れるところまでもっていったものだと感心する。
わたしは、マンガのいい読者ではないので佐藤秀峰氏のほかの作品を知らないが、まったくもって端倪すべからざる作品です。

この夏、ご一読をお勧めします。

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2010年7月26日月曜日

「ジウ」は快作なり

「ジウ」三部作を読了する。
小気味いい切れ味である。
ミステリー好きにはもろ手を上げてお勧めする。

「ジウ」の素晴らしさは、ミステリーを越える要素をふんだんに入れ込もうとする意思にある。
その意思とその成果にわたしは何度か涙してしまった。
(まあ、泣きべそなんだけどね、わたしは)

ミステリーを越える要素とは何か?
それを大仰にここで説明をすることはしないが、ジョン・ハートの「川は静かに流れ」「ラストチャイルド」をイメージしていただければおわかりになると思います。

ミステリーを越える要素をミステリーに入れ込むことをあきらめてしまった作家に高村薫がいます。
ミステリーを越える要素ならミステリー仕立てにしないでもいいではないかという発想ですね。
けれども、やはりミステリーに放り込まなければ味は出ないのです。
この難解な話題を論じることは、別の機会にさせてください。

ところで、問題の「ジウ」ですが、ここにも赤ちゃんが登場します。
一見すると門倉がそのように見えますが、伊崎のほうが重度の赤ちゃんなのです。

わたしの傍の赤ちゃんは伊崎に門倉が混じっています。

どっちにしても、赤ちゃんは大変ですごく心配なのです。

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シアナマイド再登場

四月の半ばから酒を断っているのはご存知だろうが、またぞろ自分の意志に自信が持てなくなってきた。
そういうわけで、断酒剤シアナマイドを飲みだしている。
この薬を飲めば、肝臓におけるエタノール代謝を大きく抑制し、アセトアルデヒドを体内に蓄積させることになる。
アセドアルデヒド。
ご存知のように、こいつが悪酔いの原因となるもので、このアセトアルデヒドが体内に蓄積すると普段酒が飲める人間も極めてひどい状態となる。
かくして、断酒剤の効果は無敵となる。

わたしは昔、シアナマイドを嚥下した後に飲酒したことがあったが、もう二度と酒を飲みたくない状態になった。

人の精神など弱いもので断酒を続けていくために今やわたしの精神は助けが必要なのである。
それが、シアナマイドなのです。

ここ数日は、その弱さをわたしが感じるもので、シアナマイドに助けてもらっている。
なんだっていいのだ。
酒さえやめ続けていけるなら。

そういうわけで、かつての飲酒友だち諸君。
わたしは、いまやシアナマイドを飲む男となった。
決して、わたしに酒を飲まそうなどと思ってはいけないぞ。

ちなみにシアナマイドより坑酒効果の長いものにノックビンがあるが、副作用(だるさ、めまい、頭痛など)の頻度がシアナマイドより高い。
ノックビンの世話にはなりたくないものだ。

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白鵬が泣いたのは…

マスコミが全勝優勝した白鵬をとやかく分析しているが、そういうつまらんことをしないでくれないか。
君たちマスコミが作り出した嵐に白鵬が翻弄されて泣いているくらいがわからないのだろうか。

相撲界とやくざの結びつきは昔からあったし、今も薄れてはいるが、まだある。
それだけのことである。
部外者にも関わらず、それを当事者面して君たちが責任を取る覚悟もないくせにやんやと騒いだのだ。
阿呆が。

参るんだよな。
相撲をかき乱してもらっては。(結構好きだからね)
どこらへんが落としどころか、君たちはまったくわかっていない。
ま、わしもわからへんけどね…

清濁併せ呑むという言葉もあるほどで、清浄化を錦の御旗として振るだけ振って後は知らん顔じゃ困るんだよ。

あんたらが、うまく着地させろよ。
相撲界にそんな能力がないのは見ていてわかるだろう。

これは、とんでもなくややこしい問題になっていると思う。
しばらく経てばこの国の人は忘れるだろうが。

マスコミが次から次へと騒ぐだけ騒いで煽るが、みんなはすぐに飽きる。
それにみんながついていく。

もう、頭痛くなるな。
この構造は、マスコミと視聴者だけでなく、そこいら中に転がっている。

やれやれと思うことしきり。

今年の夏は、やることが満載だというのに。

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2010年7月25日日曜日

雲峰先生と語る

上野の森美術館で雲峰先生の作品を眺めた後に雲峰先生と食事をした。
身に余る幸福。
その席上、雲峰先生が赤ちゃんの話をしたのがおかしかった。

赤ちゃんとは自分の思い通りにならないとぐずってしまう人間の比喩だ。
ぐずり方も色々だから赤ちゃんも色々だ。
わたしも困った赤ちゃんを抱えているが、雲峰先生もそうらしい。


雲峰先生の赤ちゃんはこうだ。
雲峰先生にどうして書道をやっているかを問うてくる。
致し方なく少し説明するが、相手はわからない。
それはそうだろう。
書の道に足を踏み入れたことのない人間が、書にどっぷりと浸かった人から何か聞ける僥倖は早々ないのである。
それがおわかりにならない。
雲峰先生が意地悪をして教えてくれないと、最後には怒り出してしまうらしい。
これには困ると、雲峰先生はこぼしていらっしゃった。

それを聞いて、まことにおかしかった。
どうやら赤ちゃんというのはどこにもいるらしい。

わたしの困っている赤ちゃんとは違うが、雲峰先生も大変である。
ご同情申し上げる。

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2010年7月24日土曜日

似合わぬことはすまい

昨夜も資料を渡しにシンガーを目指す娘の所を訪れたが、気恥ずかしさが走る。

オレは、何かいいことでもしていると誇っているのだろうか。
かつて、ただの飲んだくれだった男が、酒をやめたというだけで何が変わったというのだ。
相変わらず、先をしっかりと見据えない自堕落な生き方で人生を過ごしいているだけではないか。

美しき娘を前にして思う。
もうこれっきりで関わるまい。
人はそれぞれが生きていき、出会うべくして出会うのだ。
どこか人工的な臭いのする出会いには嘘がある。

オレとこの美しき娘との出会いには異臭がある。
よくないことだと思う。

昨夜は急にもたげた内省にしばし哀しい夜を過ごしたのであった。

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雲峰先生、上野の森美術館に侵出

いやあ、まさに快挙であろう。
もちろん、雲峰先生はこれからも前進し続けていくのだろうが、それにしても「上野の森美術館」に出展とは、素晴らしい。

努力の結実は形を通らないことも多く、喜びが素通りすることもある。
形を見て人は初めて変わっていく自分と出会うのだろうと思う。
そういう幸せを雲峰先生も上野の森美術館に展示された自分の書で感じるのではないだろうか。

けれども、わたしは、雲峰先生には大変失礼ながら、彼の書がこういう形で上野の森美術館に展示されることがなかったとしても彼の努力の結実をときに感じ取ることがある。

伊藤さん、これからもお進みください。
傍で、眺めておりますよ。

本日、上野には13時過ぎにお伺いします。

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2010年7月22日木曜日

目の前の女

別に男でも構わないのだけれど、目の前の人間にめっぽう弱い。
いや、極端に反応する。
イヤな奴なら一分一秒でも早くその場から逃れようとするだろうし、大好きなら自分の身を焼いてもその人の笑顔を見たく思う。
なんなんだろかと思う。

そのくせ遠くにいる人を思うことはそれほど得意ではない。
というより遠くにいる人の面影が浮かぶことはない。

いわば、
目の前のお前が好きだ。
そればっかりである。

だから、目の前には大好きな人を置いておきたい。
大好きな人が来れば表情が崩れる。
なんともわかりやすい人間だと思う。

で、最近そのお気に入りの人が増えて困っている。
目の前にお気に入りの人がいれば必ずその人のひとときの幸せのためにいらぬ気苦労をしてしまう。
そんなことをやっていると死んでしまうぞと職場の仲間が教えた。

それで、少数精鋭で行かねばと処理にかかっている。
処理しようと思えばたいていは処理できる。
何、一等好きな人のことを思えば、次善の存在価値などないのだ。

そうしてもいいほど周りに人が増えてしまった。
仕合せなことだけれど、身体が持たない。

新たに出会った人に幸せあれ、最も愛した人に幸せあれだ。

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美しき娘が…

美しき娘が歌い手志望と知ったものだから、わたしの知り合いと何人か会って、画策している。
こういう作業は、時間がかかるし、うまくいく可能性は少ないのだが、韓国から来て音楽学校へ通い、四年間もの間、下働きをし続けた彼女に一回のチャンスがあってもいいとわたしが強く思うのは、わたしの深い長女への愛とその愛を長女に伝えられぬ哀しさの中に生じる鬱勃たる情熱が起こす悪戯だ。
そういう事情をわたしが知っている事は大きく、若い女性にこんなにも強く引かれることの道理をわたしに納得させる。
この道理のため若い女性と深い関係に陥らずにすむ。

まあ、もともとこのロートルにそれだけの魅力もないのだが…

というわけで、このところ会社が終わってから人に会ったり、始業前に約束をしたりでシッチャカメッチャカである。
で、情けないことにまたぞろ読書をする余裕がなくなってきた。

ここは、この美しき娘のように頑張って、夢のために下働きをやっているという気概で乗り越えたく思う。

万分の一の確率で娘がデビューする異常事態が起きたならば、改めてこのブログでこの美しき娘を紹介します。

その時は、応援をよろしくお願いします。

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なんじゃ、こりゃ!

左の足首の不具合が気になっていたのだが、昨夜帰宅しておもむろに靴下を脱いで見ると大きく腫れ上がっているではないか!

なんじゃ、こりゃ!

わしゃ足首をくじいた記憶なんかないぞ。
どこでどうやってくじいたんじゃ?
ただ歩いているだけでわしの足首はこんなになるんか?
わしゃ、そんなにデブなんか?

どうすりゃいいんじゃ。

昨夜はシップを張って寝たが、今朝起きてみてもまだ痛いやないか。
どないしょ。
わしは普通に生活していてこんなに腫れるような足首の捻挫をするんかい。
どうすりゃいいの。

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2010年7月21日水曜日

さらに「ジウ」


早々に、しかも軽薄にものを言いそうになってしまうのがわたしである。
良くも悪くも。
アハハ
「ジウ」は、今のところ三部作である。
そのⅠを読んだ限りにおいては名作の香りがする。
まず間違いはない。
犯人の造形が控えめだが、しっかりと深く掘り込んである。
他の人物造形も劣らず魅力的である。
しかも何よりこの物語がミステリーでありながら愛を書こうと執着しているところが魅惑的だ。
犯罪のなかに見え隠れする愛はもっとも深い形で現れる。
それを掬い取ることはきわめて困難だが、その金魚すくいが誉田のもっとも得意とするところなのだ。
誉田の小説の魅力はこの一点に極めつくされる。
誉田哲也の特徴である。
しかも彼はそれを女の側から書こうと試みる。
わたしは女性の心理がさっぱりわからない。
なるべくたずねようと努力しているが、その努力も最近のことである。
そういう付け焼刃で女性を理解しようというのが無理だ。
普通の男どもよりは多少はわかる程度である。
であるなら、この誉田の卓見とも言うべき洞察力はどうだ。
(ややこしいことを書けば、誉田の書く女性心理が本物かどうかはそれを知らないわたしにはわからないのですが…)
読者は、必ず基子にも美咲にも生々しく惹かれていくはずだ。
そして、絶妙のサスペンス素材としてのジウがいる。
わたしは歌舞伎町の中国人と薄っぺらではあるが親交がある。
普通人としては恐ろしくあるほうだと思う。
事実、ここに仙台として登場する女性は中国人で、わたしは彼女の二人の息子とも親交がある。
言っては悪いが、彼女は最底辺に近いところで歌舞伎町に生きている。
そういう女とつき合う男がどうなるかご存知だろうか。
彼女とのつき合いの仲で、生きることのたくましさを教えられ、生に真っ向から挑む女性に優しくなっていくのだ。
その真剣さにおいて日本の女性の多くは彼女たちに引けをとる。
異国の地で何の保証もなく働く彼女たちと少しでもつき合ってみれば、キミの上っ面な生き方の化けの皮ははがれる。
もっともそれを持ってキミを批判することは少々大人気ない。
とまれ、新宿歌舞伎町が舞台で中国人が主たる登場人物である小説にわたしは弱い。
「不夜城」がそうだったね。
馳さんには、幾つかそういった作品がある。
二つの作品を除いてはエログロでしかない馳星周をいまだに気にする所以である。
大沢在昌にもそんな小説があったな、あまりいいものではなかったが。
ま、それほど歌舞伎町に巣食う中国人の存在は大きいのである。
小説のネタに頻繁になるほど。
で、「ジウ」もまたわたしの中の何ものかに火をつけてくれた。
くりかえしますが、こういう特殊な事情がなくても「ジウ」は素晴らしい作品だろうと思う。
まだ、全巻読んでいないからね。
けれども、読む前にひと言。
この作品、注意が必要だ。
「ジウ」はこれだけの長編だ。
ある程度の助走が必要なのだ。
文庫本で言えば、160ページあたりまでは我慢しなければならない。
160ページまでは主人公の女刑事二人とその恋人になると思われる刑事二人の人物造形が行われ、人物造型にほぼ格好がつくところまでは小説の仕掛けに当たり、必須ではあるが、読むのが多少メンドーなのだ。
あとは、最後まで一気だろう。
「ジウⅠ」ではそうだった。
「ジウⅡ」「ジウⅢ」は、本日中に読み上げるだろう。
おお、昔の読書力と読書スピードが蘇ってくるではないか。
これならば、気になっているジュンパ・ラヒリもアン・タイラーも読み進んでいけるだろう。
ああ、黄金の本とのつき合い。
本との蜜月が始まった。
胸の中がそぞろ騒いでいる。
恋しい人と談笑する前のようである。

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心の中の快晴

長く瑣末なことが心の中を占め、鬱々としておりました。
いま、勢いで瑣末と書いてしまいましたが、実はわたしにとってはとても大切なことでした。
ただ人には瑣末に見えるし、そのことの重要性をわたしがここに説明するのもかったるいので瑣末としたのでした。
人間関係に対する悩みは相手が真摯に生きているかぎり、必ず自分にとって重要な問題として浮上してくるのです。
浮上したその問題に思う存分立ち向かい戦い続ければ、きっと思いもよらない見晴らしのいい原っぱに出てきます。(そう信じてください)

わたしのイメージでは、それは春の原っぱです。
この夏日が続く今日この頃に春の原っぱなどとレンゲの花を思いながら書いてしまうところにこのところのわたしの浮ついた気分が見て取れます。(阿呆が)

こういうとき、わたしは言葉でミスを侵します。
ゆめゆめ間違うまいぞ。

とにかく、大切な人に軽々とものを言ってはならない。
耐えられるだけ没交渉を続けていかなければ何も変わらない。

何、急ぐことはない。
今までも十分無駄に生きてきたではないか。

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2010年7月20日火曜日

本が読めない恐怖


このところわたしの不謹慎で本を読むことから離れていました。再び読書生活に戻ろうとしたときに小説が読めなくなっていることに気づきました。無理に読もうとしても興味をそそらないのです。

そういう状態のわたしを救ってくれたのが誉田哲也「ジウ」です。誉田哲也は心強い。そして、新たなエンターテイメントを密やかにその小説世界に潜り込ませるのに巧みです。ジウという犯人のなんと魅力的なことか。わたしは一人の若者をジウに重ね合わせてしまいましたが、それは必ずしも必要なことではないと思います。

かつて、鶴見俊輔はわたしにミステリーにおいて犯人が魅力的であることはとても重要な要素であることを語ってくれましたが、まさに「ジウ」がそれを満たしています。新宿鮫シリーズの第二巻「毒猿」の主人公である犯人を思い出してくれてもいいと書けばほめすぎだろうか。

けれども、ときに人は過剰とわかっていながらそうほめざるをえない対象と出会ってしまうことがあるのをわたしは知っています。

実は、いまがそういう気分なのです。                      

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本音を語ることでしか

本音を語ることでしか人との付き合いを知らないわたしは、それが商談であろうともこの態度を変えません。
この態度はややもすれば批判の対象としてさらされますが、それでもわたしはその態度を翻しません。
この態度を持って人に会い続けなければ、肝心なその人に出会えないからです。

その機会はいつ訪れるかわかりません。
商談の中かもしれません。
そして、肝心な人との出会いを見過ごしてしまう悲劇をわたしは味わいたくはないのです。

人との出会いなくして人生を気づけないことを知っているからです。
人は人を見ることでしか成長しないのです。

あなたを尊重する所以です。

肝心なその人を見逃さぬため、あなたにその目が舞い降りることを願っております。

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マダムシャワリのおつまみなマーケティング

タイトルのブログを内緒でたまに覗きますが、なかなかの文章です。
わたしの感心するこのブログは、明らかに読者を意識しています。
読者、読み手、つまり受信者に対して行う気遣いは明らかに技です。
こういう文章を読むとふむふむと何度も納得してしまいます。

コピーを書く上で一番大切なメンタリティを「謙虚」と言い切る力強さは、コピーライターとして多くを経験し、くぐり抜けてきた筆者の経験だけが書かせるものであり、誇るべき資質だと思います。

直接にお話することはないですが、その資質は限りなく高く聳え立つ塔に似て見上げると眩暈がします。

著者に仕合せな仕事との出会いがあることを願ってやみません。

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2010年7月19日月曜日

ケニヤ

わたしは、9ヶ月ほどナイロビにいたことがある。
旅行はともかく、それが唯一の海外体験である。

そんな過去はどうでもいいと思っていた。
それが、どうだ。
今日のテレビでケニヤのドキュメンタリーをやった途端に懐かしくてしょうがない。

人は具体に反応する。
それが本質だ。
抽象化された議論に左右されてはいけない。
あなたが好きなら好きでいい。

あの町が好き。
この肴が好き。
そこが好き。
あそこが好き。

それがすべてです。

具体の香りのするケニアをテレビジョンンで見た途端、わたしは反応する。
わが、ケニヤ。

それが、ときに、キミを抱きしめたい所以です。

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長く妻に言われていたこと

部屋を片付ける気分になったのは、いつ以来だろう。
妻には何度か言われたが、片付けたかったら片付けたらいい、オレはこのままでいいから、そう答えていた。

いつもそうだ。
妻が文句を言うたび、そのようにしたかったら自分でそうしろ、オレはこのままでいい。

なんという男なのだろう。

生き方の文句を言われたこともあった。

なるほど、そういう生き方の男が好きならそういう男と一緒になればいい、オレはこのままで生きていく、いつでも別れてやるから…

書いていて思う。
なんという男なのだろう。

その男が、長年妻が言っていた「部屋をきれいにしろ」を実践してみた。

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2010年7月18日日曜日

夜郎自大の男

わたしは特殊な生まれ育ちだから夜郎自大になることはない。
むしろ常に自己否定に走る傾向にある。
常に自分がつまらぬ男に見えて仕方がない。
性分だ。
受け入れるしかあるまい。
そこからどう生きるかは自分で考えることにしている。

とにかく、夜郎自大はみっともない。
その態度で、大切な人を失うこともままあろう。

人は、自分に合った出来事にしか出会わない。

とくに人は相手に合わせて演じ分けるものだ。
わたしだってそうだ。

今いる職場で、わたしが思う存分話していいと思うのは、今のところ二人だけだ。
後の方には、申し訳ないが今のところそれほど人間として魅力を感じない。
(もちろん、変わるかもしれないが…)
感じなければ、いい加減に接する。
それで、仕事に支障が出なければ十分だろう。
それが、失礼だと思うなら、自分を磨くことだ。
それ以外に人は接してくれない。
わたしもまた、自分を磨くことで相手から本音を引き出してきた。
つまらぬ奴にはつまらぬ返答しかしないのが本物の人間だ。
馬鹿には厳しいに決まっている。
それがイヤなら馬鹿でなくなるしかしょうがない。

いい奴とつき合うんですよ、いい奴と。
毎日馬鹿としゃべっていたら、完全に馬鹿になります。
何人もそういうくだらぬことをやっている人間をわたしは知っています。

注意?

彼に?
彼女に?

するわけないじゃないですか。
そういう馬鹿は見捨てられるだけなんですよ。
だから、この人はと思ったら必死に喰らいついていくんですよ。

そうでなかったら、馬鹿と一生つき合っていけばいいんですよ。
なにが楽しいのか、わたしにはわかりませんがね。

言いいたいことは、夜郎自大では人は腹を割って話してくれないということです。
逆もそうです。
いつまでもペコペコ振舞っていたら、しまいにはあきれ返られて見捨てられるということです。
自分を粗末にするのもいい加減にしろということです。

というわけで、いい人に出会うためには色々と工夫がいる。
そういう技は誰かに教わるしかない。
技を知っている人は多くない。

周りにそんな人がいれば、逃さないことですよ、キミ。

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大切なメール

つい先だって、嬉しいメールをもらった。
なんとも小気味いいタンカにも取れる内容で惚れ惚れとしてしまったのです。
それをここで紹介したい。

そのメールには、こう書いてありました。

私は私のことを嫌いな人がいても、全然平気です。
必ず自分のことを理解してくれる人がいると思っています。
人に好かれるために自分を作り上げるのは、かったるいし、自分の生き方ではないと思っています。

わたしは、これを読んで泣いてしまいました。
この人には、ダンナもいるし、暑いどこかの島に若い男の子の恋人もいます。
この人の年齢は気にしていないので、幾つかはわかりませんが、40くらいかなあ、あのショートカットの人は。
あんまり詳しく書くのは差し控えますが、大好きなんですよ、こういう人が。

わたしって、大好きか大嫌いなんです。
だから、人に好かれるために自分を作り上げる人は大嫌いです。

その人が、わたしにとって大切な人だったら何としてもそういう生き方をやめさせようとします。
一回性の人生を人に媚びてどうするんですか。
惨めな人生じゃないですか。
そんなんだったら、今すぐ死んでしまったほうがいいと思いますよ。

自分を、自分の人生を馬鹿にしすぎています。
人は、自分を愛し、自分として胸を張って生きていくのです。

自慢じゃないですが、わたしの周りにいる若者はみんな胸を張って生きています。
また、そうでない男も女も片っ端からわたしは切り捨てています。
もちろん、胸を張って戻ってくれば、もろ手を挙げて再び迎えます。

とにかく、そういう中でちゃんとそのことを言葉にして生きている大切なメールを送ってくれた人を改めて知って、わたしは、本当に心強いです。

ブログでしかお付き合いできない皆さんも含めて、わたしはあなたの理解者ですから、きっと、胸を張って生きていてください。
どなたであれ、コメント欄にメールを下されば必ず応援しますよ。

人に媚びてもいいけど、裏に回って舌を出すくらいの気分で媚びてくださいね。
「とんぼさん、また今日もあのアホの上司の機嫌を取ってきますよ。」
そんなメールをくれる若者もいます。
それでいいんですよ。

あなたが自分を愛し続け、素敵な人に出会っていけることを願っています。
夏痩せなんかしないでね(笑)。

ラベル:

何のことはない

本日は、わたしもどこにも行かず、家でゴロゴロしながら本を読んで過ごしている。
昨日は張り切って、よくこなしたのにいきなり休日体制。
へばるんだよな、根性なしだから。
でもって、ブログを書いている。
小説を読んでいる。

この忌々しきジジイめが。

何だかなあ、志田くん。

ラベル:

家事

女房がやってくれないし、やってもらう習慣もないので、結婚以来わたしは、ずっと炊事・洗濯・掃除とすべて自分の面倒は自分でみてきた。

それが、どうした加減か、この頃、これはやたら大変だと感じるようになってしまった。
多分、ふと思いついて衣類を買い込みすぎたからだろう。
スーツ二着。
ジャケット七着。
コート四着。
革ジャン。
こいつらがいまだに整理されていないのだ。
あ〜あ。

家事ってホントに大変ですよね、内田さん?

ラベル:

休日の日常

わたしの休日は忙しい。
近所の農家に朝取れ野菜を買出しに行く。
簡単な惣菜を作りながら洗濯をする。
(家事をやってくれるような妻はもっておりません。)

ひと段落したら、一週間分の水を取りに行く。
家の近くにいい湧き水があるのだ。

それが終わったら図書館と近所の八百屋と肉屋に顔を出す。
顔なじみだからひとしきり世間話をする。

借りてきた本とCD を眺めながらお茶を飲む。
紅茶であれ中国茶であれ、いっしょに飲んでくれる人はおりません。
日ごろの行状から家庭では孤独なのです。
淋しいもんです男は。

自由は孤独であがなえ。

そういうことです、男の人生は。
でもまあ、甘えたくなるときもある、女性に。
そういうときに誰に会うかといえば、そのときそのときだが、失礼な話、会っていても肝心な女と会っている気はしない自分がいる。
そういうわがままを言っているものだからこんなふうになってしまったとつき合っている女性たちは微苦笑することが多い。
あ~あ。

で、お茶がすんだら洗濯を取り込み、まだ時間があれば初台の仕事場に行く。
そこで、少し作業をやっていると一日の終わりとなる。

ま、こんなもんだな、わたしの休日のあわただしい一日は。

ラベル:

病院デー

昨日は心療内科を訪れる前に血液検査の結果も近所の内科に承りに行ったのだった。
要は、例の原発性アルドステロン症の進行具合の検査だったのだが、こちらはなんともいえない状況で近々に虎ノ門病院で再検査を受けなければならない。
場合によっては手術だが、手術となると金の工面もあるし、会社も休まねばならない。
これはこれで、とても頭が痛い。

かかりつけの内科は、この際思い切って副腎を取ってしまったほうがいいかもしれませんねと気楽に言うが、こちらは生きた心地がしない。

その後での原先生との会話だったので、わずかな安寧が訪れたのでした。
何にせよ、わたしは病院によく世話になっていて、身体も心も病みやすいことをうらんだりもする。
けれども考えようによってはそれが飯のタネでもあり、その身体と心がわたしの発想を裏打ちしてくれているのだ。

こういう不安なときには、傍にしっかりした女性がいてくれると助かるのだが、女房を含め、誰も見向きもしてくれない。
日ごろの行いはこういうときに影響してくる。

困ったものだと、ひとり嘆いている。

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心療内科

昨日は久しぶりに診療内科の原先生と話し込んだのだが、わたしの断酒による精神への好影響は、精神医学で予想される結果ではあるが、それにしても画期的なものだと微笑まれていた。
断酒を踏み切らせた社長に感謝しなくてはいけませんよと言われ、いつもの感謝を繰り返し頭の中でなぞってみるのだった。

けれども睡眠が不安定なのはまだ治っていないのはどうしてだろうと質問を続けると、睡眠障害には無呼吸症候群もあるし、どうしても気になるようであれば、一度精密検査を受けてみるといいと原先生はおっしゃるが、それでもって手術だなんてことになるとわたしも大変困る。

手術は生理的にイヤだ。
よほどのことがなければ避けたいのだ。

けれども、4時間の熟睡と2時間のうとうとがあれば(実際、わたしの睡眠はそのようなものなのだが)まあよしとするべきかもしれませんねということになり、わたしの精神は断酒によりほぼ正常になったと判断された。

そう言えば、3月の末ごろだったか、強烈な精神不安定が来たことを思い出す。
わたしの会社の社長は現場をご覧になっていないが、それは強烈だった。
原因はある人からのメールの返事が来なかったことによるが、精神の不安はそんなことでも引き金になる。
よほどその人のことを思っていたかといえば、そうでもなく、ただその人の物語を紡いでいたのだった。
このあたりがいかにも病的で、その人のことは100時間以上は思っていた。
そのときは、優しいその人がわたしがメールをくれないと死んでしまうと懇願したら即座に簡単な返事をくれ、それで随分気分が落ち着いたのだった。
ちょうどそのメールのやり取りをしていたときに雲峰先生と新宿で待ち合わせをしていたのだが、わたしの真っ青な顔にショックを受けられて、とにかく横になれとしきりに勧められたのを覚えている。
ちょうどそのとき、メールが入って、みるみる顔色が戻るのを見て雲峰先生はすごいものを見たとあきれられていた。

精神が肉体に影響を及ぼす極である。

そういう精神を持ってしまったわたしだから人が痩せているのを見たりすると、その原因を狂おしく想像したりもする。

みなさんもお気をつけください。
精神と肉体はほとんど区別がつかないほど密接ですから。

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橋本忍と松本清張

これは覚書のようなものだから、深くは、みなさんで考えたほしいなどという不遜な文章でまことに申し訳ないのだが、どうしても気になりここに記します。

これも昨日、図書館でうろうろしていたとき(会社の仕事の資料探しと文章書きに出かけたのです。意外と生真面目な男です。)、松本清張の「点と線」が目に入り、そう言えばと清張の作品について思いをはせていた時のことでした。
ぽっと浮かんだのです。
清張と橋本忍の関係が。

たとえば、野村芳太郎の「砂の器」の脚本は橋本忍です。
このシナリオは随分大胆に原作を焼き直している。
創作といってもいいだろう。
そこで行われたのはアルチュセール言うところの再構成である。
橋本忍は再構成の天才である。
もう少し正確に書けば、黒澤作品でわかるように最初から作り上げていく作品もあるにはあるが、(あれも黒澤のアイデアを橋本が再構成したのではないかとわたしは睨んでいる)橋本忍の真骨頂は再構成にある。

で、こんなことを考えてみた。
清張なくして橋本忍の脚本は生まれないが、清張の小説をそのまま映画にしても橋本の書き下ろした橋本版清張映画に遠く届かない。

清張は橋本の脚本は書けないが、橋本はいかに遠く離れたものになろうとも清張の小説がなければ「砂の器」を書けなかった。

これは、どういうことだろうか?

そういうことを語れる人間としみじみ語ってみたい。

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2010年7月16日金曜日

先のブログを読めば

苦笑せざるを得ないが、そういう思いにとらわれることはある。
決して恥ずべきことではないと、わたしは言っておきたい。

現代にないもののひとつの象徴ではないかとさえ思う。
ねえ、マニュアルなど要らないのだ。
キミが思ったようにキミはその人を愛せばいいのだ。

そう言って背中を押してあげたいときがある。
いまこの世に氾濫する情報の多くは、キミをまやかすためにだけそこにある。
そんなふうに教えてあげたい。

キミが決して失ってはならないものはキミの中にあるキミの心を感じる力だ。
心を感じられなくなったら、哀しいことに心は消えてしまう。

わたしは、キミが心をなくして歩いていくのを眺めることは出来ない。

せめてわたしの愛する若者にだけは、このことを伝えておきたい。
それが、大人の務めだろう。

この国に大人はいない。
そういっていいほどの悲惨な状況のなか、若者が歩むことを手助けしてみたい。
そういう生真面目な思いがわたしのなかに流れている。

この二回のブログ、直裁に徹して書きました。
暑苦しい文章になってしまったことをお詫びします。

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理屈なんてものは

いくつもの言葉を弄し、どれだけの理屈を積み重ねようとも、今、このオレがお前を思う気持ちなどつかまりはしない。
どれだけの方便で虚構の愛を語ろうともお前への愛を汚すことは出来ない。
お前への思いがとぐろを巻くようにオレの胸に住み着いてしまったものだから、惨めにオレは立ちすくんでしまう。
途方にくれ、ああ、と声を出してしまう。
自分が今ある歳も、自分のこれまでの人間関係も、お前を思うときどこかへいってしまう。
雲散霧消するよしなしごとがそんなにも大事かと思いつめる。
何かが見えるのかとでも言うように目の前に再び注がれた酒盃を見つめつくす。

そういう夜もある。

遠い若き日のあの夜であったのか、それともつい今しがた過ぎ去った昨晩のことか、それさえも思い出せないけれど、お前への思いだけはしっかりとオレの胸の奥底にくすぶっている。
業火になってしまいそうなその熱さに生きていることをしっかりと感じてしまう。

こういうことだ。
今も昔もいかなる理屈で自分をなだめようとしてもそれをあざ笑うかのようにお前への思いは突出していく。
理屈なんてものは、この思いの前では何の役にも立たないのだ。

問題は、この思いに自分をゆだねられるかどうかだけだ。

まだ、オレはこの恋に身をゆだねられるのだろうか、キミよ。

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2010年7月15日木曜日

一生懸命歩いてはいるのだが…

酒は飲まない。
極力歩く。
けれども面白いように太る。

どうしてかと彼女に聞くと、わたしの食べているチョコレートを指差し、
「そういうお菓子みたいなの結構食べるわけ」
と聞く。

わが身を少し振り返り、
「スナックとか、チョコとか好きだからねえ」
「そりゃあ、太るわよ。ジュースも飲む?」
「ああ、酒を飲まなくなってから甘いものがほしいからジュースやコーラも飲むけど…」
「どんどん太るわよ。今より、もっともっともっと」
「どうしたらいいの?」

スナックやチョコやジュースをやめて走るのよ。
運動しなさい。
腹筋とかも。

歩くのって、たいして効かないわよ。
このデブ!

だって。(笑)

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2010年7月14日水曜日

ゲゲゲの女房

わたしは、あんまりテレビを見ませんが、「ゲゲゲの女房」を週に一回くらいは見るんです。
いや、見るというよりは一端見始めるとテレビを消すことが出来ないんですね。
たった15分という放映時間もいいじゃないですか。

どうしてこの番組に引き込まれるかといえば、マンガ家の売れるまでの様子が描かれているからです。
マンガを書く必死さ。
編集者とのやり取り。
出版社が何を考えているか。
そういうことが具体的に映し出されるのです。

マンガ家を小説家と書きかえてみてもいい。
ただ才能があるから売れるわけでもないんですよね。
今読者が何を望んでいるかをよく知っており、その需要にいかに対応するかというプロデュース能力も大きな売れる要素なんですね。
いくら才能があっても時代の要求を読み損なえば終わりなんです。

そこが、この番組を見ているとよくわかるんです。
それが魅力なんですね。

わたしの大切な娘の話を書きましたね。
彼女は、音楽学校に通っているんです。
歌手になりたいんです。
歌はまだ聞いていないけれど、容姿はわたしの折り紙つきです。

けれどもねえ、わたしがこの娘は魅力的だと思ってもダメなんですよ。
多くの男性がそう思わなければ。

そこでふと考えこんでしまうわけです。

彼女の魅力をしっかり受け止める男は、この日本にはそう多くないだろうな、と。
日本の男は、総じてお子ちゃまなんですよ。

彼女をわかるには大人でなければならない。
このわたしのように…、なんてちょっと威張ってみたりして(笑)

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2010年7月13日火曜日

いやあ、笑わしてもらいました


二代目桂枝雀を久しぶりに聞いた。
いま、わたしは結構シビアな仕事状況にある。
急ぎの原稿を抱えて、すっかり参っている。
で、ありながらだ。
枝雀師匠の「夏の医者」「八五郎坊主」で笑った。
大いに笑った。
「八五郎坊主」は、あの伝説の録音版だ。
八五郎がお寺の住職から、人には丁寧に対応しなさいと注意されるのだが、この版ではそのくだりを枝雀が抜かしている。
抜かしていると話の展開上とても困るのだ。
それを枝雀はどのように飛び越えるか。
これがおかしい。
枝雀、最高!!
よし、明日の朝も通勤途中に聞こう。
たぶん、それを聞いたまま会社に行けば、わたしは笑いこけているだろう。
また、変なオヤジと思われるだろうが、かまいはしない。
わたしは、元々変なオヤジなのだ。

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2010年7月12日月曜日

中村大地という棋士

中村大地は小さい頃から知っている。
うちの息子も将棋を指していたからね。
強さで言ったら、中村君がやはり強かったが、うちの息子も届かないほどの差はないと思っていた。
今もそう思ってもいい。

けれども、先の土曜日、テレビに出演する中村大地を見たときには驚いた。
完全に顔が出来上がっているのだ。
言ってしまえば、はるか向こうまで透き通ってしまったような光が差していく、そんな顔だ。
この顔になるのは大変だ。
明らかに才能と資質を感じた。

翻って、自宅で見る長男の顔。
これは、ダメだ。
中村大地と比較しようと言うのが土台無理だ。

いい顔は、いい人間との付き合いで生まれる。
これはという人間は、これはという人にしか素顔を見せない。
わが息子は、そのような敬愛に足る人と出会えるだろうか。
出会えなければ、あの腐ったような顔のまま死んでいくことになる。

責任の一端はわたしにもある。
ほったらかしすぎた。
すでに長男はわたしを軽蔑しきっている。
軽蔑すべき人間には、軽蔑される人間としてしか相対さない、酷薄な親父を知らない。
わたしは、今、息子と素顔で接する気は毛頭ない。

けれども、素顔で接したくなる日を望む。

あの中村大地の顔のひとかけらでも息子の顔に浮かぶことを願う。
詮無い願いだとは知っているが、願わずにはいられない。 

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武蔵美の友人の落胆

昨日は、高円寺に住む武蔵美を訪ねようと、自宅から自転車を走らせて行きました。
武蔵美は、相変わらずの余裕で、散歩しながらのわたしの話をニコニコと聞くのでした。
そういった散歩の中で、武蔵美がもらしたのが、

「あなたの『ほれた女を忘れるために』の結論は面白くないって、わたしの友人が言うのだけれど…」

であった。

で、キミは? と重ねると、武蔵美は何も言わずににっこり微笑んだのでした。
どちらとも取れるような笑顔でしたが、まあ、なんだかなあ、と思いわたしは口を閉じたのでした。

さて、武蔵美の友人に謝るべく「ほれた女を忘れるために」のタイトルを代えたいのです。
こういうタイトルがあのブログには適当だろう。

「それがほれた女であるとき、キミは…」

つまり、もし相手がほれた女であるならば、任意の女がそのほれた女の代わりにはならないし、おそらくいかにほれている主体のあなたが変容しようとも、あなたの前のほれた女は嫣然と微笑むだろうと言ってみたいわけだ。

代替の女で霞むなら、その人にあなたはほれていないだろうし、大きな悲しみにうちひしがれたときに、あなたが自分でなくなりそうになるときに、その人がほれたほれられたの関係にあるならば、多分あなたの傍にそっと寄り添うだろう。

そういうことをわたしは、今は思っている。

悪かったね、武蔵美の友人さん。

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意思決定過程

参議院の選挙結果を聞くとはなしに聞いていて、この国の意思決定過程はどのようなものだろうと新たな疑問がわいてくる。
もちろん、この作業はきわめて明瞭な結論の出にくいテーマに対して行うセンスを問われるものだが、そこにマスコミがどれだけかかわっているだとか、どのような洗脳が行われているだとか、そういう操作をどこかではっきりしなければ、いつまでも国民の意思などというありもしないお題目で正義を唱えられ続けてしまう。

はっきりしておかなければならないことは、この国に国民の意思などないということだ。

それは、この国の国民再生産機構としてある学校システムを見てみればわかることだろう。
この国の学校システムの再生産しようとしている労働力は、われわれが何の根拠もなく思っているような幸せな人間像ではない。
そこで再生産される労働力には自分の立っているシステムが何であるかのような根幹を問う思考能力はほとんど必要とされていない。
であるから、あの教育システムがある。

それを誰が考えたか、わたしは知らない。
けれど、心静かに教育システムの有り様を見れば、直ちにわかるではないか。
そこには、堕落した教師たちが群れを成して形成する正解という神話が横行している。

だいたい、この世の中にあらかじめ用意された正解などあるはずがない。
教師が生徒より偉いなどという世迷いごとが成立するはずがない。

それに無批判に従う教師たちの無様な姿。
仕方あるまい。
彼らもまた、この教育システムによって再生産された人間なのだから。

けれども、本当に仕方がないのか。
自分の意思で考えられなくなってしまったのか。

そういうことはないのではないかと密かに願っている。

その意味でも、この国の国民がもつ意思決定過程を詳らかにする必要があると思う。
また、すでにそういう研究が行われているのであれば、そのことをどなたでもいい、無知なわたしに教えてはいただけないだろうか。

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2010年7月11日日曜日

アデル

わたしに世話になっている年上の女性が一人いて、この方と新宿に映画「アデル」を見ることとなった。
例によって、あれやこれやの痴話げんかのような瑣末なわたしの周りの出来事を相談をしながら、上映前の二時間あまりを過ごす。

そのなかでなじみの店に訪れたり、世話になっている皮革職人の工房を訪れたりするのだが、なんといってもうれしかったのはわたしの大切な娘の美しさを保証して頂いたことだった。

「あの美しさは日本の女の子にはないね」

は、わたしの思いそのものであって、彼女の凛とした美しさの底に覚悟の仄見えることを理解していただいたことに我が意を得た。
それでも、あれはあなたの好みの美しさだと仙台へ行く女との共通点を指摘されたのは気恥ずかしかった。
自分の好みからはなかなか外れられないもので、そのキリッとした目線は、この人はと思っている何人かの女性に共通するもので、所詮、客観性といってもその程度のものかと笑ってしまう。

肝心のリュック・ベッソンの映画だが、監督は随分楽しまれたようで、フランスの文化の匂いがする映画となっていた。
文化の匂いがする映画は、良し悪しを離れて魅惑的なもので、そのエスプリにフランスを感じてしまう。
翻って、ハリウッド映画に文化は香るかと問えば、「ノン!」と答えるしかなく、返す刀で、日本映画はと問い直したときには、青ざめる。

映画が商業化され、プロパガンダとして使われるということは、まさにこのような事態を招くのであって、フランスの矜持を感じた次第である。
好みとすれば、「まあね」と言うものなのだが招待券で行ったものだから、それ以上の言及は控えたい。

まさに人間も同じことで良くも悪くも文化の香りを漂わす人がいいのだが、残念ながら昨今の日本ではこの種の人間にお目にかかることが随分少なくなった。

韓国の香りのするあの娘をわたしが好む所以である。

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2010年7月10日土曜日

お気に入りの傘忘れる




だから、あの傘を差して帰るのはいやだったのだが、荷物が多く濡らしたくなかったので、お気に入りの淡い水色の傘を会社から持って帰路についたのだが、物の見事に井の頭線の車中に忘れた。


チキショーめ。


けどまあ、わが女房の名言どおり「傘は天下の回り物」。

この悔しさは胸のうちに置いておくこととする。


そう言えば、わたしの玄関先にカラフルな傘が二、三本あるが、あれはわたしがあるところから調達してきたものだ。

この場合無理やり「回り物」にしたわけであるが、それでも「傘は天下の回り物」である。

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意外にもてないわたし

あなたがわたしを意外ともてないと思わないのは、わたしを見知っているからで(そんな体型じゃもてるわけないだろう、と一瞬に判断できるからで)、そうでない方は、こいつってもてるのかと思われるかもしれないが、わが友人、志田君ご指摘のように、すべてわたしの幻想と考えていただいたほうがいいと思います。
ここまで書いてきてなんだよ、ではありますが、一発ここらで入れておかなければ、こっぱずかしいのです。

さて、そういうもてない小心者ですから、はっきりしない意思表示をされてもわたしにはよくわからない。
もしかしたら、わたしに好感を持っているかもしれないけど、罠かもしれないなと思ったりもする。
(罠なんていう可能性があるの? お宅、頭大丈夫?)
(もてたことのない人間ってそんなことまで心配するわけです。)

で、こう言っては失礼ですけれど、わたしのような人間もいれば、強気な人間もいる、はたまた心ここにあらずの奴もいいるといったわけで、表現方法はいくつも引き出しがあってほしいという話です。

直接的なのも、淡いのも、間接的なのも、肘をぶつけるのも…

ま、気持ちを相手に伝えるのは、お互い大変ですねのお話でした。

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お転婆に振り回されて…

どうということもない娘が好きになって、そのお転婆ぶりに振り回されて、さっぱりだ。
おちおち読書も出来ないでいる。
それで、始終あれこれ考えては文章をしたためることになる。
あれこれ考えるたって、その娘のことを考えるわけではないですよ、さすがにそこまで堕ちてはいない。
内省的になっているということですよ、哀しいことに。

書くことで己を落ち着かせようとしているわけです。
書くことはわたしにとっては鎮静剤にもなるのですよ。

それでもって、今年書いた本ブログの本数は、もう300本にもなろうとしている。
アホですよ。
他にすることはないのかと思う。
気がつくとぱちぱちとブログを打っている。

よく、そんなに書くことがあるなとお思いだろうか。
そういうことではないのです。
お転婆に振り回されて、心を落ち着かせるために考えずにはいられないし、こうやって書きつけねばならないのです。

諸君、お転婆などに振り回されまいぞ、あいつらはどうしようもないですぞ。
わたしなどは中央線にいっしょに乗ったとき、ひどい目にあっている。
あきれかえって、怒る気にもなれなかった。
お転婆で、赤ちゃんなんですよ。

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春の祭典

まあ、書きにくい内容だが書いてしまおう。
ロックバンドを擁する音楽プロダクションにいながらこういうことを書くのも気が引けるが、ヘロヘロの金曜日の私に活を入れてくれたのは、ストラヴィンスキー「春の祭典」ピエール・ブーレーズ(1991年録音版)であった。

ファゴットの最初の高音で、身体の芯が熱を帯び始めた。
この曲に対抗できるロックがどれほどあろうか。
そういう禁断の問いをわたしは口にしてみたいほどだった。

この音楽空間がキミたちに築けるかね?
ホントは、うちのロックバンドに発すべき問いはそういう問いなのだと思う。

朝の電車の中でわたしは「春の祭典」に完全にぶちのめされていた。

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裏腹な心の響き

心にもないことをしゃべっていれば、その言葉は裏腹に響く。
それが、聞き分けられるかどうかは別にして、言葉自体はそうやって響いている。
わたしにそれが、しっかりと聞き分けられるようになったのは、ここ一年くらい前からである。

で、聞き分けていくさらにわかる。

もともと心などない人と心に別の思いがあって心にもないことをしゃべる人と。
心がない人は仕方がない。
薄っぺらな言葉を発し続けていくだけだ。
心がない人に心が宿ることはまずないから、一生そうやって言っても言わなくてもいいようなことをしゃべり続けるわけだ。
口害だね。

思いがあっての人は、少し哀しいが心配することはない。
そうやって心にもないことをしゃべっているうちに本当に心が失せてしまうからだ。

だから、大事にすべきは心のこもった言葉のやり取りを自分としてくれる人だ。

うちの職場は若い人が多いが、なかに一人、わたしと同い年くらいの人がいる。
この人がなかなか素敵な人なのである。
この人の素敵さを職場の何人が知っているのだろうか。
おそらく一人も知るまい。
いやいや、彼が親しくする若者数人は知っているだろうか。

この人とわたしはたまに軽口を交える。
フィリピーナの話などだ。
通り過ぎるように聞いていれば、いい年を取ったおっさんがいやらしい話をしているとしか聞こえないが、そのなかにわれわれは心を滑り込ませる。
そういうことができるようになったのは、二人きりになったとき心のやり取りをしているからだ。
わたしはそうやって心のやり取りのできるこの人を得た。
うれしい出来事である。

心とはそうやって守るものなのだと思う。
長くこの人といて、この人に心があることを見て取れなかった職場の若者には残念ながら心がないと言わざるを得ない。
もし、自分の心の有無を確かめたければこういう人と話すに限る。
彼は、見込みのない人には決して心を開かないからだ。

わたしは?

ああ、わたしも開かない。
けれども、わたしは相手が可愛ければ話すことがある。
まあ、単なるスケベな親父というわけだ。
笑っちゃうね。

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激しき出会い

初めて会うというのではない。
もう随分前から知っているのではあるが、マンネリになったと言うのであろうか、当たり前に会い、当たり前に話し、当たり前に飯を食い、…そういう会いかたでは、決して超えることのできないノリをこえるために木曜の夜は激しく出会った。
激しい出会いは、夜を徹し、身体まで変調を来たし、金曜日はヘロヘロだった。

「もう若くないんだから」

とメールを寄越してくるのはいいが、お前ともう一度出会うために過ごした夜ではなかったか。

金曜日の夕方過ぎまで眠れるお前はよかったな。

けど、あの夜のあの時間、久々のお前に会ったよ。
うれしかった。

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2010年7月7日水曜日

さらに「ほれた女を忘れるために」

「あなたの胸の奥深くに住む女」
そんなほれた女を忘れるためには二つの方法しかない。
その二つとも無理矢理忘れるという方法で、まっ、この方法なら忘れられるだろうなという、ただそれだけの方法である。

だから、な~んだ、そんな方法かと馬鹿にしないでほしい。
考えた末の結論だからね。
経験した末の結論だからね。
それに、これを知ったからといって、うまく忘れられるかどうかは、とても難しいしね。
無理かもしれないなとも思うよ、わたしは。

「あなたの胸の奥深くに住む女」は、卓上のコップのように叩き割るわけにはいかない。
つかみ出すことさえ不可能だから、いつまでもあなたの胸の中に巣食っている。
その女が存在することは否定できない。
けれど、その女を見えなくすることはできる。
その女を見えなくすること。
胸の奥深くにいても、あなたには見えない状態にするしか、その存在を消すことは出来ない。
そうすれば、いずれ彼女もフェイドアウトする。
恋しい女もどこかへ去ってしまうわけだ。

ほれた女は、あなたにとっていつまでもほれた女だがその女を劣化させることはできる。
わたしはそういうことを言っている。

なに、簡単な話だ。
その女よりもっと好きな女を作ってしまうのだ。
そうすれば、ほれた女は徐々にその影が薄くなる。

そんなことが出来るのかって聞かれても困る。
そういう新しい女を作るしか方法はないのだから。
ひとりの女にほれていながら、違う女をさらに深く思う。
あなたに出来るだろうか。

難しい話だろう。

これが一つの方法。
違う女にもっとほれてしまう。

もうひとつは、たまたまに起こる解決策だ。

胸の奥深くに住む女、その女にほれたあなた自身が変質してしまうのだ。
ほれている主体がメタモルフォーゼしてしまったら、ほれている事実は消える。
そんなことが出来るのか?

普通は出来ない。
けれどもたまに起こる。
何か突拍子のない出来事が起こってあなたが変わってしまったら。
たとえば、最愛の母親が死んだときにそれは起こったりする。
かけがえのない友の死にもあなたは変わるかもしれない。

そのとき、ほれた女にほれ続けるあなたが一時的に断ち切れる。
その断絶が、ほれた女を忘れさせることが起こる。
そういう僥倖? がほれた女を忘れさせる。

もう一つの方法。
ほれているあなた自身がまったく違うあなたになってしまうこと。

ほれた女を忘れるためには、この二つの方法がある。

どちらもとても難しいのがわかるだろう。
二番目はハッキリと難しい。

一番目のは、普通はほれた女がいれば別の女に目移りしないことを考えれば、起こりにくい現象であることがわかるだろう。

ちなみにわたしはこの二つとも経験したが、その感想をここに書けば、どうやらほれた女とわたしは呼んでいたが、そのほれ方は随分希薄だったのではなかろうか、である。

ねえ、キミ、心底ほれた女を忘れることは出来るかもしれないが、そのとき、キミは思うはずだ。
オレは、本当にあの女にほれていたのだろうかと。

つまり、問題はずっと前に存在していたのだ。

ほれた女を忘れるために?

ああ、忘れる方法はあるにはある。
けれども、キミ、キミはその女に本当にほれているのかい?

ほんとうにほれていたら忘れられないのかもしれないね。(笑)

ラベル:

多面体なる人

たとえばある人がいてさ、その人に接するA,B,C,D,E,F,…がいるとするでしょう。
そうすると、ある人はA,B,C,D…(=見る人)の数だけ、A',B',C',D',…と存在するわけなんだよね。
見る人ごとに、ある人は違って見えてるよ、って言っているんですけど、おかしくないよね。

でさ、普通、人って接する相手によって違うから上のA',B,'C,'D',…ってかなり違うんだよね。
人間の不思議だけど、自分の知っている相手って自分に接するときにのみ出現する特別なその人なんだよね。
けど、その相手を自分に対してのみ現れる特別なその人にもかかわらず、この人はこういう人なんだ、なんて、その人のすべてをわかった気になってしまうよね。

わたしから見れば、かなりおかしいけど、わたしだって気をつけていないとすぐに目の前の人がその人だと思ってしまうわけだから、強く意識していないと自分の前にいるその人がその人のすべてだと思ってしまうんだよね。。
だって、わたしは目の前のあなたとつき合えばいいんだし、ほかの人と接する時、あなたがどのように変身しようと関係ないもんね。

でもさ、わたしって特殊なことにこだわる人間で、あなたがほかの人と接するときにいやな人間に変身してしまうのなら、もうあなたがイヤになってしまうんだよね。

その意味では,仙台に行く女はわたしにもきついけど他の誰にでも滅茶苦茶きついから全然OKなわけ。
武蔵美もわたしにもお嬢さんで,他の人にもお嬢さんで問題なし。
カミさんは変わるけど、彼女は会社の下の子たちに絶大なる人気があるから、変な変わり方ではないと思っている。

で,問題は赤ちゃんなんだけど、この赤ちゃん、変な変わり方するんだよ。
となれば、最低だよな、とわたしは思う。
この赤ちゃんだけでなく、そういう変わり方をする人はみんな最低だと思う。
わたしはそう思ってしまうタイプなんですよ。
あの…「赤ちゃん」って比喩ですよ(笑い)

そして、わたしは弱い立場の人にはやさしくなるタイプなんですよ。
知らないでしょうけど、仙台に行く女なんて最底辺で生きている女だからね。
いわば、差別を受けている女なんだから。

でも、いいんですよ、あの娘はけなげだし、可愛いから。
だから、最近大切にしている娘のことでありえない文句を言われても「ゴメンね」って言えるんですよ。
彼女も後輩にやさしいよね、目いっぱい。
被差別者特有のものなのかな…

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2010年7月6日火曜日

人間関係なんて…

人間関係なんて風船みたいなもんでさ…
線のように強くはないんだよ。

人間関係は人と人とののつながりだから、糸とかヒモとか線としてとらえられることが多いけど、決してそんなに強固なものではないんだと思う。

わたしは、関係性は相手にも属さず、自分にも属さず、だと思っている。
どちらの勝手にも出来ないということですよね。
で、どこにあるのかというと、二人の間の中空に浮かんでいるんだと思うよ、風船みたいにさ。
それも奇跡的に。

思いつきで書いて恐縮だけど、その風船には二つの口がある。
その口から、お互いの魅力の色に染めて空気を送り込む。
それで風船が膨らんでいく。
関係性が育っていくんだね。
でも、ずいぶん危なっかしいよね。
二つの口は空いているし、風船は二人の間には留まるとは限らないんだからね。

二つの口は、その口の側の人間が閉じるんだ。
念じて閉じるんだ。
閉じろ、閉じろと念じるんじゃないよ。
相手のことをいっぱい思うことで閉じさせるんだ。
いい加減に思うだけじゃ口は閉じない、風船はしぼんでしまう。
どちらか一方がサボったらそれで終わり。

そんなもんじゃないかな。

もちろん、似非の人間関係は世の中に五万とある。
わたしの語っているのは、そうではない。

この世に何の拍子か奇跡のように生じる人間関係のことを話している。
そんなものを自分と相手の中空に浮かべようとするのなら、その関係を結ぶ二人がどのような様相を呈すかも自ずとわかってしまうね。

そういう関係を望んだのが、おかしいのかもしれないね。

わたしは、そうは思わないけど…

ラベル:

美しさを保証するものは美しさではない

下世話な物言いをすれば、わたしは美人が好きではあるが、それは単に造形的に美しい人が好きであるというような単純なことではない。
端正な顔は、それだけでかなりの男たちを屈服させることができるが、「それがどうした」というのがその端正な顔に向かってのわたしの言い草である。

きれいなだけで何かできると思ってもらってはとても困るし、そのきれいさにわたしは屈服したことはない。
ただ、キミはきれいだねとか、キミの美しさはこうすれば映えると言ってみるだけである、暇つぶしに。

ここでは、さらに美しさを少しだけ追って、美しさには次の段階があり、その次の段階の美しさには凄みが加わることを指摘しておきたい。
この話もこれ以上、突っ込むのはこのブログではあまりにも色合いが違いすぎるのでやめにするが、進めるためには、「美しさ」の定義を丹念にしていかなければならないことを知っておいてもらいたい。
(これは、出し惜しみでもなんでもなく、この話を進めるには綿密な準備が要るし、その準備をこのブログのためにだけするのはとてもめんどくさいこととその結果生み出される文章が意外に面白くないという予想のためです、ごめんなさい。)

というわけで、わたしがあなたは美人だというときにただ端正なだけの顔立ちを指す場合と精神性を加えることであなたは凄みを持った美人になりますよ、というふたつの場合があるということをここではさらりと言ってのけたということにしていただきたい。

そして、凄みをもった美人になれる人は、「美人」になるように努力すべきだろうとわたしは思うし、単に整った顔立ちの美人には、その顔ならあほな男は十分対処できますね、あなたは幸せ者ですねと思うだけのことであることを知ってもらえるとうれしい。

言わずもがなのことだけれど、軽薄に美人をわたしが評価していると思われるのがいやでここにこのブログをアップしてみました。

多分夜中に目が覚めてしまったのが、災いしたのだろう。

こういう風に夜中にブログを書き始めると眠れなくなるんですよ。
だから、書かないほうがいいのだけれど、でも気になると書かざるを得ないというところもあってね、まったくもって病気だと思います。

ものを書くなんて、ろくなもんじゃないと思う。
とにかく薬物を投入したかのような興奮状態が強引に訪れてしまうのです。
わたしが、精神錯乱者だといわれる所以です。

なんか哀しいね…

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2010年7月5日月曜日

受信者がすべてを握る

どんないい本を書いても(実際にいい本なんだよ)、読み手がそれをしっかりと受け取らなければ、いい本は存在しない。
天才的な料理人がいても食い手が味の素に舌を侵されていれば、どこにもうまい食い物は存在しない。

小三治がいくらうならせる噺をしたところで、聴き手が充実していなければ名人の小三治はどこにも存在しない。

つまり、発信者は気が狂いそうなほど受信者に恋焦がれているのだ。

もし、わたしに本物の受信者がいれば、あのときあなたの傍のゴミ箱に捨てたゴミの意味もわかってくれていたはずなのに。
そういうことになる。

あらゆることは、表現なのだ。
彼女の捨てる何気ないゴミ屑でさえ、どうしようもなく深い意味を持つこともある。

問題は、あなたであれ、わたしであれ、受信者として充実しているかかどうかだ。
だけど、さらに言葉を費やすならば、発信者は恥ずかしがらずに堂々と自己主張しなければ、大人じゃないんだよということにもなるが、これは少し言いすぎだろうか。

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忙しくて…

忙しくても「忙しい」なんてことを言わないわたしが言うのだから、色々と錯綜して忙しいわけです。
それで、ブログが書けないのなら、それはそれでいいのですが(いいわけないよ、って言ってくださると酒は飲まねども羽化登仙の気分なのですが、そう言われる当てもなし)、今回は許しを請わなければならない。

「ほれた女を忘れるために」の続きを読みたいとお二人の方から伝えられたからだ。
二人とも女性であるところがおかしい。
男からは聞かない。

多分、ほれたことがないのだろう。(怒るかな?)

で、続きは書きますし、内容は頭の中にすでにあるのですが、少し遅れます。
多分、明日には何とかします。
ん!? 明後日になるかな…

その間に妙なブログを挟んでも怒らないでください。

「ほれた女を忘れるために」続編は必ずお届けしますから。

今後とも、末永くお付き合いのほどを。

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2010年7月4日日曜日

キミは素敵な友人に囲まれて

「ZABO」℡044-211-3488

もしキミがわたしの大切な人であれば、わたしはキミにわたしの大切な友人を紹介するだろう。
キミがわたしの大切な人ならば、素敵な友人に囲まれて生きていってほしいからだ。
それが、わたしからキミへの贈り物だ。

3日には、川崎市役所の裏手、わたしの愛する藤田賢太クンの店「ZABO」に赴いた。
詳しくは「ZABO 川崎」で検索したホームページで確認していただけばいいが、まずもって間違いのない中国料理の店である。
食べなければ損とまで言い切ってしまってもいいかと思う。
もしなんなら、「山本の紹介だ」と言っていただいてもいい。
そう言っても何も特別なものは提供されないだろうが、賢太のとびっきりの笑顔と出会えるだろう。
この店は、この男と出会えるだけでも幸せになる店だ。

さて、わたしが赴いたのは、わたしを入れて四人で会食するためだ。
一人は、精神科医のSさん。
一人は、日本電熱㈱の社長でフィリピーナ殺しのYさん。
一人は、編集のことをいつもお聞きしているIさん。
そして、情けないわたしだ。

この会の内容をここに書くことはできないが、それは愉快な空間が流れていった。
その空間を支えた大きなひとつは、間違いなく賢太の献身的なサービスと賢太の美しい細君にある。
そして、当たり前のことだが、なかなか眺めることのできない大人四人の会食する風情に空間は満たされていた。
(ごめんなさいね、ここではわたしも大人と数えました。)

こういう人たちとわたしはともに生きている。
それが、わたしの実人生だ。

充実の時空間。

終演直後「また、やろう」と声を掛け合ったが、果たして再現できるかどうか。

一期一会の哀しみは、再現不可能性のうちに潜んでいる。
でも、やはり声は出てしまう。
「また、集まろうではないか」

友よ。

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2010年7月3日土曜日

The general public

ブログなんてものは不特定多数が読むものと決まっているのだが、これをしっかりと分けると、特定多数と不特定多数の集合となる。
まあ、やさしく書けば知っている人の中ではっきりと数は絞れないが、何人かが読んでくださっており、何かの伝でお顔も存じ上げない多数の方が読んでくださっている、となるのだろうか。
それでもややこしいな。

いっぱい読んでくれてるぞ、ぃえい!
というのがいいかな。

とにかく、そういう人たちにこのブログは助けられているわけなんだけど、ときに、えっ、キミも読んでいたのなんてことも起こる。

ま、とにかく
このブログにanonymousではなく登場する女性は、しっかりと数えてはいないが頻繁にとなると4人であろうか。
武蔵美、仙台へ行く女、細君、東大門の近くに住む娘。
他に登場したかもしれないが、いずれも深いつき合いはないはずだ。
少なくとも今は深くつき合ってはいない。

で、その4人のうち、細君と東大門の娘には、およそつき合いはない。
両方とも好んではいるが、いっしょに映画に行ったりはしない。

そういう関係は、武蔵美と仙台へ行く女の二人だ。
もっともanonymousに登場する女性と映画に行くことはあるが、こちらは女性というよりは信頼する人といったほうがいいつき合いで、ここに報告するような人ではない。

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2010年7月2日金曜日

ブログを読まれたくない人

ブログを読む人は、勝手に読んでくれる人であって、わたしにはどうしようもない。
あなたは見ないでねと言っても、あなたは見てねといっても効果はあまり期待できない。

たいていは多くの人に見てほしいとだけ思うので、あまり考えることもなかったが、いやあ、あなたに読まれているとなると少し考えなければならないなという人が出来た。

できれば、この話題はアップしない方がいいだろうとか、ここは過激すぎるかなとか自分の中に自然と校閲者が生じたようになる。
読者を意識するとはそういうことだ。
これはこれで困る。
いいこともいっぱいあるけど。

今回の場合、このブログをその人のために変えるわけにもいかない。

まあ、一度、じっくりとこのブログの性格を語って聞かせるしかないのかな、と思う。
で、語って聞かせるつもりだが、これも本当に骨が折れそうだ。

笑っていても泣いていても困るような人なのだ…
実に困っている。

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目つき顔つき

人の言葉など信じちゃいない。
言葉なんてものは、意志が入る要素がある。
ここは謝っておこうと思えば、心にもない言葉は吐ける。
心にもない愛情表現もできる。

「初めてキミと会ったとき、オレはキミを好きになった」

いいセリフだが、少し陳腐かな。
けれど、使い方を十分吟味すれば、決まり文句だろう。
わたしは、ここなら決まると思えば、平気で使用する。
本当に心でそう思っているかと言えば、心もとない。
しかし、まんざら嘘でもない。

過去は、今後の人生で決定される。
過去が覆らないなんて大嘘だ。

キミ、過去は覆るのだよ。

というわけで、言葉の話をしだせば長くなるので、先を急ぐが、人を判断するときに大事なのは言葉ではない。
言葉など信用してはいけない。
信用に足るものは、その人のしぐさとか顔つき目つきである。
要は、相手が演技できないものほど信用にたると言うことだ。

相手によって、電話のときに声の調子が上がる女はどこかに問題がある。
本人は意識していないだろうが、おざなりのおべんちゃらなど言うときには人の声の調子は上がってしまう。
聞いていていやなものだ。

またまた、横道にそれてしまいそうである。

わたしは人を見るとき、目つき顔つきを重視する。
こいつがひどい状態の奴には、いい加減に対応する。

「はいはい、わかりました。わたしが悪うございました。」

ちゃんと応対する価値のない奴だ。

残念ながら、わたしの長男がそういう目つき顔つきをする。
だから、相手にせずに謝っておく。
なるべく接触もしない。
いつか変わるかもしれないが、期待薄である。
彼との接触の多い妻が成長すれば可能性はあるが、それもどうであろう。
まことに、あ~あであるが、仕方あるまい。

わたしは、平気で長男さえもいったんは切り捨てる。

職場にもそういった男がいるが、こっちのほうは、随分前に切り捨てている。

しかし、切り捨ててはみたものの、長男は長男なのである。
こいつのことは、やはり気になる。
親だもの…。

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ほれた女を忘れるために

そんなことも知らなかったのかと笑わないでほしい。

ほれた女を忘れるための方法はたった一つしかないと思っていた。
それが、もう一つあることを体験した。

ほれた女を忘れるためには、酒を浴びるほど飲んでも、血の汗流してスポーツに打ち込んでも無駄なのである。
本気でほれた女を忘れるのはそう容易いことではない。
(もちろん、ほれ方にもよりますが…)

あなたにほれる能力が十分備わっていて、十分にその女を愛した場合、ことは厄介である。
とんでもなく厄介なのである。
少なくとも尋常のことでは忘れられない。

目の前のコップならば、叩き割ればその存在はなくなってしまうが、あなたの愛した女はあなたの胸の奥深くに住む。
その女の存在は、生半可なことでは消えない。
では、どうするか。

ここまで書いてきて惜しくなったではないか。
これは、わたしの書こうとする「恋愛論」のメインだからね。

ということは、ここであなたがそんなことは知っているワイ、と胸を張るなら、わたしの「恋愛論」は、お陀仏である。
だから、お聞きしたい。

わたしは、実は陳腐なことを書いているのだろうか。
それとも、興味深いことを書いているのだろうか。

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なつかしの「かっぱえびせん」




いやあ、くだらん話なんだけどさ、ほぉー、さすがなんて思っちゃったものだから書いてしまうけど、最近腹が減った時があってさ、これでも食うかって、かっぱえびせんの袋を開けたんだわ。
そしたら、まさにあれよ、あれ。

やめられない、とまらない、カルビーの「かっぱえびせん」

一袋が尽きるまで、実際止まらないんよ。
うまいかというとめちゃくちゃうまいわけではないんだけど、じんわりうまいんよ。
つまり、食べるのが止まらない程度にうまいんよ。

これぞ、ページターナーの極意ね。
思い出したけど、うまさだけで言えば、「えび満月」が最高。

けど、これ高いから借金生活のオレには無理だわ。

であるからにしてからにして、やっぱりカルビーの「かっぱえびせん」。

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2010年7月1日木曜日

仙台へ行く女

娘のタバコを吸う姿を見たわたしは、帰路につくわけだが、最寄駅に降りてから、ふと電話をしてみようと思い立った。
仙台へ行ってしまう女との仲直りを期してである。
けれども途中の公園からかけた公衆電話にあいつは出ないのである。
二、三度かけてみたが、なしのつぶてである。
なんなんだろう、と思って公園のベンチに一人。
夜の公園は、なんとも反省を促すものである。
ますます仙台へ行く前には仲直りをしなければならないと強く思い始めた頃、わたしの携帯が鳴った。

あなたでしょ、公衆電話から電話したの。
はい…
出ないんだからね、公衆電話には。電話番号が不明な電話には出ないんだからね、わかった?
はい…
で、なんなの?
あの…、大丈夫かなと思って…
大丈夫じゃないわよ。3日には子どもも新宿に来るし。
子どもって、あの高校生の?
違うわよ。下の子よ。今度高校生になる。
そう…
だから、お金いるから、大変なのよ。
うん…
早く返してよね、あなたに貸したお金。
うん…
うんって、いつ返してくれるの。
3日にキミのところに行こうかと思うけど…
うちはダメよ。来る前に電話して。
どこかで会うの?
当たり前じゃない。
デート?
当たり前じゃない。
お金ないから…
わかってるよ。
じゃあ…
会ってる時は、あたしが払ってあげるから、それでいいでしょ。
はい…
来る前に電話してよ、わかった?
はい…

まあ、そういう電話だけど、機嫌は直っているみたいだし、金はもう少し大丈夫そうだ。
でも、少しくらいは、返さないとね。
3000円でいいかな…

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気楽堂はわたしの故郷

東大門の娘に会いに行く前は気楽堂の孫さんと話をしていた。

首と肩が異常に凝っているので、ほぐしてもらいに行ったのだった。
異常に凝るのは、その凝りの度合いが異常であって、そのような状態になるのは異常ではない。
最低、月に一度くらいはこの状態になる。
いわゆる凝り性であり、特級の懲り方である。
凝りのひどさは、孫先生の折り紙つき、これだけの凝りは孫先生の経験の中でも10人はいないということだ。
孫先生と会って以来、なるほどひどいのだと自覚して、気楽堂に通い詰めている。
そして、孫先生にほぐしてもらって一ヶ月はもつ、そういう生活である。

昨夜は、それに加えて長さん(北京大学出身の秀英だ)に足裏マッサージも施してもらう。
腎臓の調子がひどいためだ。
何故わかったのかって?
そりゃあ、これだけ足首がむくめば、わかりますよ、あなた。

というわけで、身も心もスッキリして東大門の娘を尋ねたわけである。

今週の土曜日は、腎臓がらみの血液検査がある。
もう一度、気楽堂を尋ねようと思っている。

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ナンナンの秘密

気楽堂の帰りにナンナンの顔見たさにある場所に寄る。
あいかわらず、ダサい制服にぞうり。
そして、みまがうばかりのナンナンの顔と髪。
昨夜はその髪をさらりと垂らしていた。
それを二、三度かきあげるのだが、胸がキュンとなる。
まさに「栞のテーマ」です。

以上、単にわたしがおっさんであることを証明するために書いたのではありません。
この日、わたしはナンナンの秘密を見たのでした。
(そら、やっぱりおっさんだ。
 う~ん、言い逃れし辛いなあ。)

家に用事もあるのでわたしは早々と腰を上げたのだが、店の人は愛想よくわたしを送り出した。
でもねえ、ナンナンと少し話すだけに来るわけだから、きっと変態と思っているだろうな、そういうことをわたしは思った。

そのナンナンも同じような時刻に上がっていたから、もしかしたら会えるかもとは思っていたのだ。
ナンナンの私服は洗いざらしのTシャツに青のジーンズ。
あくまでも彼女はおしゃれをしない。

その彼女が、気がつくと目の前の自動販売機に向かっている。
その自動販売機とは、タバコの自動販売機。
ナンナンの顔を見れば、咥えタバコ。
口の端にタバコを寄せて、街のチンピラのようなふてぶてしい顔。
(チンピラって言ったって、いずれ幹部になるようなチンピラだよ。)

何か、彼女の裏を覗いたな。
生活に少し困っているとか、やくざな男がいるとか、これから韓国クラブに出勤だとか…
まあ、色々考えられるわけだけどさ。
カッコいいことには変わりないよな。
ああやって、タバコを吸うナンナンとショットバーで話してみたいな。

本気でそう思ったよ。

写真のオードリー・ヘップバーンは、ヘビースモーカーで有名だ。
でも、そんなこと関係ないでしょ、ヘップバーンが好きなみなさん。

だから、わたしもナンナンの秘密を知ってしまいましたが、ますます骨抜きになってしまっているわけ。
ちなみにナンナンは、ヘップバーンの隣においてもまったく見劣りはしない。

そういう美人だ。

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