2010年7月5日月曜日

受信者がすべてを握る

どんないい本を書いても(実際にいい本なんだよ)、読み手がそれをしっかりと受け取らなければ、いい本は存在しない。
天才的な料理人がいても食い手が味の素に舌を侵されていれば、どこにもうまい食い物は存在しない。

小三治がいくらうならせる噺をしたところで、聴き手が充実していなければ名人の小三治はどこにも存在しない。

つまり、発信者は気が狂いそうなほど受信者に恋焦がれているのだ。

もし、わたしに本物の受信者がいれば、あのときあなたの傍のゴミ箱に捨てたゴミの意味もわかってくれていたはずなのに。
そういうことになる。

あらゆることは、表現なのだ。
彼女の捨てる何気ないゴミ屑でさえ、どうしようもなく深い意味を持つこともある。

問題は、あなたであれ、わたしであれ、受信者として充実しているかかどうかだ。
だけど、さらに言葉を費やすならば、発信者は恥ずかしがらずに堂々と自己主張しなければ、大人じゃないんだよということにもなるが、これは少し言いすぎだろうか。

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