2010年2月26日金曜日

鬱病ロッカー

kannivalismのボーカル兒玉怜の本である。
いくつかの稚拙さはあるものの、それでも読んでしまえるのは、自分の状況に面と向かって書いていることと読み手であるわたしの事情による。

タイトルは「鬱病ロッカー」とあるが、実際は適応障害、かなりきつい症状だ。
わたしの鬱など裸足で逃げ出しかねない。

そういう闘病記と病気になったいきさつ、音楽と病気のかかわりが書かれている。
音楽と関わる人間の姿が垣間見れる。
もちろん、一般化は危ないが。

ときどき詩も挿入されているが、歌詩としては成立している。
単なる詩と読むことはできない。
詩と歌詩の隔たりは深い。
どのように深いかは今考えている。

意外とこの差を克明にすることは厄介なのだ。

ラベル:

2010年2月25日木曜日

理想的な応え

青年が若い娘に話しかけていた。

―― ねえ、ねえ、□□ちゃん、会社に来ない日には何やっているの?
―― …何もやっていません。

そこで会話は止まった。

会社に来ない日に娘は何もやっていないのだという。
何もやっていない娘のそばにいて、何もせずにすごしてみたいものだ。

体の中が愉快になった。

ラベル:

形容のしようがない恐れもあるが

新宿駅の改札口を出、雑踏の中に身を置いた時から、わたしの気分は深く沈んでいた。
それはいつものことで、とりたてて今日がどうという変化でもなかった。
その雑踏も薄まり、余裕のある空間ができた頃、前から来るきかんきな初老の男が、わたしを押しのけてまっすぐに行こうとした。

その時とっさにわたしはその男に罵声を浴びせた。
男は聞こえぬ体で後姿を見せながら通り過ぎていったが、わたしは発した罵声を自分自身で聞いて、驚いていた。

わたしの中に怒りが渦巻いている。
それをのぞき見ることをしてこなかったわたしには、怒りの形状や正体を述べることはできないが、確かに怒りがわたしの中に巣食っていることを、とっさに出た罵声は教えた。

鬱気味の人間が立ち直っていく時、自罰性が他罰性へと転換していくという。
それは怒りを帯びた転換であるのだろう。

自分自身だからといって、自分が完全に理解しているはずもない。
むしろ、少しも理解していないと思っていて間違いないだろう。

ラベル:

2010年2月24日水曜日

マスコミに右へ倣えか

バンクーバーのオリンピック報道がこの国の第一のトピックらしい。
珍しく朝、テレビの音を聞いているとどの局もフィギュアスケートの話題を取り上げていた。
そろそろ始まるらしい。

だいたいが点数評価で決まってしまう競技がスポーツかどうかは難しいところだろう。
フィギュアスケートにしろ体操、新体操にしろ、もしかすれば、近年の柔道にもそんなところがあるかもしれない。
柔道におけるその反動が、一部のニッポン選手が一本勝ちを狙う姿勢に表れていると思う。

あのシドニーの篠原の負けは切なかった。
審判の評価など、煎じ詰めればあの程度のものでそれに左右される選手も哀れだし、それを無批判に眺める(評価して順位を決めるスポーツをスポーツだと信じきって)人々もどうかと思っている。

そういえば、バンクーバーの男子フィギアでロシアのプルシェンコ選手が審判の評価に疑問を呈していた。
プルシェンコの怒りはよくわかるが、そこにこの競技のあいまいさとスポーツではないと主張するわたしの根拠がある。

ラベル:

2010年2月23日火曜日

カップラーメン

この職場の昼時には、何人もがカップ麺を食する。
いや、わたしも食することがあったが、この頃はとんと食べなくなってきている。
食後に何やら嫌な感じになるのだ。

元々カップ麺は邪悪な食べ物で、インスタントラーメンなどはさらにひどい。
さらにひどいとは食後の後味の悪さがだ。
もっともこれはわたしだけのことかとも思う。
誰かと話し合ったことはない。

わたし個人の感覚は人との話題にならないと思っている。
それがわたしのわたしに対する評価だ。

ところで、邪悪な食べ物を受付ける量は決まっているらしいというのが、この話の伝えたいところなのだが、むかしわたしも後味の悪さなしにインスタントラーメンをよく食べた。
それが、いつのころからか食べられなくなった。
容量オーバーだと思っている。

まわりの若い人たちは、恐れもせずに邪悪な食べ物を体の中にすすりこんでいる。
食べるがいいと思う。

邪悪なものにはそれなりの魅力があるものだ。

なにを言う、そう語るお前が一等邪悪ではないかと問いただされれば、わたしに返す言葉はない。

ラベル:

ここから見える眺め

人は自由の重さに押しつぶされそうになる。
自由、自由と叫んでみても、実態はそのようなものだ。
それでも「自由!」と叫ぶ。
そこからしか始まらない自分とのつき合いもある。

重さがかかれば、重みに耐えかねる自分に気づくだろうし、いままで重みを避けていたことにも気づく。

このごろは小さな会社組織に通っている。
若い人が作っている会社で彼らをときに鬱陶しく思い、ときにその無防備さに憧れる。
無防備は時間を浪費することのできる者の権利だ。
少し前まではわたしも十二分に無防備で空を見ていた。
あの頃見上げた空にはいろいろなものや人が浮かんでいた。

そのわたしは、何のバチがあたったのか、今では幽囚の身だ。
いつも書いているようにその身を嘆くことなく、修行と思い、顔を伏せながら逃亡を夢見ている。
どこからの逃亡かと考え出せば、その語りは長くかかる。

いまは、何が楽しいのか、それとも楽しい振りをしているだけなのか、動き回る若い男女の姿を眺めて生きている。
彼らがペルソナを生きているなら、それは自由からの逃避だ。
いやいや、別にそれが悪いと思っているわけではない。

それぞれがそれぞれに生きているだけだ。

ラベル:

2010年2月22日月曜日

酔いどれ犬

『ダブルジョーカー』を読んだ直後に樋口明雄の『酔いどれ犬』を読んでみた。
もちろん書籍となって発売されているのだから、標準を越えるエンターテイメント性をもっている。

けれどもどこかが違う。

気のきいたセリフも出てくるし、登場人物に魅力もある。
ストーリーも滞りなく進行していく。

けれども、どこか食い足りないのだ。

たぶんそれは、この作品の持つウエットさのためだと思う。
そこまで書き込んでは作品世界が壊れるだろうというところまで立ち入って樋口は書いている。
そこが書きたかったのだと樋口氏はつぶやくかもしれない。

ハードボイルドはそうではないように思う。
主人公のの熱い思いは、十分抑制した方がいいのではないか。
その効果で作品が作品として伝わってくるのではなかったのか。

抑制のためにハードボイルドは主人公の心の奥底に立ち入るのをやめた。
そうすることで主人公を読者に委ね、狙ったイメージが届くとしたのではなかったのか。

主人公の心を事細かに書きつけていく小説は存在するだろう。
しかし、それをハードボイルドでやることは、どこかちぐはぐだ。

うがちすぎた感想だろうか。

たとえば、原僚がハードボイルド作家として評価されるのはそんなところからではなかったのか。
あまりに主人公の感情をあけすけに書いて読者ともども主人公をアタフタさせるものではない、そう言い切ってみようか。

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死にゆくその日まで

昨夜は少し励まされた。

わたしは、あまりテレビを見ない。
見たい番組がないからだけのことだが、生命力の落ちているこの頃は何もかもに興味がいかないのだからテレビだけ特別なわけはない。

ところで、テレビに関しては、わたしはラジオから音だけを聴取するのが常である。
その習慣で、昨夜、気になるプログラムふたつを聴取した。
そのふたつに小さく興奮し、生きていく甲斐がわたしの胸の中にぽおーっと灯った。

そのふたつの番組では、須賀敦子と藤倉大を取り上げていた。
この二人の有り様が、わたしを励ました。
といっても一人は若く、一人は亡き人なのだが…

ああ、生きていけるなと思った。

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2010年2月21日日曜日

ダブルジョーカー

柳広司氏のこのシリーズは、おそらく市川雷蔵の映画「中野学校」シリーズとどこかでリンクしている。
この小説の手際のよさはわたしに合っている。
柳はページターナーではあるが、どこか硬質さを併せ持ち、書き込みがくどくはなく、それでいて時代の雰囲気をうまくとらえている。

そして何より中心に位置する人物、結城中佐のキャラが立っている。
どこか映像的に浮かんでくるところに柳の巧みさがある。

それと、時代設定を現代としていないところに物語の持つふくらみを感じさせる。
なぜ現代にしなかったか。
そこがセンスというもので、こういう基本的なところにはセンスがかかわってくる。
それが、届かぬ所以だ。

だれがだれに対して届かぬのかと問われるな。
いまあなたが思ったとおりである。

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2010年2月20日土曜日

夫婦だったのか

そのおじさんは、美しいロシアの女性を連れて土日にやってくる。
近くのスーパー「オリンピック」の片隅を借りて野菜や果物、漬物、米、ジャム…いろいろと売っている。
野菜は新鮮だし、おじさんは人懐っこい。
とても流行っていて、その一隅は人だかりがしている。
若く美しいロシアの女性はとても日本語がうまい。
おじさんはいい相棒を見つけたものだ。
どこで見つけたのだろう、そう思って見ていた。

それが、面白い場面を目撃したのだ。
いや、目撃というよりは二人の会話を聞いたのだ。

「この間、道で転びそうになったけど、転びませんでした」
こうロシア人は発した。
どうです、うまいものでしょう。
そしたら、おじさんはそれに応えて、ゆっくりと
「それは残念な話です」
「えっ、残念。冷たいですねえ」

これを聞いて、ああふたりは夫婦だとわかったのです。
もちろん声音も合わせての情報ですが、少し驚きました。

おじさんは、ロシア人の前には就職前の実の娘と土日に通ってきていたのです。
娘はロシア人よりは若いですが、純粋に日本人でした。
それにロシア人は娘より年上といっても5,6歳くらい上という感じなのです。

だから、ちょっと驚いてしまったのです。
仕事が終ってから片づけをしながらの二人の会話ですが、仕事中はそぶりも見せません。
ああ、見破れなかったなあ。

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2010年2月19日金曜日

藤田まことも死んだし、浅川マキも死んだ

なじみのある人が次々と死んでいき、嘆息することがある。
彼らへの哀悼ではない。
未だに生き続けるわたしへの哀悼だ。
頭の中をゆっくりと巡らせれば、死への逡巡も生まれるだろうが、ただぼんやりとしていれば死は懐かしい円環に思える。

わたしは、以前語ったように死なせてくれない何ものかに対し、修行のように俯き加減に生きている。
修行と思えば、生きていける、そういう気分がある。
その一日、一日がどのような形態をとるかは自ら確認していくしかないが、ときにはそう悪くもないと思うこともあって、それも含めての修行だ。

そういえば、タイトルに挙げた藤田まことも浅川マキも修行のような人生だったのかもしれない。
本人達の自覚とは別に。

藤田まことは東京都豊島区生まれで長く東京に居たはずである。
それにしてあの大阪弁である。
根っからの役者であり、実人生ともに演じ続けた人であったのかもしれない。

もっともこんなことは特筆することでもなく、自分の姿に一度も接することなく逝ってしまう人は多い。
演じていることも知らず、演じたまま死んでいくのだ。
踊らされていることも知らず、踊らされ続けるのだ。

それでもその人の人生かと問われれば、そうだと応えるしかあるまい。

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彼らの内にある世界

ヘッドフォーンで音楽を聴いていようと、携帯をいじっていようと、何か機器を使ってゲームをしていようとす、べては内を向いている姿だ。
内というのはゲームの中も含めてだ。

ゲームの世界も彼らの中にあるのだろう。
だとしたら、彼らの内なる世界の総体はどのような姿をしているのだろう。
その世界はそもそも形となっていないのだろうか。
ばらばらになってしまったモザイク、それは根を詰めて組み立てればなにかの絵が立ち現れるジグソーパズルのピースではなく、ただ破片として破片足るべく散在している、そんな世界なのだろうか。

わたしはその世界を知らない。
知らないけれどもあれほど内向きの姿を見せられれば、どんな内があるのかと思う。
外への遮断は、内の世界のみすぼらしさを教えているのだろうか。

豊穣さとかけ離れた外の世界を眺めながらそういうことを感じることがある。

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2010年2月18日木曜日

刺激を求める人々

このところ電車に乗っている。
わたしのとっている行動は一般に通勤というらしいが、楽しいものではない。
生きる上の規則として受容しているが、心の底ではいずれ反逆してやると思っている。

いやいや、反逆の時期はすでに終わってしまっているのか。

さておき、電車の中でも人々は刺激を求めている。
読書は、まあいい。
わたしもしているから捨て置くとしよう。

問題は、IPODやIPHONE、携帯の類だ。
わたしはそばに居るだけでそれらの機器から激しい刺激を受けてしまう。
実際使用している彼らはいかばかりか。
そうではない、すでに麻痺してしまっているのか。

他人事と言えば他人事。
何ら問題はないが、一歩引いて考えれば、刺激に対する麻痺はよろしくないように思える。

それはピュシスから隔たり、ピュシスの存在さえ忘れ去るからだ。

そんなにピュシスが大事か?
そう問われれば答えるしかあるまい。

ピュシスの存在は大きい。
その存在を意識することで、何かが見えてきたりもする。

それが、今のところわたしにある大きな偏見のひとつだ。

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2010年2月17日水曜日

漂いつづける作品

城戸朱理氏のブログに

今回は部分的に手を入れるのではなく、全体を新たな目で見直したかったため、全作を原稿用紙に万年筆で手書きすることにしたのだが、これは、私にとっても、身体的に作品を生き直すような、新鮮な経験になった。

とある。
新刊の詩集作成に対するコメントである。

わたしの今関わっているDIR EN GREYというバンドのヴォーカリストはライブのときに歌詩を変えて歌ったりする。
その場の空気に合わせて歌うだけで、歌詩を辿ってみても意味の体をなしていないと言う。
この場合は、CDは出したものの、いつまでも漂いつづけている。

詩集の場合は版を重ねることはあっても、大きく修正することは多くはない。
バンドのライブの数を考えれば、音楽との差はある。
文章は良くも悪くも定着するものと考えていいだろう。

けれども音楽は流れる。
CDとして定着はするが、それは一応の定着であって、ライブがある限り漂い、流れつづける。
それが、大きな音楽の特性かもしれない。

けれども以下の逸話を思い出すとき、文学も作者の中では漂っているのかもしれないとも思う。
逸話はではこうなっている。

川端康成の自死後、『雪国』の手直しを思わせるように、その書き出しを書き留めた原稿用紙が机上にあった。

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パスモ

パスモを使い始めて3年ほどになるが、最初はパスモを取りだし、改札口のパスモを判断する場所に押し当てていた。
長く定期は使っていたので同じようにしていたのだ。
定期は、改札口の定期投入口に差しこみ、改札を通り終わると同じように通過してきた定期を再び手にしていたものだからパスモでも同じような動作をしていたのです。
最もパスモは定期のように手放すことはなく、ただ押し当てさえすればよいのですが。

その日も同じように小銭入れの横についた小さい袋からパスモを取り出して押し当てていたら、連れの男にパスモを取り出す必要はなく、小銭入れごと押し当てればすむと指摘された。
なるほど男の言うように小銭入れごと押し当てれば改札口は反応した。
薄い小銭入れの皮越しに判断してくれることがそのとき分かった。

ところで、今日、さらに意外なことを知った。
パスモは小銭入れの片側についている小袋に入っていると書いたが、その子袋がついている逆側を押し当てても改札口は反応するのだ。

パスモと改札口のその場所の距離は遠い。
小銭をたらふく詰め込んでいれば1cmにもなろうとする皮越しに改札口は反応する。
どういうことなのだろうか。

ひょっとして小銭入れを首にかけていても反応するのだろうか。
改札口はパスモの何に反応しているのだろうか。

とても気になる。

わたしの気になることはとても些細なことだ。
大きな疑問より些細な疑問の方が痛痒くて困ってしまう。

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2010年2月16日火曜日

梗概から遠く離れて

ときどき粗筋のような小説をみかけるようなことがある。
それを読むことでその小説で書こうとしているだいたいのことは分かるが、細かな説得力や小説世界へ読者を引っ張り込む力はもたない。

小説は粗筋ではなく肉付きがほしいということだが、書き込むだけが梗概から離れる方向を保証するものと思うが、書き込みにも色々ある。

いま、「破壊」を読んでいるが、確かにこの小説は小説の骨格の上にドキュメンタリーの肉付きをもつ。
それが小説として成り立たせている。
内容のことは触れないが、小説としての成り立ちの確かさに頭が下がる。

さて、そこで、どういう方法に拠るにしても小説としてその場に立っているためには書き込みが必要なのだが、その書き込みが小説に対してどのような効果をもつかが分からない。
もちろん実際に書かれたものを読んでみて、ためつすがめつしてみればあれこれ思い浮かぶのだが、一般的にはこういうだろうというくくりをわたしは知らない。

知らないが、小説は梗概に終わってしまっては小説である大切な部分を書き残してしまっているのだという感じをもっている。

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2010年2月15日月曜日

上村愛子、四位に泣く

上村愛子の四位を評価するマスコミの声があちこちから聞こえるが、四位であったことへのあれやこれやの思いは上村愛子の中にあることで、マスコミが取りざたすることでもなかろうに。賢しげにどのような問題も正当なる判断を持った顔をしてコメンテーターは述べる。アナウンサーも述べる。
少し前まで、この連中は彼女のメダル話をしきりにしていた輩だ。

基本的に多くの問題はその人の手の中にある。
国母和宏の服装にしたところで、まわりが彼の常識を正せばいいだけのことで、場合によってはあのままほったらかしにしておいてもいいだろう、それほど目くじらを立てることでもない。
あの程度のもんなのだよ、オリンピック選手といっても大げさに見上げることはない。
見るべき人は別のところにいる。

横綱と違い、オリンピック選手に品格は要求されていない。
それともあらゆる人間に品格とやらを要求しているのだろうか。
この愚かなる人間という生き物のすべてに。


己が管理者であるかのように振舞うそのことが、人間の愚かさの証明ではないか。

ラベル:

物語の蔓延概略

 日本の経済復興は昭和25年にはじまった朝鮮戦争の特需景気によって勢いづき、昭和35年、池田内閣の「所得倍増計画」によってピークに達する。

 それを引き受け中学卒業者が労働力として引張りだこになるのは、昭和35年から45年あたりまでがピークだが、特に「もはや戦後は終った」と世界にその経済力を示す機会となった「東京オリンピック」のあった昭和39年には中卒求人数は171万人。
 それに対して就職者は前年の46万人を最高にこの年は41万人でその後は徐々に下がり始める。
求人倍率4倍強という慢性的な人手不足であった。

 この陰で地方は閉じられた系であった世界を崩壊させていく。
それは、それぞれの地方が八百万の神よろしく長い年月を経て育ててきた物語の崩壊でもあった。
 崩壊というよりは資本主義の地方への浸透が、それぞれの場所が長い間をかけて育ててきた物語を浸食したといっていい。
 その代わりに日本全土を別の物語が覆いはじめる。

 別の物語は、今へも続く。
 その物語は狡猾に我々が知らない間に我々の内に忍び込む。
 見えない存在が拒否できないとはこのことだ。

 ただ、強いフィルターを持って静かに忍び寄る物語を拒否したものたちと、とうとう物語に参加し切れなかったものたちが、その物語の存在を何の疑問なしに受取り物語の中で行われるゲームに勝利した連中の悪意にさらされて何かがあることを感じる。

 この蔓延する物語がいつ頃できたかは不明であるが、信用できる幾人かは日露戦争直後ではないかと指摘する

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2010年2月14日日曜日

厭世家

生きるのに意味はないというのがわたしの思考の始まりですから、すべてはここから始まります。
意味がない世界を生き抜くのが大変なので人は生きていく物語を作り、それを当然としました。

その物語は生れ落ちたその時点で社会から提供されており、知らず知らずの成長のなかで我々はその物語を受け取り、そのストーリーに準じて生きることのなかで幸せと社会が教えた生活を獲得していきます。

それは言ってしまえば、ゲームのようなものです。
けれどもゲームよりはのっぴきならないものとして位置づけられております。

そのゲームに参加していないわたしにとっては生きることはそのまま苦痛以外の何ものでもありませんが、生きる意味のないわたしには死ぬ意味もないのだからと、瞑目して修行のつもりで存えております。

そういうわたしが、厭世家になるのは当然の成り行きで、ごくたまに陽射しを感じる時間があることにひと息をつきます。

先ほど書いたバレンタインの嫌さがわかろうというものではないですか。

もちろん、提供された物語のなかで生きているのであれば、この呟きは偏屈な老人のたわ言にしか聞こえないのでしょうが、もしや物語の外で生きている人がいるかとも思い、ここに記しておきました。

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バレンタイン

わたしは人と共にいるということが苦手で、いつでもひとりになれる自由の中でわずかに人との付き合いを楽しむに過ぎない。

そういうわたしの思うことだが、この社会は商業主義的にだれも彼もを巻き込んで、クリスマスやお正月を演出してきたが、バレンタインはもっともたちが悪いようだ。
それは、巻き込み方が強いからだろう。

村祭りの後の秘め事のような暗闇も持たず、ただ開けっぴろげに告白をしてみたり、何の意味もなく見知らぬと言っていいほどの人にチョコレートを渡す。
商業主義にそこまで操られなくてもいいだろう。
日々流される情報で我々は、とうの昔に己で考えることから遠ざかってしまっている。

それを特化したこの一日に村祭りか。

残念ながらわたしたちの手から村祭りは消えた。
それは、生きていく物語のひとつが消失したことだと思う。
そのうえに、さらに祭りでもないのに踊らされるとは。

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2010年2月12日金曜日

杜甫もなかなか

李白は大酒家として知られるが、杜甫もなかなか

勤めを終えれば質屋に通い  
飲み屋に毎日入り浸る  
酒屋のつけも一杯あるが  
どうせはかない人生だもの  
花に群がる蝶々を眺め  
水面を滑るとんぼと遊ぶ  
光あふれる都の野辺に 
しばしの春を楽しまん   

今宵は飲みに出るか。

塩見さんのホームから孫引きさせて頂いた。      

ラベル:

朝青龍の哀れ

朝青龍の振る舞いはときに常識人のワクを飛び出す。
そのことはまずいだろうが、直せばいいだけのことだろう。
常識人のワクならいいが、相撲のワクは少し小さいし、横綱のワクは更に小さい。

その小さなワクの存在を意識の中に常に置くようになるためには、時間を要する。
色々な機会にそのワクの存在を多くの人が伝えなければならなかっただろう。

伝えなかったために朝青龍は、ワクがわからないまま生きる羽目になった。
結果、あのような相撲取りを生んだ。
それは伝えなかった側の責任でもある。

横綱の品性という。
けれどもそれが何かを知るためには品性を受け入れる入れ物を胸の中に作り上げるしかなかった。
朝青龍は強くなることに己をかけ作り上げてきた。
その結果、横綱の品性を受け取る入れ物を胸の内にとうとう持つことができなかった。

朝青龍という結果を見れば、いくつかの叱責はできるだろう。
けれども、そのように彼を作り上げてきたのは彼一人の作業ではない。
彼は強さを作り、相撲界はそれを興行の振興に反映させた。

自分たちが彼の中に作り上げなかったものをいまさら彼に要求してもな、と思う。
けれども、そんなことはお構いなしに、この社会は鬱憤を晴らすようにいつまでも彼をねめまわす。

ラベル:

不寛容な時代

人は間違う。

この時代は、その間違いを事細かに並べて、衆を頼み、ターゲットを絞り、いじめたおす。
マスコミの姿がその尖兵だろう。

こんな状態になっているのは、この国が、欲求不満になってきていることに起因すると思う。
本当は、終わってしまったはずのこの国のシステムが、慣性の法則で未だに前に進んでいる。
けれども、なかにはすでに零れ落ちる人々もいるし、零れ落ちた人も含め終わったシステムの中にいることは大きなストレスを生む。
終わったシステムというのは順調にまわってきたシステムの運動がギクシャクしてきていることとそのギクシャクがシステムの終焉を目指している事を示しているが、説明しても分からない。
なにしろ私自身も終わっていることしか分からないし、それを具体的な現象をもって示す術をもたない。
それでも書いているのはみっともない次第。

とにかく、死に体の中で人のストレスはたまり、そのストレスがマスコミの生贄への攻撃的な様子に見える。
マスコミの攻撃的な姿は、マスコミを眺める人へも波及し、あちこちで語られている。
そのあちこちのなかにはウェブも含まれており、ウェブのなかでの口汚さは特に激しい。

技術進歩のなかでウェブは生まれたのだろうが、妙なことにウェブの中に巣食う連中の不寛容性と現代を覆う不慣用性は一致し、激しさを増している。
ま、ここに書いているわたしもウェブの住人には違いないが、忸怩たる思いもある。

ラベル:

2010年2月11日木曜日

あなたは仲間ではない

今を生きることに不自由を感じていないものたちは集う。
集い、歓談し、そしていまを生きていくことに困難を感じている人々に対し、「あなたたちは仲間ではない」と静かに声もなく語る。
それは、波もない四方を海だけが囲う中、溺れ死んでいくようなものだ。

集うかれらは、溺れゆくものにとって海そのものであり、その海には殺意が当たり前のようにたゆたっている。

その殺意は当然のものとしてそこにある限り、この世においては自然そのもので、存在そのものを問いかけられることはない。

いま必要なのは、その殺意に対する自覚へのうながしだと感じる。

ラベル:

注目すべきポイント

資本主義が行き場を求めてあちこちに市場を探している。
けれども市場は消えゆく傾向にあり、もう新興国にしか期待はできない。
内需はだめ、外需頼みというのが日本の姿勢であり、アメリカの姿勢である。

新興国とはいうもののその代表は中国で、中国は自国の持つ巨大な市場によっていくつかの国から過剰な遠慮を取り付けている。
彼国に人権問題がないとは思えないが、大っぴらにそれも言えない雰囲気がある。
資本主義ではまず市場の確保である。

けれども、もはや資本主義が立ち行かなくなっているとしたら、市場を探すことは本質的ではない。
過度な痛みを覚悟して今までとは違った道を探すしかない。

需要の掘り起しばかりを願い、いくつかの争いが起こっている。
それは形を変えているが、トヨタのリコールであったり、キリンとサントリーのM&Aであったりする。

後戻りするという選択肢を真摯に考えようとしている人たちはどこにいるのだろうか。

貧困の共有はわたしの旗印であるが、それは資本主義の彷徨と人口爆発に起因する。

ラベル:

2010年2月10日水曜日

ダイヤも乱れる

京王線で、このところ二度続けて人身事故のためダイヤが乱れることがあった。
日本の自殺者は一日約100人、東京がその何割を占めているのか。
「人身事故」という表示を見るたびに胸が締めつけられる。

飛び込んだ人を思ってではない。

飛び込んでいない自分を思ってである。

ラベル:

2010年2月9日火曜日

雑踏の中で

新宿の大ガードの下を住処とするハウスレスの一人がルーペを当てて洋書を読んでいた。
六本木交番の前、朝の十時、路上の置石で眠っている人がいた。
彼の前にはウィスキーの空いた小ビンが3本置かれている。
午後3時もう一度同じ場所を通ると彼も同じ場所で首を垂れていた。
ウィスキーの小ビンは6本に増えていた。

彼らの前を人は行き過ぎ、ときに置物のように彼らを眺めていた。
雑踏は意思あるもののように流れている。

たたずむ彼らも意思あるもののように状況に身を任せている。

見上げると都会には、それを包み込んでしまうようなどんよりと曇った灰色の空があった。

ラベル:

2010年2月8日月曜日

あるライブ取材の文章を読んで

見る人ごとに見る観点は違うのだから、理解はそれぞれに違ってくる。
それは、見る人の関心によっても、あなたの置かれた問題状況によっても違ってくる。

あたりまえのことだ。

ある人のライブに関する感想もまったく同じ文脈にあって、様々な場所に遍在する解釈のひとつにすぎない。
そのような「one of them」の存在でしかないことを意識して、ライブ取材の文章を一つの文章として提示するときから、文章はたった一つの文章として存在を彩り輝く。

たとえば、それは、一つのライブに接したとき、それぞれの観客がそれぞれの印象を抱くことに担保を置いている。
そこには決められた典型的な一つの反応があるわけではない。
ただ、そこに集まった数ほどの多様性が存在し、それぞれが楽曲に合わせ独自に反応しているだけだ。
それが、導かれ教えられ決まった反応でしかしないのだとしたら、そこには閉じられた世界があるだけでしかない。

この世が知らないうちに閉じられてしまったように会場も知らないうちに閉じられた空間になってしまったのだ。
出来るものなら、開かれた系としてそこにありたいものだ。
そこがどんな場所であったとしても。

わたしの感想は、「one of them」として彩られ、誇り高くありたい。
何の特殊性も要求しない。
わたしであることだけに胸を張っていたい。

ラベル:

悪党

「処刑の方程式」や「ミレニアム」を読んでしまった後では、どうしても小粒に見えてしまう。
それも致し方ないことで、人は比較の中で物事を見てしまうクセがあるものだから。

けれども、この本にもまた、犯罪被害者は何をもって罪を赦すことができるのかという問題があり、読んでいて退屈なわけではない。(いや、少し退屈か?)

この小説のしょぼさは、話を小さくまとめてしまう意思とその問題をあえて解決しようとする意思があるからかもしれない。

そういえば先の「処刑の方程式」や「ミレニアム」は大胆に事実を投げ出して見せただけだった。
事実の投げ出しこそが、問題そのものであり、それを弄くり返すところに何もないのかもしれない。

そういうことをこの「悪党」は教えてくれているのか。

ラベル:

流れ行くものとしての歌

特にライブなどに焦点をあててみれば歌は流れ行くものとしてそこにある。
その場合,定着性の強い意味をもつ歌詞の位置付けは難しい。

歌詞の意味がわかりやすく、心地よく伝わってくればくるほど歌は流れ行くものとしての生命を失う。

流れ行くものとして歌の背負った生命とはどこらあたりにあるのだろうか。
流れ行くものは何を聞き手に伝えようとしているのだろうか。

そのあたりのことがよく分からないのだ。

ラベル:

2010年2月5日金曜日

長生きしようね

身体の介護、認知症の重さ、疾病の重さ、生活での困難さなどの問題を鑑みて介護度が出ます。
介護度に伴い、介護保険を利用するのですが、介護の重さを要支援1~2、要介護1~5の7段階に分けた指数を使います。
で、その個別の事例に対して保険から金が支給されるわけです。

介護度に応じ、ケアマネージャーが家族らと相談して、介護施設を決めます。
決められた介護施設では、それは訪問介護であったり、特別養護老人ホームであったり、デイサービスであったりするのですが、業者は老人達を受け取り世話をしてその対価として彼らの介護度に応じて国から金をもらうわけです。

介護業界はこの介護保険の奪い合いの現場です。
老人の人数が増加していくにつれこのシステム上では大きな金がプールされていくことになっていきます。
業界は、すくない労働力で多くの老人を預かろうとします。
商売だからね。

ここでは、長生きが商売になっている。
その結果、老人の扱いに対して種種の問題が生じている。

唐突だが、中村伸一が、京都との県境にある福井県名田庄村で行っている医療は違う。
病ではなく人を診ている。

その村のある末期ガン患者の言葉がある。
臨終間際に、介護を続けてきた妻に残した言葉がある。
「最期まで家にいられて幸せな人生やった。お前も中村先生にみとられて、村で死ねよ」 住民たちのささやかだが切実な想いに、中村は向き合い続けている。

介護とはそういうものであろう。

問題は、老人の数が多くなりすぎたこと。
個々の老人が酷薄な人間関係しか持ち得ないケースが多々あること。
ふるさとという物語を遠い昔に捨ててしまった都会に生息する老人の割合の多さ。

名田庄村は、この国の特異点である。

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2010年2月4日木曜日

朝青龍引退

なるほど、そういう結果になったかと思う。

相撲というものは勝負の世界だからスポーツであるかのようにみえるが、同時に文化であり、神事でもある。
神事の部分は削ぎ落とされつつあるが、それでも土俵への女人禁制のような名残をみせている。

ま、詳しいことはさておき、この文化の部分で朝青龍は相撲界から押し出された。
昔、このブログでも書いたことがあるが、相撲の形式美は永く愛されつづけ、未だにことがあるごとに形式美を規範とする。
けれども、そもそも外国の人を相撲界に受け入れた段階で形式美は壊れたのではなかったのか。
日本人以外の人はその国ごとの文化を持ち込む。
これを遮断することはできない。

相撲の文化の面を維持するためには彼らの文化を遮断するしかないが、これは恐ろしく厄介な作業だし、わたしは遮断することを支持しない。

日本人以外を土俵に上げた瞬間に文化としての相撲は壊れ始めたのだと思う。

朝青龍には朝青龍の相撲があり、それは彼の中では正しい。
その彼の相撲感をああだこうだと歴史をあげつらい批判するのは、彼を土俵に上げたことと大きく矛盾するのではないか。

引退させたいなら引退させればいいが、その決断にはもう一度形式美を取り戻そうという強い意思が必要だ。
相撲を神事に向けて再出発させようという意思が、彼らにはあるのだろうか。
これほど多くの外国力士を抱えたまま。

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自己の所有

自分が自分であるというだけで、自分を我が手にするわけではない。
自分は自分と離れ遠くにある。

そのことをときには考えてみたい。

自分が自分であるというとき、自分はどこにいるかということを。
そういうことが気になる。
そのどこかにいる自分が、信頼できる自分なのかどうかも含めて。

そこにいる自分とそれを意識している自分を同一と考えていいのかどうかも。

哀しいな、鬱病の者の考えることは。

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2010年2月3日水曜日

自分の世界への招待

ひとは異物や未知のものとの出会いを恐れる。
ここでは、異物と未知のものとに分けたが、未知のものも異物の範疇に入るのだから、異物と一括しても構わないだろう。

要は、自分の世界にすんなりとなじまないものを人は毛嫌いしてしまうのでございます。
馴染まぬものを取り入れるときに行う自己を再編成する作業を恐れているのだろう。
自己を再編成するときには自己の状態を検証しなおさなければならない。
検証する時には当然に自己批判が生じてくる、自己批判はいまの自分の存在を危うくする要素が含まれているためにそれを人は避けてしまいたいのだと思う。

今まで平穏無事に生きてきた自分の状態をそのまま認めて、そのまま生きていきたいのに、何故に邪魔をするのか、そういう気分なのでございます。

というわけで、異物とであったとき、未知のものとであったときに、人はそれを無視するか、自分のパターンに当てはめて認知するのである。

無視には軽いものから始まり、村八分も入れば刑務所や病院や学校による隔離もある。
とにかく遠ざけてしまいたいのでございます。

パターンに当てはめるというのは、その人間の個別性を無視してただ血液型だけでいろいろと特徴をあげつらったりすることである。
あほな作業です。

というような作業に代替させて異物との出会いを避けるのである。
けれども本当のことを言ってしまえば、異物と出会いつづけ、そのたびに自己を検証し変化しつづけることで新たな自分に出会うことこそが醍醐味なのだが、この醍醐味にはわずかな危険が孕まれているために人々に毛嫌いされるている。

タイトルの「自分の世界への招待」は耳に心地よく聴こえるが、その実、今の自分を守りつづける汚辱にまみれた行為なのである。

守っている自分などそうたいしたものでもなく、昨日と同じ明日が来ることを願うのはさっぱり埒のあかない薄汚れた願いなのだろうと思う。
もちろんそれでも守りたく思う人がいるのなら守ることに否やはないが、異物を必要以上に毛嫌いしてもらいたくはない。

この世は異物が充満している。
ただ、押し着せられた物語で糊塗されているだけのことなのでございます。

稚拙な文章で失礼致しました。

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2010年2月2日火曜日

アポトーシス

アポトーシスとは細胞の死を表す生物学用語だが、その死は他によってもたらされるものではなく自らもたらすもの、つまり細胞の自死のようなことをさす。

この細胞の自殺は五十を越えた頃から始まりやがて死へと繋がっていく。
この現象が人間を不死から遠ざけている。
いまのところ、この現象は不可避なものなのだ。

けれども、この現象は単純にそれだけではなく、変態などとも深く関わる。
芋虫から蝶へ、おたまじゃくしからかえるへという変態にはアポトーシスが深く関わっているのだ。
変態する時、前段階の芋虫の細胞を壊す作業は、おたまじゃくしの細胞を壊す作業はアポトーシスが請け負う。
その結果、変態がなされる。
メタモルフォーゼの完成である。

人間における傷の治癒などにもアポトーシスは関わっている。
その治癒において人の肉体は過剰な肉をもって復活する。
切り傷は盛り上がって治ってくるし、切られた臓器は大きくなって復活する。

その後、過剰な部分はアポトーシスによって削り取られていく。
美味く出来ているものだと思うだろうか。

わたしはそうも思うがもう一つの感慨もある。
わたしの肉体は過剰な回復をしてもいないのにアポトーシスが着実に行われている。
なにやら切ないではないか。

アンチエイジングとは詳しく書けば、このアポトーシスの速度を落とす作業のことである。
もちろん、ネクローシスには何の効果もない。

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鹿の目をした女

昔、鹿の目をした女を一度だけ見たことがあった。
井の頭線の電車の中でのことだった。
その女は中吊りを見たり窓の外を眺めたりしていたが、終始変わらず鹿の目をしていた。

ある瞬間に鹿の目に変わることのある女は知っていたが、ずっと鹿の目のままでいる女を見たのは初めてだった。

あの女は鹿の目をしていたのではなく、鹿だったのではないかと思うようになったのはこのごろだ。
そのとき話もしなかったし、長く一緒の電車にいたわけではない。
けれども時々思い出す、十数年前のそのことを。

鹿の目を持つ女は鹿だったのだろう。
鹿の心を持ちながら都会にすべてをなじむことはなく、生きているあの女。

もう森に帰ったのだろうか。
それともまだ都会にいるのだろうか。

都会にいるとしたら、どこでそんな気分を持ちながらこの街を眺めているのだろうか。
触れておけばよかったといまは思う。

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2010年2月1日月曜日

声なき声

社会に届かぬ声のあるように自分の中にも届かぬ声がある。
届かぬ先はもちろん自分である。

この場合問題となるのは、発信者が誰で受信者が誰だということだが、最も注意しなければならないのは、ここで安易に「わたし」という言葉を使ってはならないことだ。

そもそも「わたし」とは何ものかという問いはあまり重要ではない。
ここでの興味は、そもそも「わたし」とは何処にいるかということだ。

それが昨日も書いたように自分自身の中に潜んでいるのならばいい。
たとえ、虜囚のみであったとしても。

けれども本当にわが身の中に「わたし」はいるのだろうか。

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