2010年12月31日金曜日

再び「文七元結」

気になったものですからもう一度、志ん朝の「文七元結」をyou tubeでじっくりと見ました。
いやあ、大晦日の晩に「芝浜」ならぬ「文七元結」、堪能いたしました。
途中で泣いたりしましてね。
いや、なに、話にではなく、志ん朝の芸に、いやいや志ん朝の芸の上に乗った「文七元結」に。
なるほどなるほどと得心のいくお話でした。

で、同じくyou tubeに六代目円生の「文七元結」がありましてね、こちらは音声だけなんですけど、それを志ん朝氏の直後に聞いたのです。

わかりました。

なぜ志ん朝の「文七元結」にえらく心揺すられたのかが。
ま、六代目をどうのこうのと言うのではないのですが、円生の描く左官の長兵衛にはすごみが入っているんですね。
いえなに、ニュアンスの話ですよ。
でもって、長屋の人情話に必要な軽みが削がれるという感じになっています。
それが長兵衛のお久への愛情が直球で出てこなくなる非を生んでいるらしい。
(ほんとは円生落語に文句をつけるなんてとんでもないんですけどね)

というわけで、円生師匠の「文七元結」がもうひとつわたしにわからなかったのは、話の中の長兵衛、文七、お久の交感がわからなかったらしいのです。
この場合、聴き手としてのわたしの力量不足と言ってしまってもいいでしょう。

それが志ん朝の「文七元結」になると実によくわかる。
わたしにわかるように円生の「文七元結」を志ん朝が仕上げ直してくれたんですねえ。
ありがたいことです。

まず間違いなく志ん朝は六代目円生師匠から「文七元結」を継承しています。
それをかなりいじっております。
もちろん細部でですよ。
それがもう見事というか何と言うか。

よおっ、志ん朝!!

てなところでしょうか。
大晦日に二席の「文七元結」を堪能して、あらためて落語の奥深さに触れさせていただき、感動、心の内に留められず、ここに書いてしまいました。

みなさんはそれほど落語がお好きではないでしょうから無理なさらなくていいんですよ。

けど、不肖落語ファンのわたしは長年の「文七元結」嫌いから解放され、もうそれだけでこの一年がよい一年だと思えるんですよ。
たったこれだけのこと、それもこの一年の最終日の約3時間ほどの間に染み渡ったこの出来事だけで胸にすとんと幸せが落ちてきたのです。

幸せというのはそういうふうに一瞬で過去を変えてくれるのかもしれません。
いい年だったように単純なわたしは、いま思っています。

ではでは、ほんとうによいお年をお迎えください。

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そして「武士道エイティーン」へ

この作品は、前二作とは少々趣が異なる。
もはや青春小説から逸脱しかかっている。
ところどころ「ジウ」のうような雰囲気も持たせる。
まあ、同じ作者だからねえ…
それに、青春小説というジャンルに縛られるのが誉田さんもきつかったのだろう。

武士道シリーズ前二作は一人称二視点で書かれている。
つまり、磯山と早苗という主人公二人の視点で書かれている。
で、この視点の特徴的な面白さがあって、それが会話直後のセンテンスなのだけど…、まあ読んでみたらいい。
なるほどこうすれば若い女子高生の感じがよく出ること出ること。

で、本作は一人称六視点という構成になっている。
磯山と早苗以外に四人の視点が導入されているわけだ。
この構成によって前二作の枠組みをこの作品は壊している。
壊してはいるが、肝心な部分はしっかりと残していて、その壊れかかっていながら残っている感じが本作品の持つ青春小説の終わりの雰囲気へとつながっていく。
達者な人だし、温かな目を持った作者だと思う。

今回は六人が六様に自分の見た人生を思うさまで謎解きの雰囲気も演出されており、人がそれぞれ生きながらどのように他者とつながっているのかということを教えたりもしていて、最も読み応えのある作品になっているといっていいかもしれない。
けれども、だから本作品こそがこのシリーズで一番いいかというとそうでもなく、前二作のもっていた剣道への、相手への、求心力は削がれている。
それが人の成長(この場合「人」とは登場人物のことですよ)というものだと訳知り顔で語ってもいいのだが、実はわたしはそうは思っていない。

作品への評価はともかく、この作品もいいものだと思います。

で、わたしが前二作と本作品を読み比べながら考えたこと、それは小説そのものとは少し離れますが、そのことを次のブログに書いてみようと思います。

「ベクトルとしてのあなたへ」

そんなタイトルでしょうか。
機会があったら読んでみてください。

今年も一時中断しかけたこのブログを長く読んでいただきありがとうございました。
わたしにはこのブログの読者に支えられて生きているところがあります。

本当にありがとうございました。

今夜中に次のもう一本を書くかもしれませんが、いまはとにかくよいお年をお迎えくださいとメッセージをお送りします。

あなたの幸せを心より願っております。

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2010年12月30日木曜日

年末です

希望をもって生きたいものですね。
ほんのわずかでかまわないですから。
そうであったら、生きられますものね。

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ころころ変わる意見

少し前にテレビで聞いたセリフだが、そのドラマ中の坂本竜馬がわしは意見がころころ変わるので変節漢として命を狙われると語っているシーンがありました。

よくわかりました。
わたしも変節漢ですから。
すぐに自己否定してしまいます。
そのことで責められることも多々あります。
けれども大切なことは、違うなと思えば変わるという一点ではないでしょうか。

一生ものの真実など、簡単に手に入るはずがあるわけないじゃないですか。
ねえ、あなた。

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2010年12月29日水曜日

足を痛めて

足を痛めてひいひい言っております。
その痛みのせいか、食欲がございません。
足に限らずほんのわずかな痛みにもヒトは激しく反応し、食欲のなくなるものです。
肉体に限らず。

とにかく食欲があるということはすばらしいことではないでしょうか。

みなさま、お元気でらっしゃいますか?

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武士道セブンティーン

誉田哲也の武士道シリーズの第二作。
わたしは、このシリーズが好きで、もう感動しまくりなんですなあ、随所で。
「桐島、部活やめるってよ」は、それほどでもないのですが、このシリーズには弱いです。

いい歳をして青春小説かとも思うのですが、核として置かれた武士道の奥深さと、たびたび顔を出す人が人を思うことの純粋さには、昔と変わらず胸が震えます。

本シリーズは今のところ三作目の「武士道エイティーン」までですが、なんというか、この誉田哲也という男、女性の視点から描くのがうまいですね。
どうしちゃったんだろう。

「ジウ」にしても姫川玲子にしても本シリーズにしても。

純な心をお持ちの方、道に励む方にはお勧めしたいシリーズです。
けど、青春小説ですからすでに大人になりきった人には面白くもなんともないと思いますよ。
ま、すべて受信者と対象物はそんな関係なんですけどね。

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2010年12月28日火曜日

三代目古今亭志ん朝


先日、この人の「文七元結」の話を友人としたものだから、あらためてYOU TUBEで聴いてみたが、あれは見事なものです。
掛け値なしの落語でした。
ああ、「文七元結」とはこういう話なのだったのかとあらためて感心して眺めておったのです。
何か、円生の「文七元結」を聞いたときあまりいい話ではないなとそのストーリーを疑ったのですが、そうではありませんでした。
しっかりと演者の姿かたちと重ねて見てみますと、いやあイイ話なのです。
YOU TUBEの「文七元結」は平成九年十一月十七日の国立小劇場の第三百五十三回落語研究会のものだと思われますが、これは志ん朝落語の傑作の一本と謳われておる物です。
「芸は消えるからいいんだよ」とおっしゃっていた志ん朝師匠には申し訳ないですが、残していただいてありがたかったです。
で、その気分を持ちながら手に取ったのが、「志ん朝の高座」です。
この本、いいものですよ。
…このお久と文七とが一緒になりまして麹町貝坂に元結屋の店を開きます。
文七元結の一席でございました。

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桂吉朝


眠るときに落語を聞くというのは長い習慣なのですが、このところ吉朝を聞くことが多いです。
わたしは、この方の落語をじかに聞いたことはございませんが、いい噺家だったのだろうなと思わされることしばしです。
枝雀を1999年、吉朝を2005年に亡くしたのが師匠米朝ですが、その痛みを語る米朝の映像が残っております。
上方落語の今後を見据えていた米朝のくやしい思いがじわりじわりと伝わる吉朝の芸に触れて、本当に惜しい人を亡くしたのだなといまさらながらに思います。
中島らもとの親交も厚かった人だと聞きます。
遅まきながらご冥福をお祈りします。

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2010年12月27日月曜日

疑心


 「疑心」は、優れて恋愛小説である。
それが、この作品の核心である。
この事実は、短編集「初陣」のなかの一編「試練」に明記されている。
ま、作者はそこまで確信的ではなかったにしろだ。
で、その恋愛というのがややこしい。
あちらこちらに堕ちている恋愛ではないのだ。
つまりは、例の地獄のような異次元空間に陥れる恋愛、そいつに主人公、竜崎がはまってしまうのだが、まいった、まいっただ。
この種の地獄のような恋愛を体験するにはそれなりの資格がいる。
幸か不幸か竜崎はその資格を持ってしまっていた。
で、どうなるかなのだが、それを「婆子焼庵」という禅の話をぶち込むことで何とかしようとするわけなのだが、なんとかなったかどうか。
それは、読者が判断すればいい。
ラストに出てくるアイヌ語の「エオリパク」が、カタルシスを呼ぶ。
もし「試練」を読んでしまっているとすれば、「エオリパク」にはなんだかこそばゆいような恋愛の甘い響きがある。
上出来ではないかな、恋愛小説として。
もっとも、警官の恋愛としては「インビジブルレイン」のなかの姫川玲子とあの長身のやくざとの恋愛のほうが数段エロティックで優れているかな。
もっとも漱石の恋愛を一概に否定するのもなんだかなあという気もするのですが…

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2010年12月26日日曜日

ビッグマック

ちょっとした事情があってビッグマックなるものを食べてみましたが、これはこれは…、これが200円では対抗するのも、拒絶するのも大変なわけで、いやはや時代を改めて感じたわけです、わたしは。
まったくもって、巨大資本の力はたいしたもので…。
ふむふむ、まったくもって…、というわけで、わたしはこの品を5分ほどで食し終えたのでした。

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早すぎる朝に

致し方なく起き出して、熱いかけそばを一杯作って食べた。
それから、お茶を入れてこうやってブログを書いている。
寒い寒いとは言っても、室温は0度。
ハバロフスクはどんなんだろうな、大連はどんなんだろうなと、つらつらと思ってみる。

こんな朝は、あんまり何も考えるものじゃあない。
じゃあ、みんな元気でいてほしい。

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2010年12月25日土曜日

年賀状

大変申し訳ないのですが、今年も年賀状は失礼することになると思います。
心苦しいのですが、書く気力がございません。
軟弱者です。
脆弱な神経の持ち主です。

謹んでご報告申し上げます。

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捨ててしまえ

たいていの者は余分なものを捨てない。
そして、たいていの物は余分なものです。

いやはや、捨ててはならぬものには資格がある。
それがどんな資格かをここで述べるには少々ややこしい。
ただ、ここではそういう資格を持ったものはほとんどないと知ってもらいたい。
もちろん、以上は自戒をこめての発言です。

いらぬものを必要以上に持ち続けていると精神が錯綜してきます。
整理できないものは、まずもっていらぬものと知るべし。

わが身の周りにしっかりと整理され、いずれ再び見えるものとして、捨ててはならないものは存在します。

いわば、捨ててはならないものは、本当にありがたいものなのです。

説教臭くなってしまいました。
反省、反省。

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2010年12月24日金曜日

文七元結

久々にしみじみと落語の話が出来ました。
豊かな時間の中に志ん生、志ん朝、小三治、小さん、枝雀が流れていきました。

いい世界でした。

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2010年12月17日金曜日

またまた羽生に勝った

渡辺が竜王を防衛した。
羽生との決着がついたかな。
番勝負ではもう羽生は渡辺に勝てないのかな。
それとも竜王位だけでしか渡辺は強くないのか。
不思議な棋士だ。

竜王戦以外ではこの男、結構負けるんだけどねえ。
応援しがいのある棋士であるのは間違いないな。

素直にうれしい。
ファンとして。

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2010年12月14日火曜日

あなたは幸せですか?

このブログを読まれている慈悲深いあなたならばご存知のことと思いますが、わたしの語りのキーワードの大きなものに「物語」というタームがございます。
もうしばらく前から始まっておりますが、クリスマス、新年の雑音がちらほらと社会のあちらこちらに見え聞こえしておりますです。
わたしは、あの雑音が大変に苦手でございます。

もうよくご承知のことと思いますが、あの雑音には「物語」が含まれております。
クリスマスを祝いましょう。
その祝い方はああたらこうたら…

けれども、わたしはそのような物語の中に生きてはおりません。
ごくごくひっそりと世間の片隅に隠遁しておるのです。
それもおびえつつの隠遁でござりますれば、あのけばけばしいクリスマスやら大晦日やら正月やらにまとわりつく薄っぺらなきらびやかさが怖くて怖くて致し方ないのでございます。

さりとて、大マスコミも巻き込んでのこの風潮から逃れるのは至難の業。
はてさてどうしたものか。

そこで、表題ですが、

「あなたは幸せですか?」

もしも、このところ始まりつつある暮れの喧騒に何もいやな感じがしないのであれば、それはもうどこに出し、誇ってもいい幸せではありますまいか。
クリスマスの歌がもうすぐ街中に響き渡るでしょう。
わたしは、あの音楽を聴くのがとてもつらいのです。
あの音楽がもってくる「物語」とわたしの生きている日々にある「物語」が違いすぎるのです。
そしてわたしの日々のもつ「物語」は、あの音楽に代表されるこの時期のお仕着せのようなにぎやかさに簡単に、それこそ砂糖菓子のように壊れてしまう脆弱さなのです。

だから、わたしはこの時期、とても淋しい思いをしています。
「あなたは幸せですか?」と問われれば、この時期のわたしは消え入りたい気分になってしまうのです。

あなたはと言えば、
この時期の繁華街を闊歩していてもらいたいものです。

そういう幸せの中にあなたにはいてほしいものです。

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孤独の愉しみ方

上の写真の本でソローの言葉を切れ切れに読んでいたのですが、それはもう心にあたることばかりでなんとも言えないというのが感想ですが、森の生活者ではないわたしにはそのまま真似をすることも出来ず、はたと天を仰いだりするのでした。

自分の生活に設計図を持っていることはとても大切だと思います。
思いはしますが、翻ってわたしはと言えば、のたれ死にがお似合いの生活を今日まで送ってきており、いまさら何とかならぬかと願ったりすれば、それはそれは大勢の今まで不義理をした人々が眉を吊り上げて襲ってきそうです。

それでは…と、また天を仰いだりするのです。

お風邪などめされぬように。

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2010年12月11日土曜日

果断(隠蔽捜査2)



今野敏の「果断」を読む。
愉快な本だが、わたしにとっては若干の痛みと哀しみにも触れてくる。
この本のもっとも大きなポイントは竜崎伸也という主人公の造形であって、作者も自分の描き出した竜崎にそぐわぬストーリーを展開することに終始心を砕いている。
それほど竜崎はかたくなまでに自分の心に忠実に生きようとする人間であり、その心がまったくもって冷徹なところにこの作品の眼目はある。
今野氏の隠蔽捜査シリーズはすでに三冊出ているが、最初の二冊が大きな評判を取った。
三冊目は?
読めば読んだだけの価値はある。
小説の登場人物たちがすでに駄作を産めないように監視し始めているからだ。
なんにしろ誰も竜崎のようなキャラクターの存在があることに気づかなかったことに微苦笑させられる。
なるほどこのような人物が組織に紛れ込んでいたら、そしてある程度の出世もし、力ももっているとしたら組織に胡坐をかいていた連中は困ったことになるだろう。
そこが、痛快無比。
さらに、作者は幾つかの味付けをしているが、それは読まれてみればいいだろう。
もし、あなたがこのシリーズを読んでいないとしたら、楽しい年末になるかもしれない。
わたしはと言えば、十分に楽しくて、そしてなかば心痛かった。

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将棋が気になって…

先日久しぶりにのぞいたネット将棋の連戦連敗が気になって数冊の将棋の本を立ち読みしてみましたが、まったく見知らぬ世界がそこにはありました。
それはわたしの記憶の衰えも多分に加わっているのでしょうが、その世界にしっかりと触れていないということはこれほどまでに手痛いしっぺ返しを食うのかと唖然とする状況でした。
これなら、あまり考えずにほいほいと指していれば、将棋に負け続けるのも当たり前のことだわいと改めて妙に納得したのでした。
と同時に、「書の世界」をひと時も手放さずしっかりと常に向き合っておられる雲峰先生のお顔をふと思い起こしたりもしました。

そう言えば、素人のわたしには遠い話とは言え竜王戦第六局を前に今週の将棋を1勝2敗と負け越した渡辺明の向かうこれからの戦いのしんどさも改めて素人なりに感じるのでした。

それにしても、将棋で勝つことにも多大な努力がいることを知った今、何かにかかわることの心積もり一般に対して新たに自分に問いかけてみなくてはなりません。

自分の本気がどれほどのものかは置いておくとして、本気でなくては良くも悪くも始まらないということですねえ、本気でなくては…

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2010年12月10日金曜日

本が読めなかった日々

本を手に取ることができなかった。
何かを読もうとする気力が起こらなかった。
どうしたものかなと思っていたところにこの本が登場した。
これがべらぼうに面白かった。
脳が久しぶりに刺激された。
(本を手に取れなかったのは脳が呆けていたからかもしれない。それはそれで心地よかったのかな。)

「アポトーシス」「アポビオーシス」「ネクローシス」

言ってしまえば、この本は以上の三つを素人にわかるように書き下してくれたありがたい新書であった。
すべて「死」にかかわるジャーゴンであるけれど、それが同時に「生」にもかかわってくるところが興味深い。
生きるためには死に続ける必要があるということなのだが、その「死」にもいろいろありましてね…
というようなことだけれど、これからいろいろと広がる内容を教えていただきました。

アポトーシス、ネクローシスという言葉は以前から知っていましたが、知っているだけじゃあねえ…、ダメなんですね。

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2010年12月9日木曜日

仕込み

ネットに将棋ゲームがあって、たまにやってみるのだが、ころころと負けてしまう。
以前はもう少し強かったように思うがこれも妄想か。

いやいや、以前はもっと将棋のことを思っていたような気がする。
思っていたからには考えてもいたし、その種の書籍も読み込んでいただろう。
要は、仕込みをしていたのである。

いかに素人とはいえ、仕込みなしではなんともなるまい。
問題は仕込みなのであろう。
遊びでやってみたネットゲームであるにしろいつまでも負けてばかりではいられない。

少し背筋を伸ばしてみてもいいのではなかろうか。

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2010年12月7日火曜日

風邪ひきさん

病を背負い込んだときの楽しみは心地よい睡眠だろうか。
食欲が戻る前にまず睡眠を迎える体力が回復する。
それから、食欲へと…

当たり前の回復の道順も年齢を食むにつれてなにやら覚束なくなる。
老いを感じることのひとつと考えてよいのかもしれない。

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2010年12月5日日曜日

風邪に捕まえられて

悪い風邪に捕まえられてこの土日は振り回されてしまいました。
病気のときは自分の肉体の最も近いところに意識が向かい、自分の肉体の状態に思いがいってしまう。
考えてみれば、わたしには肉体しか確かなものはないので、こういうときにつむぎだしてきた物語も放棄してただうつらうつらする。

病気が常態だとどういったものだろうかという疑問が顔をもち上げる。
そうだとしたらいらぬ心に振り回されなくてもすむだろうか…。

身体を思い、心を思いながら寝具に臥せっている。
なんだかなあ、年の瀬の気分になる。

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2010年12月3日金曜日

ウィキリークス

海老蔵氏のことで彼の作ってきたイメージ、幻想がひょんなことからぼろぼろになり始めたので彼のサイドの連中はとても困っていると書いたけれども、海老蔵どころではない。

国家レベルで作りだしてきた物語の破綻も始まっていてそれが顕在化してきている。
その破綻に大きな力を添えているのがウィキリークスだけれど、この力はすさまじい。
ウィキリークスがどのようなものであるのかは、今後大きな話題になるのだろうが、その存在はすでに幾つかの国家が躍起になって消滅させようとしているからことは複雑である。
一方、これを助けようとする国も名乗りを上げているし、どのようになっていくのだろうか。

どうなっていくにしろ、しっかりとした人の意見を聞きながら少しずつ考えておきたいものだ。
物語の破綻は意外にたやすいもので、その分、物語保持者は極めて暴力的であったりする。

そう言えば、ウィキリークスへのアクセスは今日から出来なくなっている。
相手も本気なのである。
相手の中にはアメリカも入っているのだから…、強烈だ。

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2010年12月2日木曜日

第23期竜王戦

第21期竜王戦七番勝負は三連敗後の四連勝で渡辺が竜王位を防衛した。
これで羽生は渡辺に苦手意識が出来ただろうと思われた今期の竜王戦。
初戦、第二戦と羽生は負けた。
両者はしばらく渡辺の優勢が続くのだろうなと思われた瞬間だった。
それが、第三戦、第四戦と羽生が取り返す。

羽生の姿は勝負を超えたところにあるらしい。
多くの一流の人がそうであるように、羽生もまた戦っている相手は目の前の相手ではないのだろう。

将棋もいうまでもなく虚構の世界である。
この不可思議な世界の中に何が眠っているのだろう。

奇しくも今日は竜王戦第五局、恐ろしい捻りあいである。
勝つことがここまでのことであるとは。
素人のわたしの胸まで熱くなる。

最後の羽生の緩手は緩手に見えて緩手でもなかった。
そりゃあそうだろう。
将棋界の第一人者、羽生である。

わたしは渡辺を贔屓にしている。
無敵ではなく、ただどちらかといえば強くはあるという人間は応援するのがしんどい。
しんどいが人を贔屓にするというのはそういうことなのだろう。
3勝2敗とはなったが、渡辺の防衛の道は、はるか遠いあと1勝である。

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ブロンコ・ビリー

わたしはあまり映画を見る人間ではないが、イーストウッドの映画はなるべく見るようにしている。
イーストウッドがらみの映画を見ることでわたしの映画を見る視点を育てようとしているわけだ。
それに、イースウッド映画はあまりはずれがないので見るほうに嫌気がささない。

「ブロンコ・ビリー」はソンドラ・ロックとの掛け合いが楽しい。
ソンドラ・ロックはこの作品当時は彼の掛け値なしの彼の愛人だったと思うが、その愛人具合が「アウトロー」の頃からどのように変わってきたのかを思ってみると愉快だ。
イーストウッドも大変だったろう、この女性との付き合いは。
イーストウッドとソンドラロックの共演映画を見ているといつもそういう気分になる。

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海老蔵

ひどい風邪でのどがやりきれない。
痛みで食事を取るのがとてもつらいのだが、それをいい気味だと思われても仕方がないわたしではある。

このところ海老蔵の事件で芸能界は動いているが、あれは海老蔵の持つ物語が崩壊しつつある現象で彼の物語をどのように保つかどうかが問題になっている。
海老蔵本人がどのような人間かどうかはあまり関係ない。
恋愛事と同じで、好悪のことはこちらが持ってしまった幻想に揺さぶられて感情(人気)が動く。
したがって、恋愛(人気)の対象には近づかないにこしたことはない。
近づけば(実際の本人を知ってしまえば知ってしまうほど)幻想は崩れる。
イメージが崩れれば別れと相成る。
荒くざっくばらんに語ればそういうことになる。

海老蔵という男には幻想を喚起するところがある。
それを持ってスターの資質とか言うのだろう。
それだけでいい。
本人がつまらぬ人間であろうが、いい人であろうが関係はない。
人気商売とはそんなものだ。

ただ今回の事件は、その海老蔵が創り出した幻想を別のほうから崩しにきているのだから困る。

事実がどうであったかなどどうでもいい話だ。
問題は、海老蔵の商品価値、つまりは彼の幻想を生み出す力をどこまで事件後も持ち続けられるかである。
そのためにどのように事件を収めるか当事者たちは考えている。

というわけで、実にくだらん事件であるといえばそれだけのことだし、なかなか面白いとも言えるのである。
イメージではなく素顔も美しい人と付き合いたいものです。
出来るならね。

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