2009年2月28日土曜日

ドキュメンタリー「柳家小三治」


昨日は珍しくお出かけをして念願の「ドキュメンタリー 小三治」を東中野で見る。
小三治の懸命に生きる姿は胸に響きました。

何につけても懸命になるからこそ自分が変わっていく。
懸命になることはしんどいことだけれど、ときに光明がさすことがある。

自分は落語家に向いていないだとか、自分が楽しむためにやっているとか彼が言うのはそういう長き格闘の後に出てきた言葉で、その言葉の表層の意味だけをとらえていたのでは小三治が何を言っているのかはわからない。

わたしも少しはそういう奥深さが見えるようになってきた。
長く落語に接してきたご褒美だろう。

人によって取り方は違うだろうが、見ることが出来ていいものでした。

しかし、逆に落語に接してきた哀しみもある。
最後の[鰍沢」は、あまりにも六代目円生のものを聞きすぎていて、アラも目立った。
初演だから仕方あるまい。

背を正して言えば、あの映像はいまだに挑戦し続けている小三治の姿を見るべきだろう。

まあ、なんにしても小三治はいいなあ。

ラベル:

2009年2月26日木曜日

念のために麻生氏のこと

人間界のイベントは最後を「取り」といって大物は一番後から出てくる。
最初に出てくるのは、いわば小物だ。
外交もその伝からはずれない。

最初に呼ばれたと喜んでいるのは、「わたしは素人でござい」と自ら披露していることと同じである。
以下に朝日新聞インターネットからの引用を載せる。

これが、まともな麻生訪米の政治的扱いである。
あまりはしゃがぬことだ。
わたしまで惨めになってしまうではないか。



オバマ米大統領にとって初のホワイトハウスでの首脳会談となった麻生首相の訪米。各国のメディアは、支持率の低迷にあえぐ首相の力量に疑問を投げかけるなど、冷ややかな論調が目立った。

 新華社通信は25日未明、麻生首相とオバマ大統領の会談を速報で伝え、「米国は日本との同盟関係強化を望んでいる」と題する関連記事を流した。一方、中国共産党機関紙・人民日報系の「環球時報」は「麻生首相の訪米は冷遇された」との記事を掲載。首脳会談後の会食や共同記者会見がなかったことに触れて「米側は早期の首脳会談には応じたが、安定しない麻生政権と親密ぶりを示すことは避けた」と伝えた。北京の都市報・新京報は同日、「訪米目的の一つは、外交成果を示すことで国内の支持回復を期待することにあった」との専門家の声を紹介した。

 韓国メディアは、北朝鮮が長距離弾道ミサイルの発射の動きを見せている中での会談だけに「北のミサイル・核に共同対処」(通信社の聯合ニュース)などと報じた。同ニュースは、首相が外交攻勢で支持率の回復を狙っているとし、年明けからの訪韓、世界経済フォーラム(ダボス会議)出席、ロシア訪問を列挙。「外国元首として初めてオバマ大統領と(ホワイトハウスで)首脳会談を開く光栄にあずかった」と報じた。

 英国の主要メディアは日米首脳会談についてほとんど何も報じていない。日本の政治的不在感は常にも増して際立っている。主要紙の中で紙面で取り上げたのはタイムズ紙。ただし、近く予定されているブラウン首相の訪米関連記事の末尾に付け足す形。フィナンシャル・タイムズ(電子版)は、日本のアフガニスタン支援策が米国に歓迎されたことを伝えた上で麻生首相を招いたのは「現首相個人ではなく、日本の首相というポストに対する敬意からだ」という米高官のコメントを紹介している。

ロシアのイタル・タス通信は「麻生首相は極めて冷淡に迎えられた」と伝えた。日本側からの必死の要求に応じて公式訪問リストのトップに掲げたものの、麻生政権は長くは持たず、親密ぶりを示すのは不適切と米側が判断したと指摘。福井県小浜市名産の塗り箸(ばし)をおみやげに持って行ったが、効果はなかったとも伝えている。(北京=坂尻顕吾、ソウル=箱田哲也、、ロンドン=大野博人、モスクワ=副島英樹)

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ものを考えるとき

ものを考えるときのひとつの大きな動機のひとつに[他をわかろうとする心」がある。

すべての人がこの視点を備えているかどうかは別にして、このことはとても大事なことだとわたしは思っている。

[人がどういうふうに考えるのか、感じるのか、知りたい」

この思いが他に寄り添う気持ちを育て、すべての人に対しては無理であるにしても特殊な誰かに対しては全的に抱え込むことが可能になるのではないかと思う。

それが生きている醍醐味だろうというのがわたしの基本的な思いだ。

わたしの愛する噺家、柳家小三治は人間の生活が愉快なのだ、笑いはそれに少し加えられたものに過ぎない、というような意味のことを言っている。

まことにもって、そうありたいものでその場所からどんどん遠ざかる世間を見るにつけ忍びない。

いやいや、今もまだそういう愉快な生活は残っているのかもしれない。
事実、時としてわたしもそういう空間を提供しているのかもしれないが、趨勢は違う方向に進んでいる。

いつから始まったのかは別としてこの趨勢を慣性の法則とでも呼んでしまおうか。

しかし、一方ではどんなにメジャーになろうとも「あさみちゆき」は井の頭公園で歌う事実もある。

まあ、いろいろと厄介なことはあるが、とにかく、小三治のドキュメンタリーだけは見に行きたいものだ。

ラベル:

2009年2月25日水曜日

しかし、反乱といってもなあ


シドニー・ポワチエも贔屓ならばデンゼル・ワシントンも贔屓だ。

アカデミー主演男優賞を取った初めてのアフリカ系アメリカ人がシドニー・ポワチエで、二人目がデンゼル・ワシントンだ。

しかし、シドニー・ポワチエは我が青春の女優ジョアンナ・シムカスの人生の同行者でもあるのでちょっと妬ける。
どちらかといえば年齢も近いデンゼル・ワシントンを好きだということにここではしておきたい。

そのデンゼル・ワシントンの「ジョンQ」を見た。
この映画は一種の反乱だ。

そして、思ってしまえばわれわれ善人の反乱はこういうものかもしれない。
彼は何ものかわからない社会に対して盲滅法の反乱を我が子の命のために起こしたに過ぎないのだが、しかしその矛盾に満ちた行動は、唯一、矛盾に満ちたこの世界に対する弱き卵の反乱なのだろうと思える。

しかし、なんとも切ない反乱であることよ。

ひとは、いつから、どうでもいいものを大切にするようになったのだろうか?

わたしの反乱もまたこのように哀しいものであることは覚悟せねばなるまいと思う。

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絶望的な自己認識能力の欠如

案の定、麻生総理はオバマとの会談後に「とても大きな成果があった」と自画自賛したそうだ。

あれは、根っからのまぬけだ。
そしてこういう男を担いでいる国は終わったと思っていい。

ああ、反乱でも起こしたいなあ。

第58期王将戦を羽生善治と戦っている深浦康市が今日第五局を制した。
その結果羽生と深浦の通算成績は26勝26敗となった。
羽生に対してこれだけ戦い、これだけの戦績を残した棋士はいない。

その深浦になぜ羽生に勝てるかという質問がなされたことがある。

そのとき深浦は、
「なぜか羽生さんとは不思議に読み筋が合うんです」
そう答えた。

麻生氏には自己認識能力がまったく欠如している。
それは彼がそのように育った結果だろう。

深い自己認識能力は、あるぎりぎりの場所に自分を駆り出さなければ、なかなかつかないものである。
この条件をクリアするのがこの国のエリートには難しい。
また、日本の教育もそのことにあまり重きを置いていない。

自分がいかなるものかを考える場を提供してくれないし、そういうことが大切だとは誰も教えてくれないし、見せてくれない。

そもそも自分を見極めようとする人間など今では皆無に等しい。
しかし、自己認識能力がなければ都合のいいことだけをピックアップしながら生きることが可能になる。

言っておくが、その人間にとって目を閉じるだけで、耳をふさぐだけで、都合の悪いものは消えてなくなる。
その責任を麻生氏一人に覆いかぶせる気はないが、この国にはそのような手前勝手な態度で生きている人間が多すぎる。(それも中枢部に)

そうではない政治家がいれば助かるのだが、果たしているのかどうか。

「とても大きな成果があった」!?

笑わせるんじゃねえぞ。

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バラク・オバマさま

我が日本国の麻生太郎総理大臣はバラク・オバマさまとたった1時間会うために12時間、1万1千キロの距離を旅をした。
その結果、今回の日米首脳会談のおかげで、自分が不人気であること、支持率が1桁台であることが世界中に知れ渡ってしまった。

北米のテレビでは日米首脳会談についての模様は放送されず、オバマさまがなにを言ったかは知らないが、北米のメディアにとって麻生氏の訪問はほとんど何の意味もなかったのだろう。
まったく無視された形となった。
ニュースバリューゼロというわけだ。

さて、その後の麻生氏のコメントをわたしは知らないが、彼は今でも自分に政治家としてのなんらの価値があると考えているのだろうか。

このあたりにわたしは個人的に麻生太郎に悲哀を感じる。
そして、このような総理大臣を抱いたわれわれの悲劇は度し難いものだという怒りも感じる。

どうしてくれようか。

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確定申告の時期

この時期になれば否応なく今年一年の自分の稼ぎが知らされる。
しみじみと眺めてみれば、これでは生きてはいけまいと思い知らされる。

国家がいかに人間の想像の産物であれ、われわれの生きている世界が国家と市場だけではなく人々の住む社会や生活のなかで成り立っていると主張したところで、そういう考えが人を助けてくれることはない。(いかに正鵠を射ていようとも)

下世話な言い方をすれば生活する金がなくなれば、人は死なざるをえない。
そういう死に方で何人の人が亡くなったのかは、あまり大きく取り上げられはしない。
自殺者のなかにその人々が含まれているだろうが、それ以外にもいるだろう。
そういう生活苦の人々を助けるセイフティネットは、実はこの国にはない。
もともとその代わりに終身雇用という制度があった。

今はそれも崩れた。

人は生活する金がなくなれば死んでいく。
それがわれわれの作り出した資本主義の制度だ。

人口の問題もあろう。
制度の臨界点の問題もあろう。

しかし、それとは無関係に、人は食い物が得られなければ死んでいく。

明日はわが身とはよく言ったもので、わたしも今年一年くらいかなと、確定申告の書類を作成しながら思っている。

このところ冷たい外に冷たい雨がぽつぽつと途切れることなく降っている。
体を温める術のない人間にとって、それは酷薄に映るだろう。

同じ眺めを情緒をもって見る人もいれば生き死にを思いながら見る人もいる。

春はもう少し先になりそうだ。

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2009年2月24日火曜日

文楽と先崎学

最近見た夢で愉快だったのは、先崎学(人気将棋棋士)と一緒に歩いていると、先代の文楽と出会い黒門町のご自宅におよばれしたというのがあった。

そのときに、
「これは珍しいせんべいでげすよ」
とせんべいを勧められて食べたが、この味をあまりはっきりと思い出せない。

師匠のおうちからの帰るさ、そのせんべい屋を尋ねるとじつに貧弱な長屋の一軒でしかなかった。
確かに表に「せんべい」という文字は見えるのだが、こういうところにああいうせんべいを作る店があったのかと自分を揺るがせるような感覚を持ったのを覚えている。

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ニュースキャスターあるいはコメンテーター

ときにニュースキャスターを、ときにコメンテーターを責めるのは彼らが善人面をしながらその裏で舌を出してわれわれを笑っているからではない。
彼らがほんとうに自分を善人だと思っているからだ。

ものを考えるということの基本は、ご存知のように自分の中に問題を見つけることで誰かの論評に論評を重ねることではない。(賛成でも反対でも)
とにもかくにも身のうちにある何ものかを自分に引き寄せ、その引き寄せた問題と戯れることが考える基本である、辛いこともあるけれど。
そのようなことをし続けていかなければ、所詮しがない豆腐頭となる。
その豆腐頭でどのように難解な議論を語ったところで、それは空ろな聞くに堪えないものだ。(聞く側によほどの能力がない限りは)

人は最後の最後は自分で自分を保つところにいられればそれで十分だろう。
わたし個人の極私的な見解なんだけどね。

で、あのテレビにお映りの方々はそういう訓練をどうやらなさっていないようだ。(概ねは)
というわけで、わけもなく自分がいい人だと思ってしまう。

そこが問題だとわたしは語っている。

悪人なら悪人らしく振舞ってくれ。

善人面などしてほしくもない。

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平和とは


平和とは戦争の対極を言うのではなく戦争と戦争の間を言うと語ったりもする。
だとすれば日本は長い平和を保っている。

「戦場のピアニスト」を見た。
まさに戦争に翻弄されるポーランド、ユダヤ人たち、そのなかの一家族、とりわけ一人のピアニストを描いた映画だが、随所にポランスキーの映像が映し出される。(映画だからね)
戦争の理不尽さは十分そこに見られるし、そのなかで人がどう動くかも象徴的に描いてみせる。

まあ、それはいい。
どうしていいかというと社会というのは戦争という装置を通さなくても十分にわれわれに対して非道だからだ。(今でさえも)
その非道さから逃げるためにはカポーとなるにかぎる。
カポーという制度は統治するにすぐれた方法だ。

あなたも身の回りにかポーを知っているはずだ。
それは必然的に社会が生み出すものだから。

最近、2008年の自殺者数が発表された。
自殺者はさらに増え続けており3万人を余裕で越えた。
10年以上もこの数の自殺者を出すこの国は戦争状態と大きく変わるものなのだろうか。
自殺者の多くは社会が抹殺したものと考えていい。

日本の二十代、三十代の死因の第一位は自殺だという。
異常なことだろう。
個別にはいろいろな理由があるが、大きくいえば社会が抹殺したのだ。
そのことは深く検討に値する。

この国が平和だというのならば、それは緩やかな戦争と言い換えてもいいのではないか。

われわれは実はとんでもないところで生きていると考えてみよう。
悲惨な現状をコーティングするのはやめてしまえ。

絶望的であるのはいい。
しかし、絶望的である状態にありながら絶望的であることを知らないのは哀しい。
出所がないではないか。

今やこの国は何ものかが猖獗を極めている。
それが見えないことが最も恐ろしい。

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2009年2月23日月曜日

かつて京都で偶然に生前の大西良慶師に出くわしたとき、そばにいた我が悪友は、

「お主もまだ若いのう」

と大西師にのたまい、ひと騒動おこしたが、その男ととある日に能でも見に行こうと出かけたとき、その男、能の最中に

「ちゃっちゃっと歩かんかい!」

と怒鳴り、さすがにこのときは能楽堂の外に連れ出された。

昨夜、例のごとく見るとはなしにテレビで白洲正子を偲ぶ番組を流していると、その最中に「能」とはその動きを男の力で閉じ込めあのような緩やかな動きとなすもので…、という白洲の解説を聞き、初めて能のありようの一端が知れ、はたとひざを叩いた。

なんにしても芸とは深いもので軽々にやじったりしてはいかんわなあ。
我が友よ。

もちろん彼との付き合いはいまだに続いている。

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知人からのメール

秋田に帰っていた友人からメールが届いた、
そこには横手の金喜書店のことやそこに置かれてあった「たいまつ」の、むのたけじさん、のサイン本のことや今でもむのさんが自転車でその店を訪れることが書いてありました。

むのさんは今年93歳。
老いるなかでどう生きていらっしゃるのか、一度お会いしたく思います。

世の中には自ずから頭を垂れずにはいられないような人がいる。

むのさんの自転車を乗る姿を一度でいいから拝見したいものです。

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2009年2月22日日曜日

自分で自分を保つ

わたしがとかくにテレビ批判を行うということの裏返しはテレビをよく見ているということだ。

見ていなければ、そもそも批判は成り立たない。(知らないのだものね。知らないものに対する批判は中傷に過ぎない。されたことあるでしょう…、たいていはこれなんだ。だから困るんだが、まあそれもそれとしようか)

というわけで昨日だったか王貞治が出演する番組を見た。
そのときはっきりとわかった。

ああ、このひとは自分で自分を保っているのだと。


自分で自分を保つためには、まず社会に屈せず、食っていくあり方をもっていなければならない。
だから、社会とはある程度距離を置いて生活できるようになるまでは社会に屈した振りをすることだ。

次に自分で生きていけるようになったとき、自分を保つことがやっかいだ。
ときとしてまわりがちやほやし、利用しようとするからだ。
おそらくその代表がいまの長島だと思う。
もちろん彼に非はない、彼が自分を鍛えてこなかっただけのことだ。
だから、自分で自分を保てない。
見る人が見れば一目で見破られるが、見る人はそれほど多くはないし、見る人は見破っても別にどうしようとも思わない。(別に悪いことではないのだからね)

要は、自分で自分を保つかどうかは自分の問題なんだ。(好きにすればいいってこと)

その王貞治がインタビューのなかで引退したばかりの清原に対してコメントした。
あのコメントは恐ろしかった。

もし彼が巨人軍に入っていたならば、そして彼とわたしが一緒になって彼のバッティングを磨いたならば彼はわたしのホームラン記録を抜いたかもしれない。
もしかしたら1000本の大台に乗せたかもしれない。

そういうことをやさしく話した。
彼が巨人に入れなかったのには王氏も少しはからんでいただろうしね…

しかしながら痛烈なる批判だ。
清原に届くことはないだろうし、届いたところで彼は賞賛と感じるくらいだろう。
清原は無邪気だからね。

あえて付け加えれば、もちろん、当然のことながら清原もまた自分で自分を保っている人ではない。

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獣の奏者


作品には単に楽しむだけのものがあると書いたが、書き手は単に楽しまそうと書くだけでもたくらみを持つ。
たくらみがなければ、核がなければ、面白みも出てこないからね。

で、こういうことが生じる。

書き手が作品を作る。
ここにおいて作品は完成する。
しかし、作品の評価はここには存在しない。
次に待っている読み手がその評価を下す。

つまり、作品を中心に作品には二つの関係がある。
書き手と作品、作品と読み手。

というわけだから最終的に作品は読者の読む能力にゆだねられる。
ジェットコースターだとわたしが述べた作品をそれ以上のものとして読む読者がいても何の不思議もない。
作者がわたしの読み取れなかったものを作品に埋め込んでいる可能性があるし、知らず知らずに作品が何ものかをはらむ可能性もある。

ジェットコースターという比喩があまりに単純なものと読み取られた方もおられただろうからここに書き加えています。

作品は一人歩きするというのはそういう意味で、あなたの読む作品はあるだろうがそれはその作品自体ではないということです。

それでもわたしはエンターテイメントを目指す作品があることを知っているし、それをエンターテイメントと呼ぼうと思う。
もちろんそのなかに深いものが隠されていることもある。

それが「初秋」だという人もあれば「長いお別れ」だという人もいるだろう。
あるいはパトリシア・ハイスミスの諸作品だと言う人もいるだろう。

それが読み手のあなたに任された深い愉悦だ。

でもね、ほんとうにジェットコースターでしかない作品もあるのは、ほんとうのことだよ。

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将棋の将来

NHKの将棋を見ていたら森内に渡辺明が負けた。
渡辺明は不思議な棋士だなあと思う。
竜王戦以外に弱すぎるのだ。

まあ、それはさておき将棋界の主たる収入は新聞社との契約金である。
その紙媒体の王者たる新聞社が危ないと言われ続けている。
すぐにどうのこうのということはないだろうが、新聞社の弱体化を将棋界も考えねばなるまい。

文化の基本は遊びの精神だし、言ってしまえば無駄なのだからこれからの将来は難しい。
難しい、難しいながらも文化をなくした国にあまり楽しみはない。

憂いを感じる。

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2009年2月21日土曜日

ほんとうの事

昨日載せた村上春樹氏の発言のなかで「ほんとうの事」という言葉が出てきますが、「ほんとうの事」の見極めはとても難しいでしょうし、そもそもそれが実際にあるかどうかも疑問です。

ただ、「そうあってほしい事」はあるでしょう。

その「そうあってほしい事」を書くのがハイ・ファンタジーだとすれば「獣の奏者」は近年の日本の誇る作品のように思います。
ハリー・ポッターはただ面白いだけのエブリデイ・マジックで、いわばジェットコースター。
読み終わったあとには、ああ面白かったという読後感しか残りません。

もちろんそういう読み物や映画があル事にも十分意義はあると思っていますが、その差異は押さえておきたいものです。

創作によって為される上手な嘘は、ほんとうのように見えます。
小説家はほんとうの事に新しい地位を与え、新たな光をあてるのです。
ほんとうの事はその元の状態のままで把握するのは殆ど不可能ですし、正確に描写する事も困難です。
ですので、私たち小説家はほんとうの事を隠れ家からおびき出して尻尾をとらえようとするのです。
ほんとうの事を創作の場所まで運び、創作のかたちへと置き換えるのです。
で、とりかかるためにまずは、私たちの中にあるほんとうの事がどこにあるのか明らかにする必要があります。
これが上手に嘘をつくための重要な条件です。

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2009年2月20日金曜日

強い人弱い人

強い人と弱い人がいるだろうと少し前のブログに書いた。
今のところわたしはその区別を以下のように考えている。

強い人とは自分自身で自分の習慣を作り上げそれを守り通す。
そのことが自分を強くしていく。

弱い人とは習慣がないか、もしくは習慣を誰かに与えてもらって(誰かはシステムと言い換えてもよいのだけれど)その習慣に従順であることによりさらに自分が弱くなっていく。

たとえばハンナ・アレントは、終生にわたって朝の過ごし方を非常に重視し、ゆっくり起床した後に何杯ものコーヒーを飲むことにしていた。
その習慣を貫くために、学生時代は朝の八時からのギリシア語の授業に出席することを拒否し、学校当局とひと悶着起こした。
交渉の結果、特別の難しい試験を受けることを条件に、独学での勉強を許可されたという。

過激な例を導入すればわたしが語っているのはそういうことだ。

「習慣」は恐ろしく重要な作用をあなたに与えている。

というわけで、朝のロードワークを欠かさないあなたをわたしは愛しているのだ。

ラベル:

あなたは何を案じているのか?

たとえばテレビのニュース番組を見るとする。(ニュースといってもバラエティ半分なのだが)
このごろは中川昭一話題が多かったが、ひところは派遣労働者切り、ワーキングプア、ネットカフェ難民などを話題にしていた。
彼らの視点がかようにころころ変わるのは、視聴率しか気にしていないからである。

いっときあれほど北朝鮮拉致問題を扱ったのも視聴率が稼げるからだし、小泉を映し続けたのも小泉純一郎を映すと視聴率が稼げるからだ。

その伝で行けば、日々の暮らしに苦労する人々を映しその直後に銀座の安いランチ特集をするのも何の矛盾もない。
ともに視聴率が稼げるからだ。

言っておくが彼らキャスターの誰一人として、今貧困に直面する人を心配はしていない。
心配しているのは視聴率だけだ。
したがって視聴率度返しでものを言うコメンテーターはテレビには登場しない。

それは有名キャスターの年収が一億近く、あるいはそれ以上あるのだが、だれひとりその一部でも貧困層に渡そうとはしないし、ともに戦おうとはしないことでもあきらかだ。
つまりは視聴率につながるから利用しただけのことだ。

彼らの案じているのはわが身のことだけであり、わが身の富裕だ。
もちろんそれは人として当然に起こる気持ちなのだが、人はもう少し胸を張り気高くも生きれる者だったのではないか?

腹の膨れたライオンはそばをシマウマが通っても見向きもしない。

あなたたちのおなかはいくら食べてもいっぱいにならず、弱者を食い物にしていくのですね。
まさにそれがシステムに組み込まれた人々の姿なのだろう。

飢えた人々たちがあふれるなか、グルメ番組くらいはその意志でやめたらどうだろう。
ささやかな願いなのだが…そういうことをたまに思ったりしています。

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腐肉

しばらく家を留守にして放蕩していました。
帰って、冷蔵庫を開いてみると豚肉が腐臭を放っていました。
こいつはもったいないことをしたと庭に放り投げておくと、次の日の夕方ごろそちらに目をやるとすでにないではないですか。

腐肉を好む動物がいるということですね。

腐肉自体を問題にしてもねえ…

村上春樹氏の行動に対してあるいは講演に対してあっちこっちのブログでうるさい限りです。
村上氏がなにを言おうとしたかは彼の講演録を読めば明らかなのだから、それにケチをつけたいなら彼自身に手紙でも送ればいいようなものを。

わたしは村上氏と関係なくケンケンガクガクしているひとたちより庭先からそっと腐肉を持ち去った獣か鳥類かわからないが、そっちのほうの側が好きだな。

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常に卵の側に

何かを語るときには十二分にその対象に対する情報を持っていなければならない。
わたしは早急すぎたようだ。

村上氏の「常に卵の側に」の講演での壁と卵は、単に戦いのことを語っていなかった。
よって先日のわたしの発言は間違いではないが、村上氏の講演に対する評としては間の抜けたものになってしまいました。

以下に村上氏の講演の日本語訳を掲載し、お詫びと訂正をさせていただきます。




今日私はエルサレムに小説家、つまりプロの嘘つき(spinner of lies)としてやってきました。


もちろん、小説家だけが嘘をつく訳ではありません。すでに周知のように政治家も嘘をつきます。外交官や軍人は時と場合によって独自の嘘を口にします。車のセールスマンや肉屋、建築屋さんもそうですね。小説家とその他の人たちとの違いですけど、小説家は嘘をついても不道徳だと咎められることはありません。実際、大きい嘘ほど良いものとされます。巧みな嘘は皆さんや評論家たちに賞賛されるというわけです。

どうしてこんな事がまかり通っているかって?

答えを述べさせていただきます。すなわちこういうことです。創作によって為される上手な嘘は、ほんとうのように見えます。小説家はほんとうの事に新しい地位を与え、新たな光をあてるのです。ほんとうの事はその元の状態のままで把握するのは殆ど不可能ですし、正確に描写する事も困難です。ですので、私たち小説家はほんとうの事を隠れ家からおびき出して尻尾をとらえようとするのです。ほんとうの事を創作の場所まで運び、創作のかたちへと置き換えるのです。で、とりかかるためにまずは、私たちの中にあるほんとうの事がどこにあるのか明らかにする必要があります。これが上手に嘘をつくための重要な条件です。

しかし今日は、嘘をつくつもりはありません。なるだけ正直でいようと思います。1年のうちに嘘をつかないのは数日しかありませんが、今日がその1日なのです。

そういうわけで、ほんとうの事を話していいでしょう。結構な数の人々がエルサレム賞受賞のためにここに来るのを止めるようアドバイスをくれました。もし行くなら、著作の不買運動を起こすと警告する人までいました。

もちろんこれには理由があります。ガザを怒りでみたした激しい戦いです。国連によると1000人以上の方たちが封鎖されたガザで命を落としました。その多くは非武装の市民であり子供でありお年寄りであります。

受賞の報せから何回自問した事でしょうか。こんな時にイスラエルを訪問し、文学賞を受け取る事が適切なのかと、紛争当事者の一方につく印象を与えるのではないかと、圧倒的な軍事力を解き放つ事を選んだ国の政策を是認する事になるのではと。もちろんそんな印象は与えたくありません。私はどんな戦争にも賛成しませんし、どんな国も支援しません。もちろん自分の本がボイコットされるのも見たくはないですが。

でも慎重に考えて、とうとう来る事にしました。あまりにも多くの人々から行かないようアドバイスされたのが理由のひとつです。たぶん他の小説家多数と同じように、私は言われたのときっちり反対の事をやる癖があります。「そこに行くな」「それをするな」などと誰かに言われたら、ましてや警告されたなら、「そこに行って」「それをする」のが私の癖です。そういうのが小説家としての根っこにあるのかもしれません。小説家は特殊な種族です。その目で見てない物、その手で触れていない物を純粋に信じる事ができないのです。

そういうわけでここにいます。ここに近寄らないよりは、来る事にしました。自分で見ないよりは見る事にしました。何も言わないよりは何か話す事にしました。

政治的メッセージを届けるためにここにいるわけではありません。正しい事、誤っている事の判断はもちろん、小説家の一番大切な任務のひとつです。

しかしながら、こうした判断をどのように他の人に届けるかを決めるのはそれぞれの書き手にまかされています。私自身は、超現実的なものになりがちですが、物語の形に移し替えるのを好みます。今日みなさんに直接的な政治メッセージをお届けするつもりがないのはこうした事情があるからです。

にもかかわらず、非常に個人的なメッセージをお届けするのをお許し下さい。これは私が創作にかかる時にいつも胸に留めている事です。メモ書きして壁に貼るようなことはしたことがありません。どちらかといえば、それは私の心の壁にくっきりと刻み込まれているのです。





「高く堅固な壁と卵があって、卵は壁にぶつかり割れる。そんな時に私は常に卵の側に立つ」





ええ、どんなに壁が正しくてどんなに卵がまちがっていても、私は卵の側に立ちます。何が正しく、何がまちがっているのかを決める必要がある人もいるのでしょうが、決めるのは時間か歴史ではないでしょうか。いかなる理由にせよ、壁の側に立って作品を書く小説家がいたとしたら、そんな仕事に何の価値があるのでしょう?

この暗喩の意味とは?ある場合には、まったく単純で明快すぎます。爆撃機(bomber)と戦車とロケット弾と白リン弾は高い壁です。卵とは、押しつぶされ焼かれ撃たれる非武装の市民です。これが暗喩の意味するところのひとつです。

しかしながら、常にそうではありません。より深い意味をもたらします。こう考えて下さい。私たちはそれぞれ、多かれ少なかれ、卵です。私たちそれぞれが壊れやすい殻に包まれた唯一無二のかけがえのない存在(soul)です。私にとってほんとうの事であり、あなたにとってもほんとうの事です。そして私たちそれぞれが、多少の違いはあれど、高く固い壁に直面しています。壁には名前があります。それはシステム(The System)です。システムはもともと、私たちを護るべきものですが、ときにはそれ自身がいのちを帯びて、私たちを殺したり殺し合うようしむけます。冷たく、効率的に、システマティックに。

私が小説を書く理由はひとつだけです。個人的存在の尊厳をおもてに引き上げ、光をあてる事です。物語の目的とは、私たちの存在がシステムの網に絡みとられ貶められるのを防ぐために、警報を鳴らしながらシステムに向けられた光を保ち続ける事です。私は完全に信じています。つまり個人それぞれの存在である唯一無二なるものを明らかにし続ける事が小説家の仕事だとかたく信じています。それは物語を書く事、生と死の物語であったり愛の物語であったり悲しみや恐怖や大笑いをもたらす物語を書く事によってなされます。生と死の物語や愛の物語、人々が声を上げて泣き、恐怖に身震いし、体全体で笑うような物語を書く事によってなされます。だから日々私たち小説家は、徹頭徹尾真剣に、創作をでっちあげ続けるのです。

昨年私の父は90才でなくなりました。彼は元教師でたまにお坊さんとして働いていました。彼は大学院にいた時、徴兵され中国に送られました。戦後生まれの子供として、父が朝食前に長く深い祈りを仏壇の前で捧げていたのを目にしましたものです。ある時、私がどうしてお祈りをするのかたずねたところ戦争で死んだ人々のために祈っていると答えてくれました。

味方と敵、両方の死んだ人たちすべてに祈りを捧げていると父はいいました。仏壇の前で正座する彼の背中をながめると、父にまとわりつく死の影が感じられるような気がしました。

父は亡くなり彼の記憶も共に消え、それを私が知る事はありません。しかし父に潜んでいた死の存在感は今も私の記憶に残っています。それは父から引き出せた数少ない事のひとつであり、もっとも大切な事のひとつであります。

今日みなさんにお知らせしたかった事はただひとつだけです。私たちは誰もが人間であり、国籍・人種・宗教を超えた個人です。私たちはシステムと呼ばれる堅固な壁の前にいる壊れやすい卵です。どうみても勝算はなさそうです。壁は高く、強く、あまりにも冷たい。もし勝ち目があるのなら、自分自身と他者の生が唯一無二であり、かけがえのないものであることを信じ、存在をつなぎ合わせる事によって得られた暖かみによってもたらされなければなりません。

ちょっと考えてみて下さい。私たちはそれぞれ、実体ある生きる存在です。システムにはそんなものはありません。システムが私たちを食い物にするのを許してはいけません。システムがひとり歩きするのを許してはいけません。システムが私たちを作ったのではないです。私たちがシステムを作ったのです。

私が言いたいのは以上です。

エルサレム賞をいただき、感謝しています。世界の多くの地域で私の本が読まれた事にも感謝しています。今日みなさんにお話できる機会を頂いて、うれしく思います。

ラベル:

柳家小三治

そういえば、明日から柳家小三治のドキュメンタリーの上映ですね。

http://www.platinumserai.jp/i000000/i870000/00374.html

気になる人は上のサイトをのぞいてね。
落語好きならまず間違いないし、そうでなくてもいい作品のような気がします。
わたしも金の都合がついたら行ってみようと思っています。

寒いときは懐も寒いですからね。

ラベル:

身が動かない

確定申告もあれば、郵便局でのひとつの作業もある。
長らく想を練っている作品もあるのに、身が動かない。

ときどきそういう自分の状態を眺め呆然とすることがある。
しかしながら意を決して一歩一歩這いずるしかあるまい。

みっともないな、生きていくのは。

いまだにニュースで取り上げる中川氏の酔っ払い問題。
あんなもんなんだよ人というのは、わたしはそう思う。
ただそれを隠して毅然とするのが政治家だからそれが出来なかったというのは問題で、そこだけが恥ずかしいかもしれない。

かのブッシュがかつてアル中だったのはよく知られたこと。

日常に習慣をつけること、身動きに癖をつけること、それが生き残る道なのかもしれない。
であれば毎日働きに行っていた人間から仕事を取り上げたもっとも大きな影響は彼の日常習慣を取り上げたことかもしれない。

行く場所のなくなった人間が行こうとする先はそれほど多くはないのだから。

ラベル:

2009年2月19日木曜日

あなたにとってのこの世とは

あなたにとってのこの世とは、あなたにとってのこの世のことで他の誰のものでもない。
だから中川氏が酔っ払おうが小泉が騒ごうがそんなこととは関係なしに生きていける。
ただ、お金の算段だけはしておかなければ飢えてしまうところが厄介だ。(本当に)

数学の整数論に「友愛数」とか「完全数」という言葉があるが、そういう数字たちのなかに生きる人々がある。
確かこの手の人物を主人公に据えた小説が数年前にあったが、あれは人の生きる自由度を書いている。
あらゆるものに無知であっても、人は自分の愛するものだけを持っていれば生きていけるという淡いメッセージであった。

それが、はではでしい芸能界という形も取ればスポーツ界という形も取ることがある。
しかし、あなたの愛するものがもっと密やかにあなたに寄り添うこともある。

それでいい。
それで生きていける、そうわたしは思っているが、問題はどこから金を調達してくるかだ。
一度の犯罪で巨万の富を得、静かに暮らすことは可能だ。
その場所が、刑務所の中かカリブ海に浮かぶ小さな島かの差だけだ。

すべてのひとがこの恐慌に巻き込まれる必要はなく静かに生きることも出来ると、今わたしは言っている。

もし、そのためにあなたが犯罪を犯したとしても、わたしはさほど怒りはしない。
犯罪を犯すことさえ個人の自由にゆだねられている。

ただ、わたしの趣味で言えば、その犯罪が他者の自由を奪うものだとしたらそれはやめてもらいたい。
それは法の埒外にあってあなたを律するものだからだ。

生きにくい世の中だけれども、何とか考えてみましょう、お互いで。

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デッドライン


「デッドライン」といえば2004年作のタイ映画であるが、もちろんここにも壁と卵が登場してくる。
昨日の話をしているのだが、この映画にも二つの側に正義がありそれぞれがその正義を全うする。
もちろん卵の側が敗れ去るのだが、この敗れ去った卵の側を人間的に弱いとも言い切れないだろうし、正義ではなかったとも言い切れない。(ただ武力的に弱かったに過ぎない。そしてそれこそが悲劇なのだ。)

ことほどさように、この世界は複雑に出来ている。(まあ見切ってしまえば、いろいろな力を持つ奴らの側が好き勝手やっているだけの世界なのだが)

とにかく「本態的弱さ」とは別のところに政治的な問題はある。

違う問題は違う場所で語らねば、何もかもがぐちゃぐちゃになってしまう。
それにもともと人の「本態的弱さ」を語るのには少々の苦労がいる。

ただ言葉だけを知っていてもその本質に近づくのは無理なのだ。
(どうしてそんなことをお前が断言できると聞かれるならば、答はいたって簡単で、わたしがその「本態的弱さ」の象徴的な具現者だからだ)  

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2009年2月18日水曜日

エルサレム賞


村上春樹がエルサレム賞をまさにエルサレム市で受賞した。
このことは一部で話題になっていて、そのスピーチも評判だ。

ある人はそのスピーチを引いて、以下のようにまとめる。


そして、たいへん印象的な「壁と卵」の比喩に続く。

Between a high solid wall and a small egg that breaks against it, I will always stand on the side of the egg. Yes, no matter how right the wall may be, how wrong the egg, I will be standing with that egg.
「高く堅牢な壁とそれにぶつかって砕ける卵の間で、私はどんな場合でも卵の側につきます。そうです。壁がどれほど正しくても、卵がどれほど間違っていても、私は卵の味方です。」

このスピーチが興味深いのは「私は弱いものの味方である。なぜなら弱いものは正しいからだ」と言っていないことである。
たとえ間違っていても私は弱いものの側につく、村上春樹はそう言う。


こういう言葉は左翼的な「政治的正しさ」にしがみつく人間の口からは決して出てくることがない。
彼らは必ず「弱いものは正しい」と言う。
しかし、弱いものがつねに正しいわけではない。
経験的に言って、人間はしばしば弱く、かつ間違っている。
そして、間違っているがゆえに弱く、弱いせいでさらに間違いを犯すという出口のないループのうちに絡め取られている。
それが「本態的に弱い」ということである。
村上春樹が語っているのは、「正しさ」についてではなく、人間を蝕む「本態的な弱さ」についてである。
それは政治学の用語や哲学の用語では語ることができない。
「物語」だけが、それをかろうじて語ることができる。
弱さは文学だけが扱うことのできる特権的な主題である。
そして、村上春樹は間違いなく人間の「本態的な弱さ」を、あらゆる作品で、執拗なまでに書き続けてきた作家である。
『風の歌を聴け』にその最初の印象的なフレーズはすでに書き込まれている。

物語の中で、「僕」は「鼠」にこう告げる。
「強い人間なんてどこにも居やしない。強い振りのできる人間が居るだけさ」
あらゆる人間は弱いのだ、と「僕」は“一般論”として言う。
「鼠」はその言葉に深く傷つく。
それは「鼠」は、「一般的な弱さ」とは異質な、酸のように人間を腐らせてゆく、残酷で無慈悲な弱さについて「僕」よりは多少多くを知っていたからである。

「ひとつ質問していいか?」
 僕は肯いた。
「あんたは本当にそう信じてる?」
「ああ。」
 鼠はしばらく黙りこんでビールグラスをじっと眺めていた。
「嘘だと言ってくれないか?」
 鼠は真剣にそう言った。
                  (『風の歌を聴け』)


なかなか粋な引用だが、気になる点がひとつある。
そしておそらくそのことはとても重要な見落としだ。

村上の壁と卵の比喩は人間一般に対する比喩ではなく、きわめて政治的なものである。
政治的なものである限りは、それぞれの側に正しさはつきまとう。
なぜなら政治的な正しさはそれぞれの視座によるからだ。

でなければイスラエルとパレスチナはあのような戦いをしない。
アメリカはオバマになったとはいえ無謀にアフガンに侵攻はしないだろう。

村上氏が語っているのは武力的な弱さとそのことによってもたらされる悲しみについてである。
そして多くの場合その弱さの背後には政治的な問題が横たわり片側の正義をいくらでも演じられる。

つまりここでは弱いものは強い側から見れば間違いなのだ。
しかしわたしはそのことをむやみに信用はしない。
卵を確かに見届ける。
そういう側の人間だと村上春樹はいっている。

正義は多様的なもので強いものにも弱いものにも自分の持つ正義に対する主張が存在する。
それゆえ最終的に武力的に弱いものが悲しみを見る。
わたしはその悲しみを見る側を忘れない、そう村上氏は言っているのだろう。

村上が言った壁と卵の感動的なポイントは偏見的に卵の味方だということで(かなり好意的に言っているのだが)政治的な弱さというものはそのまま武力的な弱さで、さらに書けば強いロビーストを持っていない弱さにすぎないと言っている。

繰り返すが、
わたしが言うのは政治的にはどちらにも必ず正義があり、そのことは間違いないということ。

それとは別に人間は弱いものだという物言いがあるが、それは感傷に過ぎない。

なぜなら強い人間もいるからだ。
たとえば、感受性の鈍い人間の多くは強い人間で生きやすい世の中に生きているはずだ。
そういう人間たちになにを話したらいいのかはあなたやわたしが決めればいいことで、村上春樹に期待しなくてもいい。

ときに村上氏も感傷的になったり気取ってみたりすることもあるだろうが、そのことを敷衍してまでほめなくてもいい。

繰り返すが、エルサレムの彼の演説の勘所は、政治的に弱い側の味方だというしっかりした発言で、政治的であるならば正しいという要素はいつも絡んでくる。
それを大きく人間一派のレベルまで広げ、褒め称えるのは、ちと、乱暴だということです。

ややこしかったならば、また何かでご連絡ください。

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誰かと食す


わたしが誰かと食事をともにするときはどうしてもアルコールに手がいってしまうのだが、これがよろしくない。
いったんアルコールに手が行くと止まらなくなってしまうようになった。
こういう症状の人はたまにいるが、それがわかっていて止められないというのは哀しいものだ。

恥も外聞も捨てて「シアナマイド」という以前紹介した「酒量抑制剤」を服用しようかと思っている。
もうひとつ似たようなのにノックビンという「抗酒癖剤」があるが、名前のごとくこいつのほうが強力で今のところ遠慮していただいている。

ところでアルコールというのはなかなか強力な効果を発するもので無碍に否定ばかりはしていられない。
多くの作家が常用するのも無理もない話しであると思う。
ただ、自己抑制が効かなくなるのが怖いのだ。

まあ、家で仕事をして家でただ飲んでいる分には社会的に問題はないのだが、外で飲むとなるとこれは、たがが外れれば地獄だ。
田村隆一があまり外に出なかったのもそのせいだろうと思う。

武田泰淳も家にこもったが、銀座で飲み続け街頭で大便をなさったことがある。(そういう逸話が伝わっている)
このとき見回りの警官に注意された泰淳先生、その大便を両手でおすくいになってさっきまで呑んでいたクラブに持ち帰ったというのだからすごいものだ。

まあ行き着くところまで行くものではない。

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7は9より強い

アメリカ英語だが、妙なセンスだと思う。

「7は9より強い」
何の意味かわからないので、聞いてみると、
「7、8、9」という。

つまり「7」ATE「9」というわけだ。

「7」は「9」を食べた。
だから7は9より強いとなる。

センスはどこに行っても違ってくる。
そのセンスについていくのもまたセンスだろう。

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2009年2月10日火曜日

美食への批判


わたしがときに美食に対して批判的になるのは、そこに金のにおいをかいでしまうからだ。
直接的だけではない、その周りに少しでも金のにおいがするといやになってしまう。

もともと食は金をかけようがかけまいが一つの世界を創出するものであった。

そうでなければあれほど料理人が心を込めるはずがないではないか。
その食を支える素材作りにあれほど熱心に農家の人たちや漁師たちがひたむきになりはしないではないか。

その食にわずかでも彼らが作り出そうとする世界を感じ取れるならそれはとてもすばらしい時間であり空間だろう。
そういう食をわたしは一度もけなそうとは思ったことはない。

ただ金に換算してわかりもしない食に舌鼓を打つやから、そういう食に、つまりは金儲けに走る職人に嫌気がさすと書いているだけだ。

ふとある本を読んでいて書いておかなければならぬと思い立ちここに改めて食について記すことにした。
食の向こうに世界が垣間見えるような食事は、それはそれは美しく豊かなものだと思う。
ただ、それには時としてともに食べる人が必要となってくることがある。

ふ~む、なるほど、ここでも「人間関係」の尊さは顔を出すことになるのか。

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紙媒体の終焉

米、電子書籍が急成長 アマゾンが新端末
 【ニューヨーク=村山恵一】米国で電子書籍ビジネスが加速してきた。ネット小売り最大手のアマゾン・ドット・コムは9日、音声による朗読機能がある新端末を発表。カリフォルニア州に本拠を置くベンチャー企業も2010年の参入計画を打ち出した。販売不振が続く個人向け電子機器のなかで、電子書籍は数少ない急成長分野。新市場を巡る各社の主導権争いが本格化する。

 アマゾンの新端末「キンドル2」はジェフ・ベゾス最高経営責任者(CEO)がニューヨークで発表した。07年発売の初代機の後継。手のひらサイズの本体に無線通信で本や雑誌、新聞のデータを取り込んで読む。

 本体に保存できる本は1500冊分と従来の7倍以上。文字情報を音声に変換する機能は朗読スピードを調整できる。紙の印刷に近い鮮明な表示が可能な6インチの電子ペーパーを使った白黒表示はほぼ従来通りとした。 (15:49)


日本の新聞が猛烈な勢いで落ち込んでいるのはよく知られた事実だが、すべての紙媒体に波及し始めてきたようだ。
時代の変化が速い。
先を読むのは難しい。

これで製紙会社の不振は決定的だ。(もう株は下がりはじめているのだろうか)
新聞は売れない、雑誌も売れない、書籍もだめか。
書き手はどうだ。
インターネットがニュースを流すなら必要以上の記者は要るまい。

とにかく紙媒体の終焉は近い。

ああ、韻文は紙媒体として残るだろう。

情報を伝えるという意味合いの強い紙媒体から先になくなっていくのだろう。
まるで人の関係が薄れていくように。

確かなものは実態。
米や野菜や魚や肉のような。

わからぬことが増えすぎている。
勉強しなおしてまた書くことにします。

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生きていたい

昨夜NHKで「振り込め詐欺」の若者を特集していた。
その番組では大きく「人間関係」というポイントを押し出していなかったが、明らかに彼らは「人間関係」を求めていた。
その求める際の大きな武器が金であり、そのために犯罪をおかし、さらに暴走していく様子が描かれていた。

そうまでして人は「人間関係」を望む。
それが生きていくための最も基本的な条件だからだ。
その「人間関係」を作る相手については今は述べるまい。
とにかく誰かと関係を結んでさえいれば人は生きていける。
(複雑になるので言及しないが、それは人間でなくとも何とかなるケースはある。犬だとか猫だとか植物だとかビーズ細工だとか詩を書くことだとか…、おのれ以外のものとの親密な関係は「人間関係」に取って代わることが出来る)

孤独であることが何よりの病なのだ。
そしてここ東京では孤独が氾濫している。
嘘でもいい、誰かとつながっていたい。
それが彼らの切なる願いだし、その関係性はまやかしでもかまはないのだ。

だからその関係を作るために法を犯すというハードルはたまらなく低くいとも簡単に超えられる。
(法を犯すにもいろいろあるのだけどね。たぶん殺人同好会でも参加するかもしれない)
そのことの一端が夕べのドキュメンタリーには見えた。

仲間がいることに感謝したい。
家族を大事にする。
田舎を大事にする。

そういうことたちが消滅しようとしている。
その消滅は自分の消滅に通じ、もはや東京には人がいないようだ。

振り込め詐欺自体の底にまで「人間関係」への希求が流れていようとは。

世も末とは言うが、すでに世は終わっているのかもしれない。

逆に「人間関係」を断つことで人を死に追いやる可能性があるという想像力の働かない街に何の期待があるものか。
ときとしてそんなふうにも感じてしまう。

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2009年2月9日月曜日

振り込め詐欺

振り込め詐欺が儲かっているという。
行っている若者たちに罪意識はないという。
儲かっていいなと思っているという。

それはそうだろう。
彼らは自分たちの仲間以外を人間だと思っていない。
詩的に言えば彼らを風景だと思っているだろうし、端的に言えばカモ以上のものとは思っていない。
それは法的に規制されているが、この国のあり様は官公庁を見ていればそのめちゃくちゃさはわかるし、法で決められたら、「はいそうですか」とやめるような倫理観で出来上がっていない。

この国の舵取りはいまやダッチロールであり、つかまらなければいいという人間が大手を振って生きている。

捕まればまいったなあと思うだけである。

被害者はそれは惨めだ。
しかしそういう哀れな被害者を生み出す構造にこの国はなっている。
もはや悪い若者がいるという理由だけではすまなくなっているのだ。
そういうことを誰かが言い出さなければなるまい。

彼らのやり方の巧みさをいくら報道したところで事は簡単にはいかない。

儲かればいいじゃないか、そう思う人々が増え続けている。

振り込め詐欺は多様になり、「円天」詐欺はこけ被害者はほぼ泣き寝入りになる。
さらにカード詐欺もあれば「フクイボウ」の問題もある。
大阪のおばちゃんもいる。

カモがいれば詐欺は止まらない。

楽しい国になったものだ。
ねえ。

ラベル:

警官の血


小説の「警官の血」もいいものだったが、テレビドラマもよかった。
ちらりとしか見なかったが、4,5シーンは見た。
吉岡君の演じるシーンだった。

なんとも後味の悪さが残ったが、それでもよかった。
わずかな救いがばら撒かれていたからだろうか。

あれで十分だと思う。

念のためここに記させておいて下さい。

それにしても(これは内緒ごとだが)、エンターテイメントだけ読んでいてはイカンなと思うことがある。
最近ではカミュを読んだときにそう思った。

それは読者の楽しみはさておき、何かを語りかけるものだった。
そのときに自分の胸に開く風穴は薄っぺらな自分を教え、勇気付けてくれる。

まあ、そういうことがある、小僧だからね。

ラベル:

エンターテイメント

小説にしろ映画にしろ芝居にしろ、それらはすべて切り取られたものでこの世のすべてを描こうとはしていない。
そもそもあなたの目にしてもわたしの目にしても切り取られた世界しか見ることは出来ない。

もちろんわれわれの目はエンターテイメントが切り取った世界よりは広いものを見ている。
それにしてもだ。
エンターテイメントに酔うことはしばしばある。
そこに現実世界とわれわれの見る世界とエンターテイメントとの距離がある。

もちろん作品のなかにはエンターテイメント性だけを作り出そうとしているだけではないものがあるが、それは商業主義から外れるのでこの世に登場しづらい。
しづらいがいつもわれわれの身近で息づいている。

そういうわれわれにも見えない何かを描こうとする人もこの世にはいる。

エンターテイメントの心地よさは切り取られた心地よさだ。
それはそれでいい。
しかし、「切り取られた」という条件は忘れてはならない。
それが見る側の心意気だ。

いや、単に見て面白かったでもいいのだ。
わたしが、少し過度な要求をしているだけなのだ。

エンターテイメントのなかにも心地よくないものを切り取るケースがある。
それは「心地よくないもの(人生はそれほど愉快なものではない)」という意識のさせる技であるし、その結果、その作家は「心地よくないもの」に対する救いの手を差し伸べる。(エンターテイメントだからね)

わたしに言わせればそれがエンターテイメントのいい作品だ。(わたしが思うだけだから気にしないでもいいからね)

とにかくエンターテイメントは切り取られた世界を描くものであり、その切り取り方に商業性に向けての恣意性があるのならばその作品は志し低いものだとわたしは思っている。

切り取られた世界で心地よくさせていただいても、その作品世界から一歩外に出れば、何も変わっていないし、ただ作品に翻弄されたことを知るだけだからだ。
翻弄されたくて入ったのならばそれもよかろう。

しかし、そうではない作品にたまには触れてみたいではないか。

同じ思いを抱く同士に出会うように。

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人間関係

さてその日常の再構築だが、これは習慣をあえて自分に植えつける努力だけではなく、その日常に人間関係を築く必要があると思っていい。
その人間関係の構成要素は別に誰であってもよく、ただひとつの条件は、自分を必要としてくれるというポイントだけだ。

繰り返し述べているのは、実はどのような人間であってもこの世にそれほど必要とはされていない。
存在していなくてもいいということだ。
そこで親兄弟や友人や恋人やあるときは隣近所の人々の登場と相成る。
そういう人たちとの何気ないひと言たちが日常をひいては自分を支えてくれる。
まことにありがたいことだが、わたしはそのことに長く気づかずにいた。

おそらくそういうところにわれわれの基本はある。

だから、そういう人間関係を剥奪してしまえば人は割とたやすく壊れる。

そのこわれかたはアル中であったり、引きこもりであったり、うつ病であったり、はては自殺や無意味な殺人であったりするが、基本的に彼らが抱えているのは人間関係の欠如、古い言い方を使えばあらゆるものからの疎外である。

人生がもともと愉快なものではないのだから、どうにかしてそれを支えるのは当たり前で、その支えるものを取ればいともたやすく崩れ去る。
その崩れ去り方が、多種多様だから原因が見えなくなっているに過ぎない。

人間関係を取り戻させること。

これが人を生きていかせる基本であり、それをその人の外からがんばれなどといってもくその役にも立たない。
ともに手を取る努力を、大変だろうがその人に対してすること以外には人は人として立ち行かない。

それくらいこの世は愉快なものではなくなっている。

もしあなたが愉快だと思うのならばそれは化かされているのか、たまたま好条件のなかに生きているだけにすぎないのだから、不幸な、人間関係から放り出された人を特殊な馬鹿だと見るのはやめたほうがいい。

もともと人生は冷たく、人は寂しいものなのだ。
たまにはそう思って夜空を見あげれば、少しは星空も変わって見えるだろうに。

ラベル:

生きていても…

生きていても仕方がないと思うのはまんざらおかしな考えでもない。
逆に生きていて楽しいことはそれほどはあるまいというのが、当たり前の帰着だろうと思う。

楽しいと思うのはその人間があまり物事を深く考えず、日常の中にどっぷりと使っているからで、これこそが人が愉快に(その愉快さは決して大きなものではないが)生きる秘訣ではないかと、今しみじみ思う。

だからこその日常の再構築であり、日常、つまりはある種の習慣の積み重ねは人が生きるのを助けてくれる。

一方、ある人の言うように毎日を新しく迎えたいという願望は、一応のところは成立はするが、毎日に変化を与える工夫が施された日常を構築したいと読み替えることが出来ることで、日常と大きく相違うものではない。

本当に日常を離れれば、それに耐えうる人間はそうたんとはおるまい。
それくらいわたしは「日常」の確立が大切だと今しみじみ思っており、その逆側から言えば、人生など大きく楽しいものではなく、そういう人生であえて大きな楽しみを見つけたいのなら、そこには地味な努力の繰り返しが大きく要求されるのだろうと思っている。

薬物や酒に害があるのはこの点(楽して大きな楽しみにぶつかること)をもってであり、人生を破壊することを厭わなければ、そういうものたちにおぼれて死んでいくのもひとつのあり方だと思っている。
わたしは、肉体的に酒を受け続けることが出来ないので(正確には三、四日も呑めば体がぼろぼろになる)、その生き方は選べないし選ぶのは辛い。

それは直後に大きな鬱が襲うという別の理由にもよる。

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日常というもの

日常というものを築かない人間は気がつくとどこかで呑んだくれていて、あっという間に日時が経ってしまう。

このところ生活がそのようなくりかえしなのは、一重に習慣というものをもたぬためであり、このまま放っておけばどこへ行くかは知れたものではない。

ほとほと情けない次第で、ゆったりした気分になりようがない。

ただし、その場その場でわたしと過ごす連中は愉快でたまらないのだろうが、それは道楽息子の生き方と同じで、まともな人間のやることではない。
落ちぶれれば、そこら辺に捨て置かれるだけに違いない。

というわけで今回も長らくお休みしたこのブログについてお詫びしなければならないだろう。
それに付け加えて日常というものをもう一度しっかりと考え直すことを試みることを宣言しておくことにしたい。

ラベル:

2009年2月3日火曜日

テレビに見る世相

テレビの影響というか、納得のさせ方というのは緩やかな浸食のごときもので知らず知らずに自らを染めていってしまっている。
年末の派遣村というものに対する扱いも今では(実は当時からも)祭りのごときもので、なんらの当事者性も連中は感じてはいまい。

まあ、ネタになるからな、程度のものだろう。
であるから、テレビ画面に登場してくるコメンテーターも派遣村に駆けつけた政治家も痛みなどまるっきり感じてはいない。

いやいや、もともと「痛み」というもの自体が他者との共有を激しく否定するもので、どの道最終的にはおのれが背負わなければならないものなのだから、いまさらこのような憾みを軽佻浮薄なかれらにぶつけること自体無理があるのだろう。
書いている私自身にしたとて誰かの痛みを背負うことは困難で、その男の痛みと同じような痛みをたまたま自分が抱えている以外にはその方策(痛みを共有する方策)は皆無に近い。

ただ痛みを抱えているお前の痛みはわからぬが、お前がオレのそばからいなくなるときオレに痛みが走るというようなことをリアルに伝えられるかどうかだけだ。

というわけで、失業者が街にあふれ、セイフティネットは遅れ、ああ、これは末世だと思えるようなときでも(それはすでに現在進行形なのだが)テレビはのんびりと温泉へ行ったり、グルメをしたり、なんら意味のないクイズ番組を流しながら、そして最も恐ろしいのはその合間に大変な時代になっただとか、政府の対応が遅れているだとか嘆いて見せるのだ。
そうして嘆いている本人は実際自分が嘆いていると思ってしまっているが、ところがどっこいなんら嘆いていはしない。

もはや自分が今どのような状況か自分の位置さえつかめなくなっている。
そして、(じつはこちらのほうがもっと大きな恐怖なのだが)つかめないのにつかめた気になっているのだ。
だからこそ、高みからものが言える。

以前は自分の位置が見えていた人がいた。
そういう人を見て自分を磨くことが出来た。

今はテレビとまったく同じで、貧相な自分をさも立派であるかのごとく信じ込んでいる人々であふれている。

言っておくがテレビに出るコメンテーターでまともに考えている者などほとんどいない。
たまたま無自覚にいいことを言う場合があるだけだ。

そういえば、つい最近、テレビで辺見庸の長いドキュメンタリーを見た。

辺見さんなど恐ろしくてテレビ局はコメンテーターには使えまい。

それが、今に氾濫するテレビの実相だ。

見ることは勝手だが、その程度であると知っておく必要はある。
だから、見る必要はあまりないし、見れば操作しようとしている世論の流れに足を引っ張られる。
引っ張られれば動く。

お互い自分の思っているほど強くないというわけだ。

ご自愛のほどを。

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ゴールデンスランバー


わたしは音楽に疎いものだから「ゴールデンスランバー」がビートルズの曲だとは知らなかった。
「ノルウェイの森」のときもそうだったし、他にも知らずに通り過ぎたものは多いのだろう。

伊坂幸太郎作のこの本は昨年大きな評判を読んだもので既読の方も多くおられるだろう。
得体の知れないわれわれを取り巻くものの存在をカリカチュア化しながらエンターテイメントに仕上げてある。
いい作品だと思う。
われわれの周りを取り巻く、知らず知らずになされている多くのことの情報も与えてくれているし、それぞれのキャラもしっかりと書き込まれている。

しかし、何よりもこの作品が誇っていいのは「吹き寄せ」という技法の完成度である。
「吹き寄せ」とは、色々な色に染まった木の葉が、風で吹き寄せられた様から名づけられた、日本料理の手法のひとつだが、小説におけるそれは、話のなかにあちこちで語られたエピソードや挿話が物語の終わり近くにあっと驚かせるべく姿で集まり立ち現れてくる技法を言う。(まあわたしの個人見解だけどね)

その「吹き寄せ」の見事さがこの小説にはある。
それが、この小説でわれわれの生きている世界の非道さを執拗に描きながらもある種のカタルシスを生み出している秘密だ。

まあいい。

細かい議論はともかく、エンターテイメント小説における「吹き寄せ」という技術を見たければこの本は最良のテキストといってもよいかもしれない。

わたしはそう思っている。

ラベル:

法と道徳

道徳というコトバの使い方は難しい。
ここでは、その時代の持つ見識とでも考えてほしい。
その時代とはその時代に生きる意識ある人々のことである。

したがって道徳は時代によって変化する。
今の時代のそれはあまり良質なものだとわたしは考えていない。
したがって、法を頼りにする部分がわたしの中に幾分かある。

そうではない時代もあった。
そういう時代は道徳を抑えるために法を作ったりした。(治安維持法などはその際たるものだろうし、女性の選挙権をめぐる戦いをみても法のあり方の歪さは見える)

法と道徳はどちらがどうという優位性は持っていない。
ただ、その差異には十分注意を払うべきだろうというのが昨日のわたしのブログの主意である。

老婆心ながらここにこの一文を書き添えさせてほしい。

ラベル:

2009年2月2日月曜日

大麻汚染

大麻が道徳的に悪いということになっている。
法律もその裏づけをする。
そういう状況だから大手を振ってぎゃあぎゃあ大麻にかかわった人間たちを攻撃しているが、法律がこれを容認すれば問題はなくなる。

道徳と法は同じように思われているが、まったく違うもので道徳的に糾弾することへの歯止めとして法は存在している。
それは「非国民!」とののしったあの時代を思い出してみればい。
道徳とはどのように形成されるかの議論はおいておくとしてもヒステリックになりやすいものであることは知っておいたほうがいい。
その怖さから法というものは出来ている。

大麻がまずいのは基本的には法が容認していないからであって、それ以外の理由は二次的なものである。
法を破る行為はまずいというのが市民社会のコンセンサスで、法を破らなければいいだろうという考えもこのコンセンサスから出てきており、それに対する批判が(たとえばホリエモンなどに対する)ヒステリックな道徳的批判になるのは、法と道徳の差異が際立って興味深い。

今回の大麻事件は法的に極めてまずいが、ヒステリックな道徳的批判は聞いていて忍びないほど軽佻浮薄だ。
昨今よく書くテレビ文化はその状況をよくあらわしている。

ラベル:

2009年2月1日日曜日

ソードフィッシュ


わたしはハル・ベリーのディープファンだからこの「ソードフィッシュ」という映画に関しては彼女が出演しているだけでいい。

かなり精神の調子が戻っているからこういう軽口も書ける。
娯楽ものとしてはおそらく一級品のものだろう。
2001年の作品で「チョコレート」の直前作品となる。

彼女の生々しい扇情的な感じはこの映画にもある。
深みの必要である演技ではないが、自然深みも演技に感じられる。
最近の彼女はオッパイが異常に大きく感じるが、このころの体はきわめて禁欲的にしてセクシーだ。

いやはや、彼女が出ていると文句が言えないところが我ながら間抜けである。

とにかく久しぶりにゆっくりとエンターテイメント映画を見ました。
こういう映画を文句を言わずに見られるというのはじつにいいもので、調子がいいのだと思う。

もし見ていなければ見てみるといい。
コンシネマとしては「バンディッツ」のほうが上かもしれないけどさ

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テレビを見ること

わたしの信頼する知人のほとんどはテレビを見ない。
その理由は簡単で、見るに値しないからだ。

それと比較すればわたしは一ヶ月のうち何日か寝たきりになるものだからテレビに頼ることが多い。
テレビで気を紛らしていないと自分の思いの中に気持ちが引っ張られていくからそれを避けたいのだ。
もちろんテレビだけでなくラジオも聞くし落語も聞く。
が、今はテレビに限定しよう。

そうやってテレビで気を紛らす作業はきわめて効果的だ。
それはテレビに映されるものが十分にくだらなく、なんらの刺激もわたしに与えないからだ。
与えないから気の紛らしになる。
おそらく多くの人がそのようにテレビの映像を流しているのではないだろうか。

この番組はというのにあたるのは一日に一本あるかないかだ。
それだから病人にはちょうどいい。
それが健康体の人間だとしたらテレビを見ずにもう少しましなことをすればよかろうと思う。
テレビの番組にいくら期待してもまずはなにも出てこない。

これは一見テレビ批判に読めるかもしれないがそうではない。
テレビ番組は今やそのように作られているのだ。
何も主張せず、ただくだらぬ映像を何も考えない頭に流し込むように。
でなければお馬鹿キャラなど成立するはずもなかろう。

そういうなかで「疑惑」という松本清張ドラマは見るかいがあった。
沢口靖子・田村正和が主演したあのドラマだ。
このレベルのものがあれば、今のテレビでは十分だ。
沢口はいい役者になるかもしれない。

この「疑惑」は昔、確か映画で桃井かおりと岩下志麻でやっていたはずだ。
言っておくがあの映画と比べてはいけない。
今のテレビはそれほどまでに地盤沈下しているのだ。

今のテレビでは「疑惑」はいいドラマだと思った。

そういえば向田邦子も山田太一も倉本創もこの世とあの世の違いはあるがいまのテレビを嘆いているだろう。
しかし、その嘆きはもはやノスタルジアだ。

テレビを抱え込む社会的なコンテクストがすでに十分に変容してしまったのだ。
その変容を無視して嘆いても仕方あるまい。

ただ指摘すればいいに過ぎない。

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