2009年2月18日水曜日

エルサレム賞


村上春樹がエルサレム賞をまさにエルサレム市で受賞した。
このことは一部で話題になっていて、そのスピーチも評判だ。

ある人はそのスピーチを引いて、以下のようにまとめる。


そして、たいへん印象的な「壁と卵」の比喩に続く。

Between a high solid wall and a small egg that breaks against it, I will always stand on the side of the egg. Yes, no matter how right the wall may be, how wrong the egg, I will be standing with that egg.
「高く堅牢な壁とそれにぶつかって砕ける卵の間で、私はどんな場合でも卵の側につきます。そうです。壁がどれほど正しくても、卵がどれほど間違っていても、私は卵の味方です。」

このスピーチが興味深いのは「私は弱いものの味方である。なぜなら弱いものは正しいからだ」と言っていないことである。
たとえ間違っていても私は弱いものの側につく、村上春樹はそう言う。


こういう言葉は左翼的な「政治的正しさ」にしがみつく人間の口からは決して出てくることがない。
彼らは必ず「弱いものは正しい」と言う。
しかし、弱いものがつねに正しいわけではない。
経験的に言って、人間はしばしば弱く、かつ間違っている。
そして、間違っているがゆえに弱く、弱いせいでさらに間違いを犯すという出口のないループのうちに絡め取られている。
それが「本態的に弱い」ということである。
村上春樹が語っているのは、「正しさ」についてではなく、人間を蝕む「本態的な弱さ」についてである。
それは政治学の用語や哲学の用語では語ることができない。
「物語」だけが、それをかろうじて語ることができる。
弱さは文学だけが扱うことのできる特権的な主題である。
そして、村上春樹は間違いなく人間の「本態的な弱さ」を、あらゆる作品で、執拗なまでに書き続けてきた作家である。
『風の歌を聴け』にその最初の印象的なフレーズはすでに書き込まれている。

物語の中で、「僕」は「鼠」にこう告げる。
「強い人間なんてどこにも居やしない。強い振りのできる人間が居るだけさ」
あらゆる人間は弱いのだ、と「僕」は“一般論”として言う。
「鼠」はその言葉に深く傷つく。
それは「鼠」は、「一般的な弱さ」とは異質な、酸のように人間を腐らせてゆく、残酷で無慈悲な弱さについて「僕」よりは多少多くを知っていたからである。

「ひとつ質問していいか?」
 僕は肯いた。
「あんたは本当にそう信じてる?」
「ああ。」
 鼠はしばらく黙りこんでビールグラスをじっと眺めていた。
「嘘だと言ってくれないか?」
 鼠は真剣にそう言った。
                  (『風の歌を聴け』)


なかなか粋な引用だが、気になる点がひとつある。
そしておそらくそのことはとても重要な見落としだ。

村上の壁と卵の比喩は人間一般に対する比喩ではなく、きわめて政治的なものである。
政治的なものである限りは、それぞれの側に正しさはつきまとう。
なぜなら政治的な正しさはそれぞれの視座によるからだ。

でなければイスラエルとパレスチナはあのような戦いをしない。
アメリカはオバマになったとはいえ無謀にアフガンに侵攻はしないだろう。

村上氏が語っているのは武力的な弱さとそのことによってもたらされる悲しみについてである。
そして多くの場合その弱さの背後には政治的な問題が横たわり片側の正義をいくらでも演じられる。

つまりここでは弱いものは強い側から見れば間違いなのだ。
しかしわたしはそのことをむやみに信用はしない。
卵を確かに見届ける。
そういう側の人間だと村上春樹はいっている。

正義は多様的なもので強いものにも弱いものにも自分の持つ正義に対する主張が存在する。
それゆえ最終的に武力的に弱いものが悲しみを見る。
わたしはその悲しみを見る側を忘れない、そう村上氏は言っているのだろう。

村上が言った壁と卵の感動的なポイントは偏見的に卵の味方だということで(かなり好意的に言っているのだが)政治的な弱さというものはそのまま武力的な弱さで、さらに書けば強いロビーストを持っていない弱さにすぎないと言っている。

繰り返すが、
わたしが言うのは政治的にはどちらにも必ず正義があり、そのことは間違いないということ。

それとは別に人間は弱いものだという物言いがあるが、それは感傷に過ぎない。

なぜなら強い人間もいるからだ。
たとえば、感受性の鈍い人間の多くは強い人間で生きやすい世の中に生きているはずだ。
そういう人間たちになにを話したらいいのかはあなたやわたしが決めればいいことで、村上春樹に期待しなくてもいい。

ときに村上氏も感傷的になったり気取ってみたりすることもあるだろうが、そのことを敷衍してまでほめなくてもいい。

繰り返すが、エルサレムの彼の演説の勘所は、政治的に弱い側の味方だというしっかりした発言で、政治的であるならば正しいという要素はいつも絡んでくる。
それを大きく人間一派のレベルまで広げ、褒め称えるのは、ちと、乱暴だということです。

ややこしかったならば、また何かでご連絡ください。

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