2009年2月9日月曜日

エンターテイメント

小説にしろ映画にしろ芝居にしろ、それらはすべて切り取られたものでこの世のすべてを描こうとはしていない。
そもそもあなたの目にしてもわたしの目にしても切り取られた世界しか見ることは出来ない。

もちろんわれわれの目はエンターテイメントが切り取った世界よりは広いものを見ている。
それにしてもだ。
エンターテイメントに酔うことはしばしばある。
そこに現実世界とわれわれの見る世界とエンターテイメントとの距離がある。

もちろん作品のなかにはエンターテイメント性だけを作り出そうとしているだけではないものがあるが、それは商業主義から外れるのでこの世に登場しづらい。
しづらいがいつもわれわれの身近で息づいている。

そういうわれわれにも見えない何かを描こうとする人もこの世にはいる。

エンターテイメントの心地よさは切り取られた心地よさだ。
それはそれでいい。
しかし、「切り取られた」という条件は忘れてはならない。
それが見る側の心意気だ。

いや、単に見て面白かったでもいいのだ。
わたしが、少し過度な要求をしているだけなのだ。

エンターテイメントのなかにも心地よくないものを切り取るケースがある。
それは「心地よくないもの(人生はそれほど愉快なものではない)」という意識のさせる技であるし、その結果、その作家は「心地よくないもの」に対する救いの手を差し伸べる。(エンターテイメントだからね)

わたしに言わせればそれがエンターテイメントのいい作品だ。(わたしが思うだけだから気にしないでもいいからね)

とにかくエンターテイメントは切り取られた世界を描くものであり、その切り取り方に商業性に向けての恣意性があるのならばその作品は志し低いものだとわたしは思っている。

切り取られた世界で心地よくさせていただいても、その作品世界から一歩外に出れば、何も変わっていないし、ただ作品に翻弄されたことを知るだけだからだ。
翻弄されたくて入ったのならばそれもよかろう。

しかし、そうではない作品にたまには触れてみたいではないか。

同じ思いを抱く同士に出会うように。

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