2009年2月3日火曜日

テレビに見る世相

テレビの影響というか、納得のさせ方というのは緩やかな浸食のごときもので知らず知らずに自らを染めていってしまっている。
年末の派遣村というものに対する扱いも今では(実は当時からも)祭りのごときもので、なんらの当事者性も連中は感じてはいまい。

まあ、ネタになるからな、程度のものだろう。
であるから、テレビ画面に登場してくるコメンテーターも派遣村に駆けつけた政治家も痛みなどまるっきり感じてはいない。

いやいや、もともと「痛み」というもの自体が他者との共有を激しく否定するもので、どの道最終的にはおのれが背負わなければならないものなのだから、いまさらこのような憾みを軽佻浮薄なかれらにぶつけること自体無理があるのだろう。
書いている私自身にしたとて誰かの痛みを背負うことは困難で、その男の痛みと同じような痛みをたまたま自分が抱えている以外にはその方策(痛みを共有する方策)は皆無に近い。

ただ痛みを抱えているお前の痛みはわからぬが、お前がオレのそばからいなくなるときオレに痛みが走るというようなことをリアルに伝えられるかどうかだけだ。

というわけで、失業者が街にあふれ、セイフティネットは遅れ、ああ、これは末世だと思えるようなときでも(それはすでに現在進行形なのだが)テレビはのんびりと温泉へ行ったり、グルメをしたり、なんら意味のないクイズ番組を流しながら、そして最も恐ろしいのはその合間に大変な時代になっただとか、政府の対応が遅れているだとか嘆いて見せるのだ。
そうして嘆いている本人は実際自分が嘆いていると思ってしまっているが、ところがどっこいなんら嘆いていはしない。

もはや自分が今どのような状況か自分の位置さえつかめなくなっている。
そして、(じつはこちらのほうがもっと大きな恐怖なのだが)つかめないのにつかめた気になっているのだ。
だからこそ、高みからものが言える。

以前は自分の位置が見えていた人がいた。
そういう人を見て自分を磨くことが出来た。

今はテレビとまったく同じで、貧相な自分をさも立派であるかのごとく信じ込んでいる人々であふれている。

言っておくがテレビに出るコメンテーターでまともに考えている者などほとんどいない。
たまたま無自覚にいいことを言う場合があるだけだ。

そういえば、つい最近、テレビで辺見庸の長いドキュメンタリーを見た。

辺見さんなど恐ろしくてテレビ局はコメンテーターには使えまい。

それが、今に氾濫するテレビの実相だ。

見ることは勝手だが、その程度であると知っておく必要はある。
だから、見る必要はあまりないし、見れば操作しようとしている世論の流れに足を引っ張られる。
引っ張られれば動く。

お互い自分の思っているほど強くないというわけだ。

ご自愛のほどを。

ラベル: