2009年1月31日土曜日

対岸の彼女


角田光代「対岸の彼女」を読む。

このひとはこの世のどうしようもなさを拾い上げる。
といっても、それは特別なことではなくこの世はもともとどうしようもないものなのだ。
それを防ぎとめるために金や地位や名誉が必要になってくるわけで、それらがないとこの世のどうしようもなさに直接当たってしまう。

いうまでもなく「どうしようもなさ」はいくつもの形を持っており、特定することは出来ないが大小の差はあれ、あなたやわたしにとってとても困るもので、しかも大変に逃れにくいものである。
そして困ったことに多くの場合は、それがぼんやりと包み込んでくることが多いのである。

で、なんとなく鬱々としてくる。
助けてくれるものがないわけではないが、助けてくれるものに出会うためにはかなりの辛抱や工夫がいる。

もっと簡単に書けば、世の中生きにくいものなのだ。
だから誰かと手を取り合ったりする。
「対岸の彼女」はそんな小説で、そういうあやふやな生きにくさがよく書けている。
よく書けているから読後感はそれほどよろしくはない。(ただし、ラストにちょっとした工夫がしてあって、ある程度の軽いカタルシスはくれる。くれるがそのカタルシスがこの小説の本質でないのは言うまでもない)

なぜわざわざこの小説を取り上げたかというといい小説というのは「読後感の悪さ」を持つことが間々あるからで、読後感の悪さをその作品の悪さと安直に結び付けないでほしいという願いからである。

もちろん言わずもがなのことであったのだろうが、自戒の意味も込めて書いておきました。

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