落語について
落語は一種のブームだから本屋に行けば入門書のようなものはいくらでも手に入る。
ここでは、その先を少しだけ話しておくことにする。
落語はある決まりごとによってその舞台にある空間を演出する。
その演出は演者によって違うし、演出した舞台の読み取りは観客によって違う。
つまり落語には演者と観客の共同作業的な部分がどこかにある。
この観客の側の努力を惜しめば単なる評論家に堕ちて行き、落語の楽しみに触れることは出来ない。
楽しみといってももちろん「自分にとっての落語の楽しみ」であるのだが、「自分にとって」を省いた楽しみがどこか他にあるのかどうかはわたしにはわからない。
わたしにとっての小三治はあくまでもわたしにとってであり、いくらだれかに勧めてもわからぬことは大いにありうるし、あまり勧めることはしない。
落語とは煎じ詰めればそういう芸であり、誰かがこの人の芸を好きだというだろうという見当はついても自分が楽しめるかどうかは別となっている。
だから、落語に親しむには一にも二にも落語を聞くことで自分を鍛えるしかない。
そうでなければ、なにが面白いのかはわからないし、それはそれで仕方がないとあきらめたほうがいい。
なに、世の中には楽しいものはまだまだ山ほどある。
落語ひとつわからないだけでしょげ返ることはない。
ここでは、落語とはそういうふうに多少とも観客に要求してくるものだと語っただけに過ぎない。
(もっともたいていの表現は観客を頼りにする部分が多かれ少なかれあるというのも事実なのだが…)
ここでは、その先を少しだけ話しておくことにする。
落語はある決まりごとによってその舞台にある空間を演出する。
その演出は演者によって違うし、演出した舞台の読み取りは観客によって違う。
つまり落語には演者と観客の共同作業的な部分がどこかにある。
この観客の側の努力を惜しめば単なる評論家に堕ちて行き、落語の楽しみに触れることは出来ない。
楽しみといってももちろん「自分にとっての落語の楽しみ」であるのだが、「自分にとって」を省いた楽しみがどこか他にあるのかどうかはわたしにはわからない。
わたしにとっての小三治はあくまでもわたしにとってであり、いくらだれかに勧めてもわからぬことは大いにありうるし、あまり勧めることはしない。
落語とは煎じ詰めればそういう芸であり、誰かがこの人の芸を好きだというだろうという見当はついても自分が楽しめるかどうかは別となっている。
だから、落語に親しむには一にも二にも落語を聞くことで自分を鍛えるしかない。
そうでなければ、なにが面白いのかはわからないし、それはそれで仕方がないとあきらめたほうがいい。
なに、世の中には楽しいものはまだまだ山ほどある。
落語ひとつわからないだけでしょげ返ることはない。
ここでは、落語とはそういうふうに多少とも観客に要求してくるものだと語っただけに過ぎない。
(もっともたいていの表現は観客を頼りにする部分が多かれ少なかれあるというのも事実なのだが…)
ラベル: 演芸
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