2010年1月31日日曜日

虜囚と化した「わたし」

心と身体というが、このわけ方は怪しいものだ。
そもそもこの肉体は、ほんとうにわたしなのかという根源的な問にぶち当たるすぐれた感性の持ち主がいる。

知的にはこの問題は市川浩やメルロ・ポンティやその系譜を担う連中が扱っているが、彼らに事の重要性は本当に見えているのかどうか怪しい。
それよりも「DIR EN GREY」の京のほうがずっと哀切にこの問題を直感的にわかっている。

以前のコンサートにおける彼の自傷行為やあれほどまでにこだわる「痛み」への思いは、自分の身体のなかに虜囚と化した「わたし」がいるのではないかと気づいたことによる。
そのことを京が意識的に気づいているかどうかはここではあまり問題ではない。

気づくという行為が、意識に上るということであれば、その段階で「気づき」は表現されるものとして、やつれてしまっているからだ。
表現者は、ただ、何もわからずに感づいていればいいのだ。

自分の肉体でさえも「わたし」であるかどうかの疑問にさらされることを。
そのとき「わたし」への通路としての「痛み」が登場する。

多くの観客の前で、口腔をえぐり血を流して見せるのは、パフォーマンスである一方で「わたし」へ向けた壊れ物のような呼びかけだ。
彼の歌に込められた思いは他ならぬ「わたし」への思いだ。

そのときに、かれは「わたし」が閉じ込められた存在であるということを知っていたのだろうか。

ラベル:

2010年1月30日土曜日

鬱の正体

たとえば、こういう見方ができる。

生きることには何の意味もないから、人は生きる意味を生じさせる物語を作る。
多くの場合哀しいことにこの物語は借り物で、社会から大きく言えば国家から提供されている。
それが、どのような物語かはまわりの人たちの語る人生の意味に注意深く耳を傾けてみればわかってくるだろう。
実に自然に我々の中にその物語は忍び込んでいる。

そういった物語を信用できずに生きることに意味がない原初の状態で生きている少数の人たちがいる。
彼らは生きることにも死ぬことにも積極的な意味を見つけられずに存在している。
たとえば、彼らに確かなものは肉体的な痛みであったりする。
この人びとが遭遇するのが鬱ではないかとわたしは思っている。

ラベル:

2010年1月29日金曜日

ミレニアム

「ミレニアム」三部作が名作と謳われるのはその稀有な構造の規模からである。
ラーソンはこの小説でスウェーデンを延いては世界を描こうとした。
その世界にエンターテイメントの要素をちりばめたのは、明らかに才能と呼ばれて問題はない。

問題とされるのは、その情報収集能力と情報処理能力、分析能力だろう。
そのことを、ミカエルを使い進行させていくのだが、ミカエルの片側にリスベット・サランデルを置いたのがこの小説の端緒に違いない。

サランデルを思いつかなければ、この小説世界はまったく別様の貧弱なものになる。
サランデルがいるからこそ他のキャラクターも生きてくる。

この疲れ切ったパソコンではこれ以上深く論じるのは苦痛だし、そこまでのわたしの分析も存在しない。

いまは、「ミレミアム」三部作はその構造上の破格なスケールから名作と呼ぶのであって、一個のエンターテイメントと見ると間違うことだけを伝えておきたい。
その証拠に、「ミレミアム」は三部作を追いかけるに連れ、そのスケールを増していく。

それは一種の竜巻のような感じだ。

ラーソンは早く死にすぎたのかな。

ラベル:

2010年1月27日水曜日

飯の種

介護業界における介護されるご老人は飯の種以外の何の意味もないのだから、そりゃあひどい扱いにもなるわなあ。

ときどきニュースに出てくる介護の場の問題はもっと根深く、世間に広がっている。
介護までして人を生かせようという思想じたいが、かなり残酷であるのだ。

それにだ。
介護などというものは身内のものがかろうじて自分の身を削ってできるもので、他人が金儲けでするものとは質が違う。

長生きするのはいいことだと無批判に思っているからこういった哀しい出来事が起こってくる。

ラベル:

2010年1月22日金曜日

パソコン壊れる

パソコンが壊れてしまった。
申し訳ないが、復旧には時間がかかる。

しばらくお会いすることができない。
申し訳ない。
何かあれば「fs49h1gk81ds1usmwtnb@docomo.ne.jp
携帯にメールをください。

よろしくお願いします。

ラベル:

2010年1月20日水曜日

生きていけない人

この世の中にこれほどに人があふれているのに、それでもあまり人が死なないのは、生きていたいという人の願望の故だろう。
自殺者が、年に三万人でも少ないとわたしは思う。

本格的に生き出してみれば、この世の中はめちゃばかり目立つ。
せめて、酒でも飲んで憂さを晴らすしかあるまい。

ステキな生き方はどこに行ってしまったのだろうか。

飛行気乗りでもないのに空ばかり眺めている。

そういう詩の一節も思い出すではないか。

ラベル:

2010年1月16日土曜日

いい飲み屋

いい飲み屋というのは自分にとっていい空間が流れている場所でしかない。
それは大いに年齢に関係していて、わたしなどはもう若い人がたむろする店で飲むことは厳しい。

初老の人が集まる店、たとえば思いで横丁の「カブト」や「ささもと」、渋谷の「森本」などがいい。
会話もまた迫り来ないほうがいい。
たゆたっていればそれでいい。

それが会話になっていないにしても、ゆったりとした気分を邪魔されるのはいやだ。
酒を飲むときくらいは、ぼんやりと虚空を眺めていたい。

そういう店も少なくなっているかもしれない。
ただ黙って居場所を提供していることがサービスだとわかるまでには時間がかかる。
そんな長い時間を経た飲み屋も少なくなった。

一人で飲むのに似合う店は、探さねばなかなか見つからない。
若者の喧騒はうんざりだ。
物思いにふける若者が好きだ。
そして、ときに過激な行動に出ればいい。

いい飲み屋のことを書き出したら、グチになってしまった。
しょうがないなあ。

ラベル:

2010年1月15日金曜日

紙媒体の危機

大手新聞がいよいよ苦しいらしい。
新聞を読まない文化が広がってきているのだ。
このことを大きな問題として扱う側もあるが、同時に情報操作されにくくなる面を見過ごしてはならないだろう。

大手新聞亡き後に跳梁跋扈しだすなにやらわけのわからない情報の中に楽しみな可能性をわたしは見たい。

小沢問題も情報操作の面がないとは言えないだろう。
誰かの意図が働いている。

情報とはもともとそういうものだと思っている。

ラベル:

2010年1月14日木曜日

小沢がやられました

だれの意図によってやられたのでしょうか。
それとも巻き返しがあるのでしょうか。

自民党の最後の抵抗にも思えますが、政治の世界は奥深いです。
時間を見つけて、裏事情を調べてみます。

恐ろしい戦いですによって、小沢氏はまだ倒れないかもしれませんね。

ラベル:

2010年1月13日水曜日

松岡修三

松岡修三は見ているのがつらい。
ああいうやり方があり、ああいうやり方で伸びていく世界があるのだろうが、わしにはつらい。

おそらくもっと違う世界があり、そこでは別な生き方をしているはずだ。
その世界を松岡修三は全否定してくるようで、わしゃつらい。

つらいから見ない。
見ないと避けられるかといえば、これはそううまくはいかない。
生きている現実世界のある部分が、松岡修三的になってきているからだ。

だからどうだと論は展開できるが、それはよしにして、ここではああいう進み方が重要な場合もあると自覚するに留めたい。

けど、わしには、松岡修三はつらい。

ラベル:

この寒さのなかで

何人が凍死してしまったのだろうか?

そういうニュースを流してほしい。
そうすれば、少しは世情がわかろうというもの。
深刻さは足元から来ており、毎度のこと弱いものから倒れていく。
報道は、時にその弱いものの倒れていく姿を映していってほしい。

そういう弱いものをわれわれの税金で救うのはいやだというアメリカの世論のようなものは日本にも湧き上がるのだろうか。

生きていくことが難しくなり続けていくのなら、それはもはや戦場みたいなもので、いくつかの犯罪が起こっても致し方ないように思う。
もちろん、良い悪いは外しての話なのだが。

あまりの寒さにぼやけた頭でそんなことも考えてしまう。

ラベル:

2010年1月12日火曜日

自己表現

自己表現にこだわることの哀しさをさらに続けて説明すれば、こだわればその場所にとどまらなければならない哀しみが産まれるといっている。
この世のすべてをそのまま眺めることの先が、描くことまで続いていくのなら、それがいいに決まっている。
自己などという小さなもので己の見たものの邪魔をしないほうがいい。

自己表現にこだわるということは、自己という窓からしかものを見えなくするということだ。

もちろん技術的には、書くことのほうが大きいかもしれないが、大切なものは見聞きしたものの中にあって、それは素直に自分に取り入れるほうがいい。

武満徹が音楽家にとって大事なのは聴くことだといったのはその意味でだろう。

だから、逆説でもなんでもなく、あらゆる表現者にとって自己は大いなる障壁になる。
正確に書けば自己という意識は大いなる障壁になる。

そのような意識のないところにも自己はあり、おそらくそこにある自己はあなたの思っているものよりとてつもなく大きいものだろう。
それは、もちろんわたしにとってでもある。

だからこそ、ただ不器用に描くことのなかに自己に触れる瞬間がやってくる。
自己とはそのように相対すべきもので、ちっぽけな意識のなかに閉じ込めて自己表現するものではない。
そういう意味で、こざ賢く作り上げたものは、とうとう自己にたどり着かないでしまう。

ややこしい書き方だが、自己に触れたいなら、あえて自己とかかわらない方がいいといっているのです。
自己表現は、哀しい作業です。

ラベル:

かけら


青山七恵『かけら』を読む。
こういった類の本には注意しなければならない。
小説の書き手が、その作品の中にいるようでいて一歩も二歩も下がっているからだ。
そのように私を消して、物語を立ち上げている。
といってもこの場合の物語はきわめて物語性から離れた筋の薄いものなのだが、それでもかろうじて読者を引っ張る力になっている。
このあたりが見えてくれば、川端賞受賞が取れた根拠も見えてくる。
作者が小説世界から消えてしまっていて、わずかな物語性が残っていること。
それがコツだ。
小説が自己表現だといっているうちは、いつまでたっても小説は書けない。
それは何も小説に限ったことではなく、音楽でも絵でもそうで、そこには自己表現などないほうがいい。
むしろ正しく語れば、表現するという行為のうちに自己は出没するのであって、その表現が自己を表現したものであろうとなんであろうとかまわないのだ。
表現しているのがあなたであれば、そこには必ずあなたが現れる。
それをわざわざ自己表現などと言わなければならないのは、あまりにも韜晦から程遠い、淫らな言い回しだと感じる。
大切なことは己を書こうとしないこと。
書こうとしなくても己から離れはしないのだ。
そういうことは書いているものを他人に見せているうちに気付く。
他人にとって作者の自己なんぞはうるさくてかなわないのだ。

ラベル:

とても寒いです

こういう寒い日に、寒いと声が出てしまう人とこの寒さをいかに凌ぐかと思いをはせる人がいるとしたら、そのことの意味は大きいだろう。

この国にどれくらい寒さを凌ぐことに気を使う人がいるのだろう。
そういうことがとても気になる。

国の実情というが、どの辺りを見ればその実情は見えてくるのだろう。
少なくともマスコミのなかからは見えてこないように思える。
というよりは見せぬようにしているのだろう。

凍えて死んでいく人が、まるっきりいないでもないのに、そういう人をまるっきり知らないわたし。
なんとも哀しい浅はかさだろうと思う。

ラベル:

2010年1月10日日曜日

居場所をなくした人間たち

居場所なんぞはどこにもないものだから、せっせと居場所のごときものを作る。
営巣本能とかいうではないか。

そういう努力を怠った人間があるとき自分の居場所がないことに気づくというのは哀しいもので、そういうわけで派遣村が出来たり、ホームレス仲間が出来たりする。

けれども居場所は一種のaddictionのなかにあるものだから、どこか醒めていれば、あてどなく彷徨するしかない。

家庭はいいものだと思う。
仲間もいいものだと思う。
仲良きことは美しきかな、とかいった人がいたが、あれは聞く人によっては切実だなあ。

そういう思いが強いのは、弱ってきた証拠だ。

ラベル:

ブログの哀しみ

ブログは他者への伝言のようにも見えるが、自分への通信でもある。
それが、本屋に並ぶ作品と一線を画すところである。

まあ、そういうことはわかりきったことなのだろうが、わたしにはあまりわかっていなかったということだ。
わかっていたけれど、自分への通信の部分が思っていたより大きかったということか。

戯作者という人種がいるが、ああいう人はまことにもって立派だと思う。
太鼓持なんていうのも、存在にまいるなあ。

己が消えて、相手が喜ぶのだけを見る。
そういうのがいい。

それでも自分はどこかに残っている。
自分なんざ、そう大事にするものでもない。

わたしは家族に対して愛情の薄い人間だが、それにしても己自身よりは愛するに足る人々であるように思う。

自分ばかり見ていると奈落の底に落ちてしまいそうである。

ラベル:

2010年1月7日木曜日

食糧危機

アフリカ南東部のインド洋の島国マダガスカルで、軍の介入で前大統領を退陣に追い込んだ野党指導者、ラジョエリナ氏(34)が21日、新大統領に就任した。欧米やアフリカ諸国は「クーデターに等しい」と非難を強めているが、政変の一因には前大統領が耕作可能面積の半分に当たる国土を韓国企業に無料貸与した問題がある。
浮かび上がってくるのは、将来の食糧不足を見据え、豊かな資金を持つ中東やアジアの国々が、商取引を通じてアフリカで農地確保を進める実態だ。

昨年の初めのころのニュースだが、食料争奪戦はアフリカの農地確保戦へと進んでいる。
すでにウクライナの農地獲得戦は終了している。
日本がウクライナで得た農地はほとんどない。

金があれば、食料を買えるという考えはすでに終了しつつある。
だからこそ、第一次産業へと資金のある国は視点を変えているのだ。

日本が、それは政府でも企業でももっと別の形であってもいいのだが、第一次産業へと目がいっているとすれば、それは概ね正しい。

「貧困の共有」の発想は、世界の人口と世界の耕作地という単純な計算から割り出される。
喰えれば幸せだという発想が成り立ったとき、失業者の問題にも光が当たる。
それでも難しいのだとしたら、それはすでにこの地球が養える人口をわれわれが越えてしまっているということだ。

マダカスカルのことを思い出してしまい、記すことにしました。

ラベル:

2010年1月6日水曜日

気楽堂

『気楽堂』は区役所通りにあるマッサージの場所である。
おそらく新宿一かもしれない。

わたしは長年の肩と首の凝りのために定期的に通うことにしている。
でないと死んでしまいそうなくらいに体調が悪くなるからである。

そこでは、八番の孫先生に指圧をお願いしているが、この若者は意欲的である。
そういう話をした。

かれは、中国の肉はおいしくないと教えてくれた。
そして、中国が経済発展の真っ只中にあることも市民感覚でわかると言っていた。

というわけで少々高くても今の中国人は食に金を出す。
だから、いい肉を作れば中国では必ず売れるというのだ。
そして、日本の肉はうまいと続けた。

これらの話を総合して、中国で牛か羊を飼ってみたいという。
そのために、日本の牛や羊の飼い方を知りたいという。
その技術を元に中国東北部で畜産をやったらどうかと聞かれた。

それは日本の技術と労働力の提供にもつながるし、一大産業になるかもしれない。
消費者は今最も注目されている中国とインド。

それぞれの国には問題があるが、それは別としてこのプランは面白い。

なぜなら、今やわれわれが目指すのは第一産業だというのが常識になりかかっているからだ。

この話は、わたしの出来るかぎりにおいて、何とか成し遂げてみたい。
そういうことを考えた。

ラベル:

アバター

キャメロンの描く『アバター』が全面的に悪いとは言っていない。
そのことで少しつけ加えます。

わたしの感じるのはあまりにも刺激的に出来すぎていることです。
その象徴が3Dで、わたしはあまり感心しません。

映画のなかで描こうとした主張は、立派なものです。
何度となくいろいろな人が描こうとしたことをもっとも現在の映画的に描けていました。
そのことは貶すべきことではありません。

それにしてもあの派手さは、観客に対する過剰サービスではないだろうかというのがたった一つの疑問点です。

映画のなかで描かれる自然とその自然を無視した経済効果だけを念頭に動く人間の葛藤は、ほかの映画のなかでもあるし、ことあるごとに指摘されてきた話題です。
しかも、いまだ何も解決策を見出せず、内需拡大などと寝言を言っている現状です。

壊すべき自然も、夢であった満州もわたしたちにはありません。
そのなかで人がどう生きていくかは、想像以上に厄介な話です。

その厄介さを『アバター』は描いており、映画という切り取られた世界でのカタルシスを与えてくれます。

作り上げたことを褒め上げ、その映画を見る観客の質の低下を意図していることに悲しみを覚えました。

ラベル:

2010年1月4日月曜日

年末年始

少しお酒を飲みました。
例によって例のごとく少し鬱模様。
本格的な鬱病でないのは以前説明した通り。

したがって、セルシン、レキソタン、デジレルの薬で抑える。

飲んだくれの何の弁解の余地もない男の見たこの世の小さな風景を書いてみようと思う。
だからと言って、これ以上飲む必要はなく、静かな毎日のなかで書き始めていくことになる。

静かな毎日に小さな波乱が起こるような作品になればいいと思っている。

ときどき、何もかもがどうしようもない状態であるようにも思えるが、幻想だと思うことにしている。
心は手前勝手に動き出すから良くも悪くも手に終えなくなることがある。

その反対に生活は手前勝手では破綻をきたすことになる。
はてさてどうしたものかと考える暇もなく、そういった日常の中を乗り越えるしかあるまい。
都会で生きていくということは少し前からそういうことになっている。

ときどきつくため息がせめてもの慰めだろうか。

ラベル:

2010年1月3日日曜日

パブリック・エネミーズ

府中で『アバター』を見たあと、新宿で『パブリック・エネミー』を見る。
わたしの年齢がそうさせるのか、こちらの映画はしっくりと身体に入ってきた。

感想を書くのも慙ないので、ここではジョニー・デップがいい役者だということを強調しておきたい。
『アバター』とは刺激の質が違い、心に残るものがあった。

ラベル:

アバター

元日に評判になっているキャメロンの3D映画「アバター」を見る。
刺激的な映画だった。

この場合の刺激的とはまさに刺激が次々と襲ってくるということだ。
映画館の座席に座り3D用のグラスをかければ、まさに刺激が襲ってくる。
けれどもその刺激に反応するものは少ない。
あくまでの受身でしかないのだ。
現代人は楽をさせられている。

製作者にはダイナミズムはあるのだろうが、受けてはひたすら受け取るしかない。
現代の狂気と言ってもいいだろう。

見ただけのことはあるが、その背後に現代のもつオソロシさも感じる。

ラベル:

ブロウ

年末には『ブロウ』を見た。
この映画で、ペネロペが好きになったのだが、もう一度見てみると、気の強い処し切れない女だった。
今は、身につまされて好きになるどころではない。

けれどもはじめてみたときに好きになったのは、わたしが元来気の強い女が好きなせいかもしれない。
いやいや、現実には気の強くない女が存在するようなことは夢のような話だというところか。

この映画は男と女の映画ではなく、親子を描いたものだが、描かれた親子にも身を責められる思いがした。
なんとも不義理な生き方をしているわたしであった。

ラベル:

遅ればせながら

クリスマスもそうだったが、この正月も例年に比べると随分静かだ。
音楽が聞こえてこないのがその原因だが、こういうしっとりとした感じがいい。

消費活動の減少につながるのだろうが、それでも静かなのはいい。

ラベル: