2008年1月31日木曜日

江戸本手打毛抜 いろは


28日は浅草演芸ホールに行く前に手違いがあって、3時間半以上も浅草を散策することになった。
その間、二三の買い物をすることになったのだが、そのひとつが、写真の倉田満峰作の「江戸本手打毛抜 いろは」であった。

わたしは、自他共に認める変質者で、しかも「ひげ抜き作業」あるいは「白髪抜き作業」に執念を燃やすというか、そういうものを抜いている時間は至福の時間でどれだけ長くても平気だったりする。
という具合な偏執狂なわけです。

さて、そのわたしにとって、倉田満峰作の毛抜きは特別なもので、「日本橋木屋 団十郎毛抜き」も捨てがたいがなかなかねえ…。
なかなかねえ…というのはそこに差が出るのです、いいものは。

悪いものは、さほど差は出ませんが、いいものになると微妙なところが気になるものなのです。
もちろん、それはいいものが使い手にそれだけの感覚を覚えさせていくところもあるのでしょう。

だから、何かを始めるときには、いい道具を買いなさい。
いい道具から入ったほうがいいよと言われるわけです。
「毛抜き」じゃしょうがないですけどね。(本人は自信はあるんだけどんね、毛抜きでも)

さて、食も同じことなのだから、たいした物を食っていなければ、そんなに差は出ないんですよ。
毎日、手作りの料理なんぞを食っていれば、それはわかりますよ。
しかし、冷凍食品で大丈夫な人に違いがそれほどわかるわけがない。
腹が痛くなってはじめてわかる。
わたしたちの食はどうなっているんだと怒り始める。
もちろん、正当な理由からです。
貶める気持ちはありません。

でもね、食というのは作り手と食べ手の顔が見えて初めて食だったんですよ。
作り手と食べ手の顔が両方が両方とも見えなくなって、幾星霜。

そう考えりゃ、まあ、こんなことも起こりますよ。
もう、めちゃくちゃなんだから、食文化は。

日本の食糧自給率は40%を切っています。
どうします。
食えないんだったら、身体に悪いものでも食いますか?

ずっと以前から、食料自給率の問題はあったんじゃないですか?
食費が高いと、ブーブー言っていたんじゃないですか。
今回の問題は、そういう結果でもあるという視点を落としてはなりませんね。

少し前にミシュランで浮かれていた国民ではありませんか?
今度は、中国食品の食中毒で浮かれるわけですか?

楽しいですね、大衆は、すぐに忘れて、すぐに浮かれて。

まあ、わたしのようにいつまでも思い続けていると鬱になっちゃうから、これも困るけどね。

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傍観者と当事者

昨日このブログで扱った浅草演芸ホールは、夜の部、午後4時40分始まりだが、この寄席はただ券を多く配っているため、すでに4時前から客が並び始める。
それが、月末ともなるととても増えてくる。(ただ券の期限切れが近づくからね)
演芸ホール側のこの行列の処理の仕方が、まずかった。
詳しくは書かないが、整理係に何のノウハウもなく、その不手際に酔っ払いの客などが絡んだという形になる。

そのとき、行列に並んでいた周りの人たちの反応は明らかに傍観者の立場だった。
「ああすればいい、こうすればいい」
とにわか評論家になるのだった。(あなたにも関係してくるのだよ)

言っておくが、評論家はあれは傍観者の代表だからね。
評論家が主体者、当事者でなければならないと高らかに言い放ったのは小林秀雄であり、その言のもとに生きている評論家はそれほどは多くない。

みんな、浅草演芸ホールの外に立ってああでもない、こうでもないと言い合っていた人々と同じことをマスコミでやっているだけのことだ。
事態を変える気はこれっぽっちもない。

ただ、みんあわたしはどういう状況かわかっているのだ、えらいだろうと言っているにすぎない。
それで、どうするのだと聞けば、彼らは、後ずさりするに違いない。
もともとなんらの行動を取る気もないのだから。

これをもって、傍観者という。

私はといえば、「鬼平犯科帳」を読んでいた。
これを無関心と呼ぶ。
わたしにとって、この事件は、どうでもいいことだったから。(どう巻き込まれようが、身の不運を嘆こうと思っていた。)
もしそうでなければ、わたしもまた「あなたは当事者として動くのか、傍観者として動くのか」と問われただろう。
ここでもう一度繰り返すが、そのどちらでもないあり方もある。
当事者性を発揮できるのは、ごくごく限られた事柄に対してだけだからだ。
それは、われわれが身一つで生きていることを考えれば想像がつくだろう。
そのとき、傍観者でなりたくなければどうするか、はわれわれに与えられた大きな問題だ。

今日の昼間、田中康夫ちゃんが国会で質問していたが、明らかに当事者として質問しようとしていた。
そして、答弁者のなかには、傍観者しかいないのかと嘆いていた。
そのようにわたしには見えた。

わたしは、テレビを見ながら、クツ箱の奥から取り出した、しばらく履いていないがっちりとしたトレッキングシューズを手入れしていたのである。
もちろんその皮を手入れしていたわたしとトレッキングシューズはお互いに当事者同士であった。
当事者はこのような形で出会うものだ。

久々に磨き上げたトレッキングシューズを掲げながら見たとき、トレッキングシューズもわたしのほうを見ていた。

そういうものだ。

人と人との関係は
人とものとの関係は
ものとものとの関係は

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2008年1月30日水曜日

五街道雲助

浅草演芸ホールの夜席のトリとして、五街道雲助をみた。
じつはこの師匠の噺を見るのも初めてなら、彼の演じた「夜鷹そば屋」も初めてでした。
いい出来でござんした。
おじいさん、おばあさんと若者の話なのだが、それぞれを演じ分ける手のひらを置くひざの位置がたまらなかった。
いいものを見て、聴いて泣けてしまった。
その前のヒザで出た太神楽「和楽社中」にも泣けた。
修行というものがその演技の後ろに見え隠れするのだ。
その修行の姿が脳裏に浮かんで泣けてくるのであった。

ああ、おいらは怠けて生きてきたなあ。
いらぬ後悔をするが、すぐさま思い直す。
いや、まだ、先はある。
死ぬ気でやってみりゃあいいさ。
ずいぶん遊んできたんだ。
もう遊ぶ必要もあるめい。
がむしゃらに前へ行けばいいんだ。
修行をするのはいつからだっていいんだから。
うまくすりゃあ、無駄に過ごした時間が生きてくるかも知れねえじゃないか。

1月の28日「浅草演芸ホール」での出来事でした。

高座がはねて、ゆっくりと人の波に遅れて外に出ると、氷雨が降っていた。
寒い夜、浅草の夜がそこにはありました。

すると、後ろから
「氷雨とオレとは同期の桜か」
なんてことをいい間でつぶやく初老の人がいた。
ふりむいて、わたしは
「志ん駒師匠じゃないですか」と語りかけた。
志ん駒師匠、ヒザ前に出て軽妙なトークで笑わせていた。

こういう反射神経が、この師匠の持ち味か。

氷雨の空を見上げて、

「氷雨とオレとは同期の桜か」

いやはや、お後がよろしいようで。

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2008年1月26日土曜日

見透かされし純情

わたしに愛嬌があると言われることがあるとしても、それはわずかな隙を見抜かれる一瞬にすぎない。
無骨なのだよ、わたしは。

少し前のことになるが、書いておきたかったことを今書くことをお許し願いたい。
昨年の9月17日のこと。
わたしは、とあるコンサートに出かけようとして中野の街を歩いていたのです。

わたしの前に幼き我が子を肩車した男とその妻である人が歩いていた。
後姿だけからでも美しき彼らの生活が仄見えるような家族だった。
彼らのそばをわたしが通り過ぎようとするとき、その幼き子どもと目があった。
そのとき、その子はなんとも自然にわたしに微笑みかけたのだった。
わたしは、そのとき、はっとして、すぐさまこの子に見透かされたことを知った。
直後、その子は声に出して笑ったのだった。

幼子の 天に向かいて 笑う声

恥ずかしかった。
隠していたものが、いっぺんに白日の下にさらされたように感じた。
そして、少しだけ幸せな気分にもなった。

どうしても気になって、その母親にコンサート会場の場所を尋ねてしまうわたしがいた。
なんとも自然な、答え方をその女性はされた。
ほほえましい夫婦と愛されしその娘。
こんな家族が中野の街を歩いていた。

そして、恥じ入るように隠していたわたしの純情はいともたやすく見破られてしまったのだ。

幼子の 夢に向かいて 笑う声

見透かされし純情をどのように扱ったらいいのか、いまだわたしは知らないのだった。

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ある夜に

「ある夜に」

成子の指にはさまれし
煙草が夜に消えてゆくほんのかすかな灯りなら
たゆたう煙は夢なのか

音なき音が通りゆく
闇にくっきり浮かぶのは
おまえの歌うその声と冷たい風がささやける今夜は哀しという調べ

環八通りに車音なく
切ない時間が砂のよに
ポツリと置かれたコップには
オレとおまえの酒があり

漂う煙と静寂が包みし、いまと、ひと、ふたり

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2008年1月24日木曜日

こんな酒を…

一昨日から飲んでいる。
29日まで飲まないはずが、このテイタラク。
哀しいではありませんか。
そして、いま手元にあるのは神亀純米酒。
しみじみ思います。
酒はこの度数が最高だと、スコッチは高すぎる、ビールでは低すぎる。
16度から、たかだか20度まで、日本酒はいいぞ、オレが言う。
とくに、神亀は。
わたしのそばによりそうは、神亀の純米。
どうしたらいいの。

うまいねえ。
アルコール度数の16度から20度くらいがわれわれに合っているのかもしれない。

かような事で朝から飲んでいる。

そのウラには、美しき女房の働いている姿がある。

男はいつまでたってもだめだね。

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2008年1月23日水曜日

ろうそくとパソコン


わたしの愛した女は、あるいは、愛しきった女はここにはいない。
遠い、三重の空の下にいる、なんてね、こう書いたとしても、負担を感じちゃだめだよ。

ときに、あまりにわたしに金がないものだから、いろいろと工夫する。
いまや、取りざたされない「ろうそく」だけれど、あれはいいぞ。
人は灯を見ることに飢えているのかもしれない。
そう、思う、夜もあれば、雨戸を閉め切った昼もある。
灯をみながら、ふと、言わないでもいい言葉をひとりごちてしまうときがある。

ろうそくの灯、もしかすれば、大きな象徴になるのかもしれない。

そうでなくても、おまえのゆらゆら揺れる姿が好きだ。
ろうそくの灯よ。

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埼玉屋


よくも悪くてもと、オレは思うのだ。
しかしながら、それを越えてあるものがある。

久しぶりに思い出横丁「埼玉屋」に行った。
あろうことか、いまだに野谷店長は美しかった。
しかも、わずかにやさしかった。
いい飲みであったとわたしはしみじみ思う。
幾人かの人としゃべった。
実は、一人の男だったのだが。
せつなかった。

ひとは、あまりに考え込んではいけないのだ。
ふらふらと生きていけばいいのだ。
にもかかわらず、その人は深刻になっていた。
愛すべき男と、わたしは感じ入ってしまった。

今年、あと何回か、しらふのときにこの店に通うと思う。

いい店ですよ、野谷さん。

また、行きます、しらふの時に。

ヤマシタさん、女から電話がかかってきてもあんまり怒っちゃだめだよ。

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2008年1月21日月曜日

わたしの周りには…

わたしの周りには「元気のないように見える人」が多くいて…
その実、彼らの身体の中心、核の部分には確かなものがしっかりとそこにあって、周りを跋扈している連中よりもはるかに底力があり、ほんとうはその底力をもって元気というのであって、元気のないように見える人を「元気がないね」というのは、そう語りかける(実際はただ日本語をなぞっているだけに過ぎないのだが)その人が浅く、自分の歩みの軌跡も刻むこともせず、つまらぬ生きかたをしてきただけのことだ。
それでも、こちらにかかわってこないならば、それはそれでいいのだが、なまじかかわってくるものだから、こちらは頭が痛くなり、静かになってしまう。
その静かになった人々を、わたしは、今ここでは、「元気のないように見える人」と呼んでいるのだ。

そういう人たちを思うとき、詩が浮かぶことがある。
作品としてどうかは知らないけれど、「静かになったあなた」のためにここに書き記しておくことにします。



「必要なものは」

必要なものは
それほど多くはなかったのだ

オレにはおまえが必要だが
おまえのなかの常識だとか世俗だとか
おまえの見る姿見だとか海辺の景色だとかはいらなかったのだ

だから

おまえのなかから
声だとか髪だとか瞳だとか
そぎ落とされたものが形になって出てきてくれなくては
せつないのだった

オレにとって必要なおまえはそのようにして…

出会ったときから必然ではなかったオレとおまえが
かようにまで親しげに遠くまで歩いてきたのは妙な話ではなかったのか

おまえの中の澄みきったなにものかが
音だとか糸だとか愁いだとかに化生してあらわれてくれないのなら
オレとおまえは空と雲が出会えないのに似ている

別れがそこにあるなら…

それは
はじめから出会えなかったものの別れだ

それにしてもやけにこう切ないのは
出会えなかったものが出会ったように過ごした年月があるからだろうか
オレは幾通りものおまえの澄みきった音や絡みつく春雨の糸やいつまでも乾かぬ路地裏の板塀の潤いを知っている

知ったことは知った先には進んではいかないのだろうか
オレにはもうほんとうにおまえが必要ではないのだろうか

思う

必要なものは
それほど多くはなかった

そして、必要だと思ったものもそれほど多くはなかったのだよ

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灯油の高さは、こりゃなんじゃ


灯油というのを日曜に買ってみたら、18リットル、1850円だとかなんだとか言われて、頭が真っ白になってそのままへたり込んでしまった。
こりゃあ、暖房は外で取るに限る。
つまりは、図書館やなんかの公共の建物か、会社に出社して残業をする。
これ、すべてぬくぬくとした空間にいたいがための可愛い算段。

ひがな灯油で暖を取っていたら、間違いなくこちらの財布は干上がってしまう。
みなさんがたは、どのようにしているのだろうか。
いわゆる国民のみなさんは、大衆のみなさんはどうしているのだろうか。
たぶん、出かける場所とてない人は、ひがな布団に包まっているのだろうな。
部屋の中ならそれで何とかなるかもしれないが、外は大変だ。
この冬は外で生活する人は、ずいぶんと亡くなっているはずだ。

ますこみは、取り上げ、発表してくれればいい。

自殺者と凍死者の数はこの国の実情だ。

遅ればせながら「官邸崩壊」を読んだ。
思ったとおり、違う場所で違うことが行われていた。
これが政治家。

数年前、鶴見俊輔さんが「この国で生きていくのは大変になりますよ」と京都のトンカツ屋で話しておられたが、まさしくそうなってきた。
どうやっていくかは、われわれもまた真剣に考えていかねばえらいことになってしまう。

わたしは、密かに思っている。
もし、それが可能ならどこかの国にわれわれも出稼ぎに出かけて行ったっていいのだ。

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2008年1月20日日曜日

助六寿司


昨日は、わたしにとってはかなりの強行軍で、池袋の昼席が終わると同時に、へたり込むように空いた席に座り、ナップザックから取り出したお茶をぐびぐびと飲んだのだった。
そしておもむろに取り出したのが、「助六寿司」。

寄席には、「助六寿司」が似合う、と言うのはわたしだが、賛成される方も多かろう。
食べるのではなくて、ちょいとつまむのがいいのだ。
そばは「たぐる」、寿司は「つまむ」ってなもんだ。

助六寿司は、いなりと巻き寿司がセットになったものをだが、ご案内の通り、この組み合わせは江戸時代からあるもので、歌舞伎十八番の演目「助六由縁江戸桜」から来ている。
有名な由来だが、繰り返すのをお許し願いたい。

話の筋はともかくとして、助六とは「花川戸の助六」、いい男だったとなっている。
この助六の愛人が「三浦屋の揚巻」という花魁、こちらもい~い女だったとなっている。(そんなに、ちからぁ、いれるこたぁねえか …)
で、この「助六寿司」の中身だが、助六の愛人の「揚巻」という名前に由来するという。
つまり「揚げ」を使ういなりに「巻き」寿司というわけだ。
ほかにも諸説あるが、これが一番しっくりくる。

さっき、うつらうつらしながら「大坂屋花鳥」を十代目金原亭馬生で聴いていたもんだから、つい知ったふうな話を書いてしまった。

勘弁しておくんなせえよ、お客さん。

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身体を鍛えねば…



写真は正蔵の襲名披露のときの池袋演芸場だからもう2年以上も前になる。
あの男、うまくなっているのだろうか。
わたしにはわたしの見方があるが、それは私見にすぎない。(かなり自信があるが、それでも私見には違いない。)
人それぞれが、九代目林家正蔵を評価すればいい。
当たり前のことだが、それぞれの人の目に映る正蔵はそれぞれに違っている。
あなたの正蔵とわたしの正蔵が違うのは当たり前であって、その先に見巧者云々の話は来るが、これは特定の人間としか交わす気はない。
ややこしい話だからね。

さて、わたしは本日(1月19日)、予定通りに何とか12時半前には池袋演芸場に着いたのだが、すでに立ち見だという。
座席数が93席とはいえ、それはあまりに殺生な、と思いながら入るが、なるほどこの小さな場内、ぎゅうぎゅうに入っている。

まだ、開演前で、前座がやっているところだぜ。

寄席っていうのは、もっとがらがらなものではなかったのかい。
正月中席でも開演前なら座れたはずだが、「ちりとてちん」効果か何か知らないが、これはつらいことになりそうだ。

わたしは、この日、開演後二番目に登場する柳家三三(さんざ)を聴きに来ているから帰りようもない。
1974年7月4日生まれのこの青年は、芸名のごとくいま三十三歳である。

この三三の落語を、生で彼が三十三歳のうちに聞いておこうというのが今回のわたしの眼目でした。
小三治による純粋培養と言われたりする青年で、二つ目のころからその噂は鳴り響いておりました。
純粋培養とは、落研、天狗連などに染まらず、いきなり小三治から落語を教わったというほどの意味ですが、どうやって教わったかは知りません。
また、あの小三治が教えるとも思えないのですが、皮肉も込めてでしょうか純粋培養などという人も多いようです。

この日の三三の演目は「しの字ぎらい」。
なるほど達者でした。
達者でしかも線が細くない。

ここんところが肝心なところで、いくら達者でも線が細い噺家はそれより先にいけない。
これが、ここまでのところ、300年にいたる落語の歴史の事実です。
と、わたしが申しておるのです。(怪しいですかな?)

ですから、達者なあるいは器用と言いましょうか、そういう噺家は線をいかに太くしていくかが勝負となってきます。たとえば……なんていううまい人とかはね。

高座を終えて帰っていく姿にもすでにある種の風格をもっていた三三ですが、夜の部で「しの字ぎらい」と若干かぶる「かつぎ屋」を柳亭市馬がやったものだから困った。
市馬にやられるとその技量が別様に見えてくるところが落語の恐ろしいところで、その意味で落語は同じ話(ストーリー)でありながら、まったく違ったものとなるという恐ろしさがある。
それは、聞き込んだり、寄席に足を運んだり、物の本を読んだり、自分で考えたりしてはじめてなんとなくわかりだすことで……そんな苦労までしてやることかい? なんて思われるかもしれないが、ご自身もなにかの分野で表現に携わっておられるなら、これが大きな財産になる。

別に、楽しみたいだけなら、ただ楽しんでいさえすればいいので、それはそれでとても素敵なことではないですか。
問題は、ちょいかじりの専門家気取り。
曰く、「俺はクラシックには詳しい」
曰く、「俺はクルマには詳しい」
曰く、「俺はそばにはうるさい」
…………

ほんとうかい?

だいたいが、何かの世界に入っていったものはそういうことは言わないものだと思うんだが…
入っていったものは、入っていったことで自分の未熟さが次から次へと見えてくるもので、自信などが顔を出すのは、北欧の太陽の1000分の1くらいのものですから、自慢なんかするわけがない。

してからにして、ほんとうかい? 

さて、落語談義はさておいて本日のいくつかの名演だけ記しておきたい。

さん喬「時そば」…わたしはこれほどの「時そば」を見たことはない。
小三治「野ざらし」…今日の小三治は乗っていた。わたしの見た小三治の中でも傑出したもののひとつだっ           た。とはいうものの、この人のやるものはたいてい傑出している。
権太郎「代書屋」…明らかに枝雀を下敷きにしているが、越えているかも知れない出来だった。よくここまで         練ってきたと思う。枝雀が生きていたらこの「代書屋」にどう返したか。あるいは、枝雀         の「代書屋」を生で見たことがないわたしが、それを見たとき、枝雀恐るべしと思ったの         だろうか。久しぶりに高座に枝雀を見た。枝雀よ永遠に。

ほかにもあげるべき高座は数々あれど、あまりにもご退屈でしょうから、このへんで。
かさねて、ご退屈さまでした。
どうも、あいすいません。

あ、それからさ、わたしは結局12時半から16時50分くらいまでの昼席を、つまり4時間以上の間を立ち通しだったのね、そしたら、あちこち痛くなって、昼席の後、空いた席に座ったら、あんまり楽で夜席の最後まで見てしまったのさ。
帰る際、はっきりわかったが、ふくらはぎが痛いのよ。
たった4時間程度立っているだけで、だって、そんな仕事、山ほどあるでしょう、4時間どころじゃなくてさ。

情けないね。
もっと、身体鍛えなきゃね、ご同輩。

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2008年1月18日金曜日

いいことは、ときどきあればいいさ


昨日は、虎ノ門へ。
本日は、打ち合わせと痛い右足を引きずりながら歩いて出かけるのだが、痛いばかりではなかった。
いいこともそれはそれであったわけさ。

第一に痛さで寒さを忘れる。
電車で座れたときのうれしさに心底ほっとする。
それに昨日と今日で二冊の本が読めた。

昨日は、渡辺明「頭脳勝負」(ちくま新書)
いい本だった。
渡辺さんのブログは有名だが、その更新の頻繁さが、彼の文章力を高めた。
力を抜いた文章で、将棋を知らないひとにまでその魅力をよく伝えていた。

手にあれば 桂馬打ちたし 姉妹(あねいもと)

この本を読めば、このような句がよくわかるだろう。

さらに今日は、山下大明「森の中の小さなテント」に出会った。
名著といってよいだろう。
屋久島に長く通った写真家の文章と写真だ。

たとえば、その国ならば、あるいは都市ならば一週間の滞在者は一週間の滞在者としての眼でその場所や人や習俗を描けるだろう。
一年ならば一年なりに、三年ならばそのように、そこに半生住みつけば住みついたように、そしてその場所の住人ならば住人として。
それがわたしの思いであったが、それがみごとに覆された。

ある種の愛や交流がその土地となければ書けないのだった。
それは期間とは別の話のようだが、そのような愛や交流のためには時間を必要とするのだ。
そのことを教えてくれた屋久島を慈しむような文章だった。

人もまた、そうかもしれない。
だれかではなく、長く人そのものと交流を続けているうちにわたしにも慈しむような眼が、あるいは芽がうちに存在するようになっていた。

そういうわけで、この二冊の本以外にほんの二人ほどの女性にも出会ったが、おそらくいままでは気にもしなかっただろうその人たちに暖かさを感じたのだった。
たとえばそれは薬剤師のお姉さんであったり、本屋の売り子さんだったりしたのだが、その人のありようをとらえるわたしが変わってきているのを感じた。
もちろん、それはその人のいわゆる外見とはまったく違ったもので、そのことに妙に幸せを感じたのだった。

そして、そういうことに、数時間の外出の一瞬にでも出会えることで、いいことがあったとしみじみ思うわたしがいたのでした。

だからさ、いいことは、ときどきあればいいさ、と夜道を足を引きずり、引きずり家路についたのでした。

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2008年1月17日木曜日

一月二乃席は寄席に行く

昨日16日は心療内科、今日は虎ノ門病院、明日は仕事の打ち合わせ。
これでは、寄席に行く日がないではないか。

一月の二乃席は20日までだというのに。
だったら11日から(二乃席の初日)いままで何をしていたのだ、とお聞きになりますか?

呑んでいたのですよ。
間抜けな顔して、ババンバンと。
それゆえ、今朝から痛風の発作が出てしまった。
それが頭痛、いや右足親指付け根痛の種なのだ。

とにかくそれでも行こうとしている寄席のラインアップを見てください。

わたしなら池袋演芸場へ痛みをこらえて出かけてみる。
何しろ一朝は出る、市馬は出るし、もちろん下痢症の風邪が治った小三治師匠もお出になるだろう。
それから三三も…こりゃあキリがありませんな。

ま、それくらい一月二乃席は充実しているのです。
これ、ほんとにほんと。

いタタタタ、では、このへんで。

…………… 末広亭 ……………

--- 昼の部 ---
あさ / はる / ゆう / まさ / 歌る美 / 花いち / 市丸 / 歌五 / 生ねん /
/ きん歌・歌彦・あし歌
12:00 にゃん子・金魚 / 多歌介・歌雀 / 若圓歌・歌る多 / 小満ん / 美智 /
小さん
1:00 文楽 / 伯楽 / 元九郎 / 志ん輔 / 歌武蔵
2:00 さん喬 / 小猫 / 圓菊 / 馬風 / -仲入り-
3:00 歌司 / 扇橋 / ゆめじ・うたじ / 雲助 / 花緑
4:00 小円歌 / 圓歌

--- 夜の部 ---
えり / しず / けい / 緑君 / 志ん坊 / 玉々丈 / 歌ぶと / ごん坊 / /
こみち・三之助
5:00 世津子 / 扇遊 / 志ん五 / 圓丈 / 小雪
6:00 はん治・〆治 / 権太楼 / 金馬 / のいる・こいる / 川柳
7:00 圓蔵
7:15 -仲入り- / 太神楽社中 / 一朝 / 小袁治 / 志ん駒 / 正楽
8:30 小三治

…………… 池袋演芸場 ……………

--- 昼の部 ---
その / ぽっぽ / 市朗 /
12:30 花ん謝・ろべえ / 一琴・禽太夫 / 三三
1:00 ロケット団 / 燕路・福治 / さん八 / 扇橋 / アサダ二世
2:00 花緑 / 小里ん / 小円歌 / 小さん / 文楽 / -仲入り-
3:00 喬太郎 / 志ん輔 / さん喬 / 小雪
4:00 小三治

--- 夜の部 ---
ふゆ / 一左 / 左吉 /
5:00 たけ平・鏡太 / 圓十郎・仲蔵 / ホームラン / 菊丸 / 圓鏡・竹蔵 / 正朝
6:00 太神楽社中 / 富蔵・半蔵 / 一朝 / 志ん橋 / 正楽 / 志ん五
7:00 -仲入り- / 蔵之助 / 白鳥 / 市馬 / 権太楼 / のいる・こいる
8:10 圓蔵

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2008年1月15日火曜日

1月5日 老梅庵にて



ひがな一日、陋屋の二階の日向の中にいて、陽が沈めば薪で風呂を焚く。
そのように一日を陽光と炎に囲まれて父母亡き家にいれば、否応なく彼らが舞い降りてくる。
わたしは、墓参りよりこの家にいてしばし過ごすことのほうが大切なのではないかと思い出し始めている。
わたしにとってのスローライフとはそのようなものなのかもしれない。

しかし、そういつもいつも陽光と炎の間を行き来しているわけにもいくまい。
前のブログに書いたように5日の日にもひとに会った。
彼とは必ず「老梅庵」に行くことになる。
この地方都市の代表のように寂れてしまった三重県四日市市にある日本そばの名店である。
昨年の九月、日経新聞が取り上げているので、もしや知っている人がいるかもしれない。

いい店の条件は三つある。
「うまい」「やすい」「客がいない」
最後の条件は、店が困るだろうが、客にとってはこれほどいいことはない。
その日は、「祭」とい四日市では名だたる居酒屋の名店を経由してこの店を訪ねた。
堀木さんという青年の打つそばは相変わらず、うまくて安い。
それに酒がそろっているし、肴も振るっている。
まあ、どこに出しても恥ずかしくない店だろう。

その店で、高校時代からの友人と酒を傾けて、落語の話や彼の仕事の話を聞きながら、堀木さんや若女将と話すのは至福の時間だ。
わたしは、酒を飲むときにつまみは食べないのだが、この店のものは食べる。
うまいものは食べるのだ。
好奇心だけは残っているからさ。

そういうわけで、酒を飲み肴を食し、そばを食い、いいご機嫌で家に向かったというわけだ。
こういうときは、電話をする。
隠していたが、わたしは稀代の電話魔だ。
べらべらべらべら、いつまでも話している。
そういう意味では、酔ったときには携帯は便利だ。
勝手な男というわけさ。

そして、あまりに名残惜しかったものだから、わたしは翌日も「老梅庵」にでかけ、そば焼酎のボトルを一本開けることになる。
酒は、うつ病の劇薬、ずいぶん楽な気持ちで廃屋のごとき我が家に帰っていった。

そのときこの三重で見つけたごぼう焼酎なるものを一本携えて帰ったのだ。
今回の帰省でわたしは、このごぼう焼酎なるものを三本あけた。
ほかに、コメ焼酎二本、三重の名酒「宮の雪」を一升。
まあ、わたしとしてはひかえたわけだ。
そのため鬱も落ち着いたし、抗不安剤も飲まなかった。

問題は、東京に戻り酒を止めたときの問題だ。

まあ、いいこともあれば悪いこともある。

そういうものだ、人間のやることの生み出すものは。

さて、それはそれで、わたしは二、三の事務的作業を終えれば東京に戻れるようになったのだが、なんともそれが切なくてね。
今回は、しみじみこの場所に住みたいと思ったのでした。
出来れば、年に半年くらいは。
このくらいの夢はかなえさせてはくれないものだろうか。
東京に向かうとなると心がこんなに切なくなるのだものね。

ラベル:

1月4,5日  そして携帯のこと


4,5日は街で知人と話す。
わたしのうような者と話してくれる人がいるのは、望外の幸せだ。
寂しさも一時的には消える。

4日には、年末より故障していた携帯を買い換える。
修理には、一週間以上もかかるのだから、致し方ない選択だろう。
しかし、日常生活で起こる断線が原因とは、あまりにもお粗末だ。
応対の気のいい青年を怒る気にはならなかったが、無駄な出費だ。
東京で本社の苦情係とでもひと悶着する気になっている。

およそわたしは携帯が好きではなく、あの懐に直接飛び込んでくるところが、なんとも恐ろしい。
今の若者が好んで持つのは、実は、この懐に飛び込んでくる感覚がよいのではないのだろうか。
それは一種、眉唾であっても架空の親しい人間関係を創出する。

いわく「いまどこ?」なんてなことだ。

現代の人間が他者に敏感であるのは、すでに社会学者たちが言い始めている。
敏感であるがゆえに他者を恐れる。
恐れるがそれでも求める。
結局他者が自分と異質なものであるのは限りなく真実なのだが、どこかに自分と同じような自分にとってとても都合のよい誰かを求めてしまう。
だが、その異質性にぶつかったとき、彼らはあわてる。

携帯もインターネットもそのように他者を自分にダイレクトに引き込むこと、あるいはダイレクトに他者の内部に入り込むことをそのもっとも大きな特徴としている。
他者へのいびつなあり方は、2チャンネルや掲示板での学友に対するいじめとして象徴される。

そして、それは、食品の偽装問題にもかかわってくる。
この考察は大澤真幸氏に詳しい。
彼によれば、あの偽装食品は、内部に飛び込んでくるといった意味で、携帯やインターネットを思い出させるメターファーなのだという。
なるほど、現代の他者とのかかわりに対する考察として、一考に値する。

賞味期限などどうでもいいことなのだが、なぜにあんなにぎゃーぎゃー騒ぐのかと思っていた。
確かにマスコミがあおったこともその大きな要素のひとつだが、内部告発にしてもなんにしても、それほど現代は他者に敏感になっている時代かもしれない。

そのくせ、その他者を国民とか大衆とか言い換えると他者性はきれいに捨象されていく。
実際、国民も大衆もどこにも存在しないことを考えればそのことは容易に気づくことができる。

薬害肝炎や年金問題は、そこにはいない他者に対する配慮だから、あれほど無体なことをする。

「そのような無体なことはおやめくだされ、代官さま」
そう言ったところで届きはしない。
選挙が困るからな、程度の判断で動くに過ぎない。
そこには、具体的個別的な人間は存在しないのだ。
血も通わぬ、抽象的一般的な人間がいるに過ぎない。
それを国民と呼んだり、大衆と呼んだりする。

それがいやで、あなたは今日も携帯にしがみつくのではないのだろうか。

他者とは何か?

なんだろうな。
それは、血の通ったあなたの手のひらではないのでしょうか。
だとすれば、それはどのようにあなたに対し、この世界に対し動いていくのだろうか。

小田実さんならこういうだろう。

あんさん、えらいたいそうなことをおっしゃいますな。
それで、わたしはどないなりますのや。
あんたはどないしますのや。

わたしもこう答えるしかあるまい。
さっぱり見えませんな。
けど、まあ、考えていろいろ動きましょうや。
よかったら、あんたもいっしょにどないです?

いつでもまいるが、今日もまいった結論です。
すんませんな。

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1月3日 父母亡きこの屋に一人いませば…

夜一人で酒なんぞを飲んでいると俳句や歌をひねり出そうとしてしまうではないですか。
けして達者なものではないのですが、いくつかを載せさせてください。



忘却の 河より帰る 父といて 静かにつもる 今朝の初雪

汝がそばに 落ちてなお咲く 寒牡丹

迷い道 たれ教えずも 富士の裾

凧高し 風なき朝に 粥と妻

亡き人も しばし佇む 冬の夜

風よりも たしかなものが 我といて か細き声と 触れる指先

声なくも 涙ゆきすぐ 汝が瞳 連れ添う祖国 棄つれ我がため

かなたより かなたに吹ける 風ありて 故郷の空は 碧き速度よ

風呂焚きて 一夜の酒に 備えけり

海老ドリア 作りし女 我にいて 国立の朝を 男と過ぎゆく

あばら家に 我も入りたり 冬柩

迎えおる ひとなし送る ひともなし 哀しい静寂 冬の陽はある

冬の蝿 母と思たり 父と思たり

ひとたびは 母と添い寝に 逝きにけり

寒き風 震える我と あばら家の 間流るる 不可逆の時

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2008年1月13日日曜日

1月2,3日

で、元旦から何をしたかと問われれば、何もしていなかったのだよ。
ただただ、活字を眼にして、読んでいたにすぎない。

さて、起きはじめたのは三日のこと。

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初詣

三重県、四日市市には「諏訪大社」という神社があって、この日わたしは、そこに行こうとしていた。
初詣だからさ。
にもかかわらず、うだうだ部屋で過ごしたのは、一重に俺のせいであり、この手にあるのが、俺の人生であることの証明だ。

てなことで、部屋に横になっていたのだが、思い出すのは、あるいは思いださせるのは、母の作ったてんぷらだ。
わたしは、彼女が揚げるそばから食って、ぐびぐびビールを飲んだものだ。
あの人は、ときどき心配げに「大丈夫」と聞くのだが、そのくせ何も心配はしていないのだ。
わたしの傍にいる限り、「大丈夫」と言っていたのだった。

なつかしき、あの魚肉ソーセージのてんぷら。

同じ魚肉ソーセージは購うことはできれども、同じてんぷらは作れまい。
母は平成2年に身罷った。

哀しき、事実、わたしはそれと向き合うしかない。

できれば、この家を若者の声で滾らせたい。

それが、わたしのことしの唯一無二の願望だ。

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1月1日

時は過ぎ、新しい年が来ていた。
しかし、わたしの欝はひどく、ふとんに包まっていたのだ。
この場所は、暖かく、来る人とてない絶好の場所であるのだ。
いとしい女をそばになどという気力もわたしにはなかった。
そのようにして一日がすぎていくのだが、
それでも炎と向き合うときは来る。



それがわたしにとっての脅威であり、私自身だったのです。

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12月31日  わがいとしき妻へ

このように一人でいると、ふと、いとしき妻のことを思ってしまうではないか。
いろいろと文句もあるが、それはすべてわたしのわがままから出たものだ。
彼女のことをけなげと言おうか。

我妻はけなげなり。

わたしは、何とかして、その女に笑顔を贈らなければ。
そのように思っている。
精神に病をもっているこの男にしてもなおだ。

で、大晦日のこの日、彼女に長い手紙を書いた。
伝わるかどうかは、わたしの問題であり、彼女の問題である。

かくのごとく、誰かとともにあるのは難しい。

とにもかくにも、いとしき人をそばに置きなさい、わがF山くんよ。

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2008年1月12日土曜日

大晦日そして新年まで

そのようにして、わたしの2007年は暮れていきました。
むかしをなつかしむように「毒猿」や「山猫の夏」や小田実や梅原猛や「AKIRA」や「火の鳥」を読みながら、うだうだと。
その間、頻繁にこの家の埃にむせながら…
そのむせるわが身を、ある種の意趣返しを受けているのだなあ、と思いながら…

そのなかで、ああ、この世はやるせない、と思ったそのときから、この家でわたしは鬱に入っていったのです。

今年もよろしく何ぞとはとてもいえない気分でした。
わたしの右手には、残り少ないマイスリーとサイレース(催眠導入剤と催眠安定剤です)があり、それを酒で流し込んだのでした。

それが、わたしの昨年の暮れであり、今年の始まりです。

この田舎には、除夜の鐘が鳴っていました。
ゴーン、ゴーンと鳴る音をしばらくは何者かが追ってきているかのように聞いていたわたしですが、そのうちに、ああ、これは除夜の鐘だとわかりました。
そのわかるかわからない間にわたしは、今年最後の眠りについたのです。
酒と薬の力を借りて。

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12月30日


さて、そのようにして、29日、わたしはだらだらと眠ろうとしたのですが、長くは眠れませんでした。
その夜、旧友と会う約束をしていたのですが、それを許してもらって、わたしはだらだらと寝床の中にいたのです。
時は過ぎ、29日は30日へと移っていきました。
その間手元に引き寄せたのは、この家においてあるすでに読んでいた何冊かの本で、こういう本は懐かしさに惹かれて何冊も読んでしまうものなのです。
読んでは眠り、眠っては読み、そういうふうにわたしの30日は始まり、そのまま大晦日に突入して行くのでした。

あげておくべき大きな出来事は、その日30日のフロです。
わたしの父は、今考えればいい奴で、平成16年のなくなる12月17日まで、正確には彼がそうしたであろう12月初旬までフロを薪で炊いていたのです。

わたしも彼を見習って、その日、30日にフロをたくべく火をつけたのでした。
わたしが、故郷で炎と向き合う最初の日でした。

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2008年1月11日金曜日

1月7~9日 模倣犯


ごたごた動くことが嫌いで、ただじっと陽だまりにい、本を読みながら、はるか向こうの山やすぐ手前の枯れ草を見、ぼんやりとしていることに至福を感じるようなところがわたしにはあって、いつまでもそうやって過ごしたい気分だったのだが、そうもうまくはいかず、いくつかの故郷での用事をこなすうちについに一月も上旬が過ぎようとする9日になってしまい、東京に戻るはめとなった。

東京に帰らなければならないと思うと同時に暗い気持ちになり、何の因果か帰る前の7日の夕方から帰る9日一杯をかけて宮部みゆき「模倣犯」を読むこととなった。
ずいぶん前に古本屋から200円で買い求めはしたが、ずっと放っておいたこの本は読んでみると、なかなかの本であった。

書かれているのは「人間と人間の関わり」であり、それにおどろおどろしい事件がのっかっている、そういう形になっている(わたしの見るところ)。
宮部さんの「人間と人間の関わり」に関する描写は、わたしの認識と一致する部分が多く、彼女がどこでこんな眼を持ったのか不思議に思った。(わたしがそれを得るために歩いてきたあまりにも遠い道のりを考えるとき)

作家の眼というものがあるのだな、しみじみそう思った。
彼女のあとがきにあるようにその眼は多くの人に教えられたものなのだろうが、その多くの人の視点をわがうちに取り込むことのためらいのなさに「なるほど」と感じ入った。
ある人の視点を取り込むことは、自分がいままで形造ってきた自分を壊し再構成しなければならぬ危険性をはらむだけに、多くの人はそれを毛嫌いするようなところがある。
まさにそれが生きることなのだろうとわたしは思っている。
つまり、自分にとっては未知のもの、自分とは異なるものを内に引き込まず、排他することで自分を守り、そうやって自分の今の状態を続けること、それが生きることなのだろうとわたしは思っている。

もっとも、わたしはそういう生きかたを選んでいないが、それはわたしの勝手にすることで、うまく生きることとは外れている。
いたし方あるまい。
しかし、作家はいとも簡単に未知なるもの異なるものを身のうちに引き込み、その視点を描き得るのだ。
「模倣犯」はその意味で驚かされる部分が多い。

原稿用紙3551枚の分量は、小説を書く際の手法、視点のとり方を際立たすために要した枚数である。
つまり、「模倣犯」を書くに当たって、宮部さんはある試みをした。
一見、三人称多視点という小説を書く方法をとっているのだが、この小説にあってはそれが大掛かりなのだ。
そのために小説のストーリー進行だけならもっと枚数が少なくても終わったはずなのに、こんなに大部になってしまっている。
詳しくはここに展開する余裕はないが、この小説は、大雑把に言えば、あるおどろおどろしい犯罪を被害者の側から、犯人の側から、それを描くジャーナリストの側から書いている。
有体に言えば、事件が重層的に描かれているわけだ。

そして、同じ内容を繰り返すこの手法がそれでも淡白なものにならないのは、その中心に「人間と人間の関わり」がすえられているからである。
視点が変わるとき、それぞれは三人称一視点をとり、それぞれの視点からその人生をあるいはその人生のある部分を切り取る工夫がなされている。
というわけだから、この大部の小説は三つくらいの単行本が寄せ集められていることになっている。
それだけでなく、傍らの登場人物に関してもできる限り肉付けしようとしている。
それはもはや死語となってしまったかもしれない「全体小説」を思い出させるといってしまってはほめすぎだろうか。

とにかく、ある志を持ったこのエンターテイメント小説「模倣犯」は、人はそれぞれに違い、それぞれの違う思いをもっている。そして、ときとしてその違う人間同士が触れ合い助け合うことができるということが書かれている。
どのように触れ合うことができるのだろうか、という問いをお持ちの方ならば読む価値は十分にあるが、そうでなければ読まなくてもよい長さである。

人はそれぞれに違う。

このことは大切な認識だ。
だからこそ、人はたやすく人に意見することは出来ない。
それが、好意から出た意見にしろ、違う人間に対して意見することの剣が峰を歩くような危うさを知らぬ者の意見は軽薄だ。

もちろん最初に書いたようにそれがその人の生き方だからそのことに難癖をつける気はもうとうない。
ただ、そんな有り様では、ほんとうの触れ合いなど出来はしないのだろうとわたしはそう思っている。

数少ない触れ合いに出会ったとき、あるひとは酒を酌み交わしたくなるものだ。
そういう夜をだれにも汚す権利はない。

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2008年1月10日木曜日

さらに12月29日 わたしを待つ人

待つ人のいない故郷とは言ったが、それは空っぽの家の中でという意味で、その家の外には待っている人が、少しはいる。
わたしだって生きてはいるのだから。
ただ、「芸が身を助けてはくれない」だけのことだ。

「こだま」のなかでは3時間の道中、ほんの一時間ほどうとうとした。
それで、少しは身体が何とかなると思ったが、日頃の不摂生となにやら知らぬ神のごときもの、それは神様よりずっと下世話なものなのだろうが、そういうものたちの怒りもあって、やはり、一時的にしか身体は回復せず、まいった、まいったと思いながら名古屋からは私鉄に乗り継いだ。
東京駅から起算していたのだが、そうするとうまい具合に10時くらいに目指す駅に着くのだ。

うまい具合?
そうそう、ちょうどスーパーやなんかの店が開くころにうまい具合にさ。

私鉄の幹線からわたしの空っぽの家を目指す支線乗換駅でその人は待っていてくれた。
空っぽの家の近くには寂れたスーパーがあるだけですごく買い物に不便なんだ。
だから、親切なその昔馴染みはわたしの買出しに、この田舎の小都市でクルマで対応してやろうというわけだ。
「ありがたいな」と思った。
世間の寒風に吹きさらしのわたしはね。
身を助けるだけの芸もないしさ。

「湯豆腐や いのちのはての うすあかり」

というところか、大げさに書けばね。

そうして、わたしは必要なもの――ちょっとした家電とかわずかな食料と飲料水そして適度で適正な量と品質の日本酒と焼酎と缶ビールを買い込んだ。
その後、「老梅庵」という鄙にはまれな蕎麦の名店でふたりは食事をした。

そこからわたしの家までは、クルマで20分ほどだ。
買い物とクルマの移動。
駅前で出会ってから、「わが冬の棺」への到着まで、私たちはいくつかのことを語った。
そのなかで、わたしはその人に「自分が気の弱い人間」であることも語った。
そのとき、その人は笑いながら言った。

「今ごろ気がついたの。そんなん、ずっと前からわかっとったよ」 

わたしは驚きながらその発言の正しさと、さらにもう少しのことを唐突に思い出した。

わたしはこの人に言うべきことを怖気づいて語らなかったことがあった。
そうでなければならないことをしなかったことがあった。
今ごろになって、いくつかのことを語っているが、わたしはそのようにおびえながら触れるべきその人の手に触れたこともなかったのだ。

いやはや。
過去が撃ち返している。
この人の好意はそれでも存在してきた。

「ありがたい」ともう一度思った。

だめな人間がだめなままそのほとんどすべてをある人に受け入れられたとき、感情転移までしてしまうではないか。

疲弊しきったわたしが、疲弊しきった我が家に荷物を運び込むとその人は車で戻っていった。
「年賀状も今日中には何とかしなきゃならいしさ」

わたしは、埃をかぶった家の一階を通り過ぎ、さらに二階に上がりそこにも埃と煤のたまった様子を見た。
久々に雨戸を開けた二階は、少少の悪意と圧倒的な無防備さで迎える母と父がいた。
それは霊と呼ぶには、あまりにもわたしに対して親しげだった。
ただ、かれらは何も話しかけはしてこなかった。
いや、わたしには聞こえなかった、そういうほうが正しいかもしれない。

とにかく、わたしはそそくさと布団を敷いて埃と煤と彼らのなかで眠ることにした。

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12月29日 帰郷


わたしが故郷に向かったのは、去年帰郷ラッシュのピークといわれた12月29日だった。
まあ、帰郷といってもいろいろあってね。
わたしのように、待つ人もいない空き箱の中に、あるいは冬の棺の中に入り込むための帰郷もあるわけさ。

故郷へ送付する何箱かの配送準備と手に持って帰るリュックの荷造り―― というか何をもって帰ったらいいかの選択にえらく時間がかかってしまい、そのまま眠らずに最寄り駅の始発、たしか午前4時39分に飛び乗ったのだ。それから、新宿なんかを経由して東京駅に着いたのが午前6時前。

そう言えば、その途中の新宿駅の上りと下りのエスカレーターがすれ違うとき、新宿・思いで横丁「埼玉屋」の野谷店長に声をかけられた。
ああ、最近ご無沙汰の「埼玉屋」にも来年は顔を出さなければと思ったっけが。

で、その東京駅が雑踏の渦。(写真は違うよ。これはもうすぐ皇太子様がいらっしゃる静かな東京駅)
東京の推計人口(平成19年12月)は、12,804,869人。
早朝からの雑踏を見ながら、わしゃ、とんでもないところ住んでいるんだと思ったさ。

それで、どれもこれも座れそうにない東海道新幹線のなかで、唯一ゆったりとした午前6時過ぎにでる「こだま」に乗ったというわけなんだ。
正確には6時23分東京発、名古屋着9時18分の「こだま561」16両編成(300系車両)にね。

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2008年1月9日水曜日

遅すぎる謹賀新年


ようやく東京のパソコンの前にたどり着きました(1月9日夜)。

年末年始は、毎晩、薪で風呂をたきながら、炎の有り様を見ていました。

そのまえに、炎にするまでの手間もなかなか大変です。
大きな木を薪にしなければならないし、炊きつけも紙から木っ端、それから徐々に大きなものへと。
急ぎすぎれば消える。

そうやってできた炎を毎夜見ていました。
いろいろなものが去来し、いろいろなものがわたしを覗いていきました。
そして炎をわたしが見るように、炎もまたわたしを見つめ返すのでした。
ちろちろと姿を変えながら、あるときはなまめかしき女のように、あるときは豪胆な男のように。

そんな炎を10日間も眺めていれば、人間、少しは変わるよ。
自分で炎を呼び出し、暗い中、そいつと二人でいたなら、そりゃあ変わるよ。

今年も、ぼちぼち書いていきます。

お見捨てなきよう、よろしくお願いします。

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