2009年10月30日金曜日

一日一生

酒井雄哉大阿闍梨の言葉をこの本をぱらぱらと眺めながら接していると、いろいろと考えさせられる。
別に酒井阿闍梨は難しいことを語っているわけではなく、今まであったことを心の中にとどめ、それを語っているのだが、なるほどそういうものかと思ったりもする。

ただ一つぶれないのは生きていたほうがいいだろうということで、そのあたりはわたしにはまだ届かない話なので深くは語れないが、ああそうなのだろうなと思うだけである。

けれども、死とはまったく無縁かというとそうでもなくあの有名な千日回峰行は不退行で途中で投げ出すことは出来ないとさらりとしゃべる。
投げ出せないから、そのときは自害することとなりその準備として死出紐と宝剣を回峰行の間中、身につける。

死は身近にあるけれども急ぎなさるなといったところか。
思いつめて言えば、死を急がぬにはどのようにすればよいのかをやさしげに語っているのがこの本でほかには別に何も変わったことは書いていない。

その語りが教行一致を枕として浮ついていないものだからそういうものなのだろうと自然に思えるだけだ。

知の先行した分析に薄っぺらさが感じられるのはおそらくそこに行のないせいだろう。
そういうことを感じられる本だ。
もちろんのことここでもまた読者が試される。

思ってみれば、いつも試されるのは読者の側だなあ。

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怒髪天

怒髪天/労働CALLING や 怒髪天 - 酒燃料爆進曲http://www.youtube.com/watch?v=sUfM9sMdfw0&feature=relatedを見たり聞いたりしていると生きている感じがしてくる。

いい楽曲だと思う。
この歌が人生の付属品じゃない気がしてくる。

こういう歌があってもいいな、あると助かる、そんな風に思える。
おしゃれな歌だけが歌ではないし、生きていることとただの恋愛は違う。

もちろん生きていることと同義の恋愛はあるだろうが、それ以外にも多くの生きていることと同義のことはある。
そんな風なことを思い起こさせてくれる楽曲が好きだし、怒髪天は好きだ。

いい声だと思うよ、増子さん!

ラベル:

2009年10月29日木曜日

加藤和彦について

加藤和彦について有象無象がいろいろのことを語っているが、彼の自死を自分勝手に解釈し、その解釈をさも立派な正解のように語っているのを見ると唖然としてしまう。

もちろんそのように語り手は解釈してもいいのだが、それはただただあなたにとってそう見えるだけで、手前勝手なお話しにしか過ぎない。

加藤和彦は逝ってしまったのだからもう応えることは出来ないが、少なくとも彼はそういう問答をあなたちに欲したわけではない。
不意に消えてしまいたくなっただけのことだ。

不意に消えたいと思うのは、生きている実感がなくなったというか、生きている自分がただふわふわと浮かんでいるに過ぎない泡なのだと思い、その泡でいることにイヤになったのだろう。
もちろん、そう想像しているわたしがいるだけで、これが正解でもなんでもない。

ただ、わたしは常に加藤和彦側の人間であるのだから、彼を悪くは言わないし、そういう議論で彼の死をもてあそぶやからが好きではない。

彼の死にも多くの問題が横たわっており、それは出典を隠して単なる問題として議論すればいいことで、そこに加藤さんの名を持ち出すのは生きている側の不遜だ。

人は自ら死を選び取れるし、死を選び取ったことを批判されるような哀れな存在ではない。

選び取られた死に対し、われわれは嘆くしかなく、もし嘆くような関係を生前彼と結んでいなければ、そのときは黙っておくものだ。
人の存在がいかに不安定なもので、何によって支えられているかも考えていないガキがうるさいんだ、と思ってしまうではないか。

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砂の器


気になってきたので、「砂の器」に目を通した。
そうすると、この小説、実に丹念に書き込まれているのである。
以前は、橋本忍の脚本により立ち上がったに見えた小説だったが、そうではなかった。
小説としてすでに出来上がっていたのである。
調査したものたちを小説のあちらこちらにちりばめ、その情報量の多さを誇るようなことはしない。
なんとまあ、あの男が謙虚なことか。
小説を書くということに関しては、松本先生、実によく知っていらっしゃる。
そして感動に関して禁欲的だ。
これが、映画とのもっとも大きな違いだろう。
寡黙、禁欲にして感動的。
小説とはこういう世界だったと改めて教えられる。
数多くの問題がその中に封じ込められた名作といっていいのではないだろうか。
もし公言すれば、多すぎる問題を含んでいることが欠点になるのではないかということだが、これは実は作家よりも読者の問題なのだろう。
映画と小説との違いを改めて教えられた。
あの性格の悪しき男に感謝したい。

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2009年10月21日水曜日

邂逅の森

「邂逅の森」熊谷達也は、第17回山本周五郎賞、第131回直木賞をダブル受賞した作品で長く読みたいと思っていたが、時の流れにかまけて読まずにすませてきた本だった。

この本は、強烈だった。
下調べも充実しており、下調べの結果の材料の配置も申し分なかった。

それより何より人が自然の中に生きていることを森の中の生活だけでなく、人々の生活の中に浮き立たせていた。
人もまた、この地獄のような人々の狭間の生活の中で生きているのであれば、ふとした気が抜ける時間があってもいいと思う。

そういう時間が、ときにこの小説の中に現れると、その人間の生の姿態にぎょっとしたり、涙したりする。

それは、人間のやることだから、この作品にも傷があるのだろうが、そういうことを読者は口にしてはならないだろう。
それもこれも濁流のように一気呵成に流していってしまうような本だ。

人もまたお天道様を背負うように生きていければいいのだがな。

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吉田拓郎が語る

ラジオで吉田拓郎が加藤和彦を語っていた。

それは直接的に彼の死を悼むといったものではなく、彼になにを教えてもらったか、彼との間にどのようなことがあったか、そんなことをそれは陽気に語っていた。

イギリスのボブディランと呼ばれたドノバンのことや、ドノバンのギター奏法の音がコピーできなかったときに加藤和彦が「拓郎、あれはさ、ギブソンでないとでないんだよ」と教えてくれたこと。

そのあと、ギブソンのJ45を加藤和彦が持ってきてくれたこと、そのギターがJ45の中でも特別な音を出したこと。(このギターはものによって音が違うらしい)
そのギターをスタジオ録音のときに当時のギター引きたちが借りたがったこと。

音楽のことはよくわからないわたしだったが、始めて加藤和彦がどんな男だったか少しわかった。

それに加えて、安井かずみやニューヨークでのレコーディング、「結婚しようよ」の出来上がるまでの話をしてくれたが、こういう風に亡くなった人を語るのはいいなと思った。

亡くなってしまったらば、何でもかんでもただただ持ち上げてしまうマスコミを思えば、ずいぶん真っ当なオマージュではないか。

いい話だったぜ、拓郎!

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2009年10月20日火曜日

メバチマグロの赤身

マグロにもいろいろあって、並べてみればホンマグロ、ミナミマグロ、メバチマグロ、ビンナガマグロ、キハダマグロ、…とくる。

この中でうまいのがホンマグロで、続いてミナミマグロとなるわけで、通は気取って大間のホンマグロなどと言うけれど、大間のホンマグロがすべてうまいわけではない。

大間にもいろいろあれば、ホンマグロにもいろいろある。

知り合いの魚屋が今日のメバチマグロは特別だ、ホンマグロでもこれにかなうのはそうは出ない、と気合を込めて言うので赤身を少し分けてもらった。

そいつを片手に帰りかけるオレに「出来れば塩で食ってみな、うまいぜ」と言葉を投げかける。

目利きとはいいもので、これが当たった。
うまいことこの上なし。

どこから拾ってきても付け焼刃の知識などはつまらぬもので、目の前のものがいいかどうかは自分の目で決めるに限る。
それが食い物であれば、自分の舌でうまいかどうかを決める。

いつでもその店がうまいかどうか決まったものではない。
打率というものがあり、心意気というものがある。
やさしく見守るには、自分の舌と鑑識眼がものを言う。

自分を信じて生きていきたいものだ。
もう少ししゃれて言えば、自分と付き合いながら生きていきたいものだ。

ところで、その魚屋は信頼すべき目利きで、いつだったかタラを勧めてくれた。

「このタラを食ったらほかのタラは食えない」

と言い放ったが、タラばかりではない、そのタラを食ったあとは、しばらくの間、魚という魚に興味がいかなくなったものだ。

ときにはこんな贅沢もいいもんだ。

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2009年10月19日月曜日

イチローを見る

ふとつけたテレビでイチローがしゃべっていた。
いつもながらふむふむとうなづく。
語っている言葉に感心するのではない、なるほどそのように生きていくものかという生きる姿に感心するのだ。

何もやることがなくなったなら死んでいくのは道理だ。
イチローはそれを拒否する。
拒否というよりは、自分の生きているを虚構を強化する。

彼にとっての虚構は野球であるのだが、その野球は興味のないものにとって何の意味も成さない。
これは対象が何であってもそれに興味を持たないものにとっては同じことで、何の意味も成さないのだ。
そのことが意味を成すには夢を見る力が要る。
何事にも興味をもてない人間は初めから枯渇している人間なのだ。
(オレもそうかもしれない)

とはいっても、夢見ている人間にどのようにすればそのようになれるのかとたずねられるわけではない。
そこがちょいと難しい。

そのように生きているのが当事者で、どうして野球なんぞに人生をかけてやっているのかと思うのが傍観者だからなのだが、ここらあたりの呼吸はわかってくれるだろうか。

傍観者は当事者に対して踏み込んではいけない境界線があるので、それがわからなければしっちゃかめっちゃかになる。
傍観者と当事者は決定的に違い、そこに一個の人間対人間の会話は成り立たない。
成り立たせたいなら、あなたも当事者としてすっくと立ち上がることだ。

で、イチローのことだが、なんとも見事に野球の中にリアリティを築き上げていく。
形容矛盾になるのだろうが、虚構としての野球のリアリティだ。

彼にとって、そういう野球だからこそいつまでも追い求めていける存在として野球はある。
そしてその野球に対する彼の態度は求道者のようでいつしか自分自身に対する問と答で満たされる。

井上雄彦もそうだ。
この二人とてもよく似た顔をしている。
これは偶然ではない。
同じような顔に至る生き方を二人がしているからだ。

さて、そんなことを思っているとあの亡くなった加藤和彦、もしかして大向こうを意識していたのではないかと思い当たる。
そうでなくとも、自分の中で閉じる虚構の系を作れなかったのではないか。

だとしたら、致し方あるまい。
この人生で戯れるには虚構を持つ必要があり、その虚構は枯渇してはならない。
やることがなくなったなどと枯渇してはならない。

なかなか出来ることではないけどさ、愉快に生きていくためには必要だね。
オレに出来るかどうかは別にしてだけど。

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加藤和彦氏死す

17日午前9時25分ごろ、長野県軽井沢町にあるホテル客室の浴室で、作曲家で音楽プロデューサーの加藤和彦さん(62)=東京都港区六本木1丁目=が首をつった状態で死亡しているのを、駆けつけた軽井沢署員が見つけた。
死因は窒息死で、同署は、現場の状況などから自殺とみている。

やることがなくなったのなら死ぬのは仕方がないし、それを止めることは出来ないだろう。
それは今まで書いてきたとおりだが、それにしても死は不可逆性であることが 厳しい。
思い直してまた生きることは出来ない。

早まった死もまた死であることに変わりはない。
そこがわずかに問題として残る。

彼の死んだホテルはジョン・レノンの定宿。
ホテルでの自殺は遺族に賠償請求がいく事があるともいう。

生きている人間にとってお騒がせはお騒がせであるが、それは死者の特権でもある。
会社人の唯一の特権が辞表をたたきつけることであるように。

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2009年10月18日日曜日

新宿で飲む

久しぶりに新宿で飲むことになったものだから例の店へと向かう。
ここにはお気に入りの娘がいて、なんとも店になじんだ草履履き姿でいる。

あんまり見つめていると変態だと思われるから早々長くも見て入られないが、それでも垣間見るたびにいい風景だ。

こういう娘とならば一緒の時間を過ごしたくもあるが、それも距離の問題で、あまり近づきすぎれば娘のイメージは雲散霧消するだろう。
思えば、哀しいほど壊れやすいわたしの心に映る娘なのであった。

そうやって知人と話して飲んでいるうちに妙なものを見てしまった。
娘がネックレスをしていたのだ。

年頃の娘にネックレスとは当たり前すぎるほど当たり前の話なのだが、それに気づかなかった。

人はイメージに恋するとはよく言ったもので、きらきら光るゴールドのネックレスがわたしのイメージを壊すだなんて…、まるでストーカーの嫉妬心をになってしまったようにさえ感じられる。

いやいやこの心情、まさにストーカーなのかもしれない。
うなだれるしかあるまい。

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2009年10月17日土曜日

白イカ

食い物に贅沢をする趣味はないが、スーパーで珍しい白イカを見つけたので食すことにした。

刺身用ではあったが、バターでさっと炒めて喰う。
バターを弱火で溶かし、そこへニンニクと鷹の爪を細かく刻んだものを入れて十分にバターへ味を移す。
あとは一気呵成に炒める。
炒めすぎないのが肝要だ。
出来上がれば、パクつくだけのことだ。
半生でなかなかにうまかった。
久しぶりだな、うまいものを喰うのは。

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作家と人柄

松本清張、生誕100年ということで「ゼロの焦点」が映画化などされている。
ほかにもいろいろ今年は取りざたされた。

わたしもそれではと読み残していた「張り込み」を読んでみた。
あの時代が思い起こされ、清張が言うように推理小説ではないところに魅力が彷彿とされた。

この小説も映画化されているが、そして脚本は橋本忍だが、意外に原作に忠実なものだ。(この映画が清張原作の映画ではナンバーワンだと押す声も高い)
なるほど、この作品が小説としても映画としても主たる登場人物としての女が日常から非日常に連れだされるところがポイントだとよくわかる。(この小説は、推理小説としてかかれてはいなかったのだ)

それにしてもこの女はなぜに生きているのだろう。
胸のうちに何ものかが住んでいるはずもあるまいに。

ところで、松本清張氏の性格の悪さはいくつかのところで噴出してきてわれわれの眼にするところだ。
まことにあの根性の悪さといったらない。

手塚治虫にもそういうところがあり、そのことをある漫画家に話したことがある。
つまり、その人品が卑しかろうがなかろうが作品には関係ないのだと。
その漫画家、「あたりまえだ」とのたまわった。
わたしもそのときはそうだろうなと思ったが、今は違う。

いかにいい作品群と呼ばれるものを産み出そうともケチをつけたくなる気分だ。

そこに、人間への深い洞察がないのではないのかと。
あんなに他人へひどい仕打ちが平気で出来る連中には深い考察は無理ではないかという、あるいは無理であってほしいという乙女心だ。

乙女でもないくせに。

ところが、どうして、あの二人、人間を見つめる目も深く、作品もなかなかに深いのだ。

あんな性格の悪い二人が…

悔しいが、あの二人、そのまま、認めざるをえない。

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2009年10月16日金曜日

気散じ

生きていることだけを目標にするならば、生きているに限る。
当たり前のことだが、冗談を書いているわけではない。
生きるということは、まさに生きている状態を維持することに尽きるのでほかのことは考えてはならない。

ほかのこととは、こんな状態で生きていてなんになるといった類のことだ。
そんなことを考えていいわけがない。
いつも語るように我々にとって生きていていい理由などどこにもないからだ。

逆も真で、だからといって死に向かうことが正しいわけでもない。

せっかく産まれてきたのだから、何でもいいから見つけて暇つぶしをしようぜといったところだろう。
その暇つぶしをここでは気散じと呼んでいる。

城戸朱理さんのブログを読んでいて(http://kidoshuri.seesaa.net/)、とても大変そうなこととそれに向かい合う意思の潔さに感化を受けて上のようなことを書いてみた。

なに、こんな風に書いているが、わたしだってこの身をかき消すように死んでしまいたいのだよ。

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囲碁界に天才出現


第22期竜王戦は渡辺明の先勝で始まった。

また、強くなったという感じがする。

彼は、この二日制のタイトルに関してはすでに自信を持ってしまったのだろう。
何か余裕さえ感じられる。
ところで、昨日はこの竜王戦、渡辺明以上に耳目を集めた人がいた。
囲碁界における井山裕太新名人の誕生だ。
井山は昨日、張栩を破り、最年少でタイトルを獲得した。
この井山という青年は囲碁界の最年少記録を次々と書き換えていき、とうとう名人まで上ってしまった男だ。
張栩の巻き返しがあるかどうかが今後のポイントになるが、この新星の出現で囲碁界も一挙に騒がしくなる。
井山裕太は、平成生まれ(1989年5月24日誕生)で、めちゃくちゃ強い碁打ちという。

その強さは碁をしっかりと始めなければわからないだろうが、こういうニュースは楽しいね。
囲碁も将棋も現実とはちょいと離れた所にあるのが大変によろしい。

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2009年10月15日木曜日

棋士という世界に垣間見るもの

里美香奈、芳紀まさに十八歳

女流将棋界の新星であった里美香奈もすでにタイトルホルダーだが、いまでも上記のような表現の似合う娘である。
そして、思ってみるにこのような表現に似合うとなると勝負の世界の女性が一番ではなかろうか。

それは、実際の意味とはかけ離れたことになるのだろうが「芳紀」自体の字面が、ある種、気高さを感じさせるところによるのかもしれない。
もちろん、個人的な見解だ。

里美香奈に限らず、というよりは一部の若い青年棋士たち、特にかつての時代の青年棋士には特にそのような気高さがあった。
そしてその気高さは同時に残酷さを併せ持っていた。

己を辞して将棋にかける一途さにはそのような酷薄さが宿ってしまうのだろうと想像するしかあるまい。

早世した山田道美と若い日の天才加藤一二三の会話が山田の文章で残っている。
銀座の人並みの中での山田の問に対しての加藤の応答だ。

 この中に、真に生き、生きることに値する人は何人いるのかしらねーー

 いや、みんなムダ手だと思うナ

それだけの会話だが、この会話が彼らの心の底からの思いであることを考えれば恐ろしい。
このとき、加藤一二三は二十歳で、名人挑戦者になっていた。
一方、山田も打倒大山(大山康晴)に燃えていた。

ともに将棋に賭けていたのだ。
賭けていたからこそ銀座の群集の甘っちょろさが鼻についたのだろう。

けれども、人は甘っちょろさの中で生きていくのであって、彼らのような真剣の刃渡りのように生きはしない。
多くの人はそのように彼らと一線を画した世界に生きるのだ。

決して二つの世界が交わることはない。
交わることはないのだから、紹介した五十年も前になる若き二人の棋士の会話はじつは成り立ってはいない。

そこには心意気が転がっているだけだが、そのようにして生きた人がいることを知ってもいいだろうと思って紹介した。

それぞれの人がそれぞれの思いで生きている。
そこに生きようの差はあるが、それをとやかく言わずにそれぞれがそれぞれ思うように生きられたらいいと思う。

いまは外野がうるさすぎるようだ。
だれだって胸を張って生きているわけではないのだ、阿呆でなければの話だが…
静かに見守ってやればいいだけのことではないか。

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2009年10月14日水曜日

オバマの平和賞

ノーベル平和賞は基本的には政治的なものだからオバマがもらうことにそれほどの違和感はないが、この受賞を政治的と見なければ違和感は生じる。

情報がスムーズに流れていないときに違和感が生じるのはよくあることだが、問題は違和感からどのようにその原因へと目をやるかだろう。

たとえば、オバマの受賞はオバマ頑張れという政治的意思表示だと考えれば、自国の核も廃絶していない大統領への受賞決定もわかるだろう。

念のために言っておくが、これはオバマの平和賞受賞に対する批判ではなく情報量が少ないとえてして簡略に物事を判断してしまうことになり、本質から遠ざかるということをいっている。

彼の受賞はそのままアメリカの政治闘争であり、それがたくまずして核の廃絶への舵取りをしているということだろう。
確かに今のところオバマは平和賞に値する実績はないが、平和賞に値する口舌はあるというところか。

頑張れオバマ、自分の吐いた言葉に縛られながら、吼え続けてほしい。

そういえば、昨今急増する引ったくり被害だが、これも気をつけようなどという方向に持っていくのは本質的ではなく、何故こういう軽犯罪が増えているかを考えるべきだろう。

困っている母集団が多いから引ったくりが増えるので、おそらく引ったくりの起こる数は以前と同じように「経済的に困っている母集団 × 引ったくり発生率」で出せるはずである。

問題は、母集団の増加にあり、その皮相的対抗手段として引ったくり防止術という話がある。

まあ、引ったくりレベルで犯罪がとまっているうちがこの国の花だよな。

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寒くなりました

寒くなってきました。
インフルエンザが猛威を振るうころです。
どのような年の暮れになるのやら。

情報の流れがもう少し悪くて、今の日本で経済的に底辺の人間たちがどのように生きているのか知らない。
どのような悪条件でも、同じようなひとが周りにいれば生きていける。
そんな空間は出来ぬのだろうか。
そこが日本のどこであっても海外であってもかまわぬのだが…

孤独に都会の片隅で凍死するよりはいくらもいいだろう。

わたしたちの知らないところで何かが進行している。
薄気味の悪い話である。

小さな犯罪が多発するのは、社会矛盾の発露という意味もある。
老人の問題もある。
弱いところから始まるのはカナリアの話だけではない。

毎度のことであるが、寒くなり始めた今日この頃、貧困の共有を叫んでおきたい。

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2009年10月12日月曜日

不思議なもので…

暇つぶしには新しいものに限るというが、じつはそうでもない。

昔、つきあった女がいい場合もあるし、昔、好んで見た映画がいい場合もある。
もちろん、昔、そして今もころあいを見て読む小説がいいに決まっている。

思っているほど新しいということには魅力が存在しない。

だから、人は思い切って死ぬことも出来る。
新しい明日に絶望している証拠だ。

だからなんだ、と怒鳴らないでほしい。
わたしはそういう事実を書き連ねているだけで、あなたにそうしてくれとは言っていない。

あなたが怒るのは強制する輩に対してだ。
それが、大切だ、その見極めが。

ところで、暇つぶしに一番いいのは、いい作品だ。
それがどの分野であってもいい作品に尽きる。

新しさには、何の意味もない。
にもかかわらず人は新しさを求めるが、なんのためだろう。

おわかりのように、いいものを見つけるだけの眼を持たないからだ。
だから、騒々しいテレビにだまされてしまう。
あの品のないタレント軍に。

さて、なぜわたしがこのような攻撃的なブログを書いているかというと、ふと気づいたからだ。

不思議なことに、わたしまで新しいものがほしいと思っていた。
けれど、求めるものはすでにあったし、遭遇していた。

そういうわけで、何度も見た「トレーニングデイ」をまた今から見ようとしているわけだ。

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凶気の桜

この小説が書かれたのは10年も前になるが、今の渋谷はどうなっているのやら。
こういうことがさらに進行しているのならば、それがどういう方向であるとしても、現状と比べれば酒井法子なんぞかわいいものではないか。

もちろん法を犯したことはそれがどんなにマヌケな法であっても問題なのだが、それは法を犯したということに関してのことであって、覚せい剤や大麻については個別に考える必要があるだろう。
その結果、十把一絡げに論じることになったとすればそれでいいが、そういった考慮もなしに結論が決まっているのは魔女狩りのようなものだ。

少なくともマリファナは別格に論じるべきだとは思う。

さておき、この小説はヒキタクニオの処女作でその後のヒキタクニオが著書においてどのような活動をしたかをわたしはよくは知らないのだが、この本だけを取り出してみれば、切れ味がすぐれて印象的だ。
また小説に若者の暴走を書くとき、切れ味のよさがなければそれはその段階でその作品は失敗なのだろう。

威勢のよさは時と場合を選べば、何はさておき必要なときがある。

そういうことをこの小説は教えてくれる。
そうしてそれはそのままヒキタクニオの生き方でもあるのだろう。

一陣の風が吹き去ったような小説だった。

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書き手のコメント

篠田節子が垣根涼介の文庫解説を書いていたのを本屋で読んだ。
これがなかなかに深みがあった。
単なる読み手と書き手の作品に対する感想の違いを思わせるものだった。

ただ書いてさえいれば書き手になれるかというのはなかなかに大きな問題だが、おそらくそうではあるまい。
してみると、篠田節子はいつのまにか立派な書き手になっていたというわけだ。
こうして読んでみると読んでだけいる人の解説とは一味違ってくるところがおもしろい。

談志の演芸評論にも時として暖かいまなざしが登場してきてどきりとさせられるところがある。
単に受け取るだけではなかなかそこまではいかない。

そうしてみると目黒考二などは驚くべきものだ。
あれは量がいつしか質に転化した好例だろう。
本を好きであるというたった一つのことが彼をあそこまで持っていった。

これもまたすがすがしいことだ。

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2009年10月11日日曜日

小三治のまくら

知人から見知らぬある人と飲んだ話を聞いた。
その人が落語ファンで、一過言ある人だったという。

一過言とは今の落語家では小三治が一番だろうが、小三治のまくらは問題だといったようなことらしい。

小三治のまくらはじつに個性的で、場合によってはまくらだけで終わるときもある。
そうでなくてもやたら長い。

小三治師匠はそういう雑談が好きなのだ。(その雑談が見事に芸になっている。でなきゃ、本にならないわね「ま・く・ら」「もひとつま・く・ら」…おもしろいよ)
それを好む客は多くいるが、なるほど嫌いな人もいるのかと知人の話に感心した。

けれどもそれは個人の好みで客観的な評価にはつながらない。
落語を愛する人に好みはあるが、それを他人に押し付けてはいけません。
もちろん逆もそうで、小三治の噺よりまくらのほうがすばらしいもいけません。

小三治を話すのであれば、わたしは小三治のまくらが好きだな、とか高座でせんじ薬をすするしぐさが好きだな、という風にあくまでも自分の好みの世界に引き寄せておしまいにしたいものです。

じつは、わたしもまたいまは小三治の時代だと思っているですが、鼻につく談志も最高級のセンスを持っているのも知っている。
知っているから談志を否定はしない。
今年はもう談志は落語をしないと宣言しているが、はてさて来年はどうか。

どちらに転んでも談志は長くはないから一度くらいは頑張って聞いてみるのもいい。
もちろん聞かなくても大勢に影響はない。

今は落語も多くCDやDVD化されている。
気が向けば聞いたり見たり出来るし、寄席に足を運ぶのもいいだろう。

けれども、落語を聴かない人生がつまらないかといえばそうとも言えはしまい。
落語がそうであるようにクラシックなしでもロックなしでも山登りなしでも絵を描くことなしでも人は生きていける。

問題はそれでは少し寂しいではないかというところであって、もし少し寂しいのなら何かと付き合うというのは一つの手ではあると思う。
もちろんそれが落語であってなんら問題はない。
どんな聞き方であってもね。

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湊かなえ「告白」


湊かなえ「告白」は、三人称多視点の佳品である。
三人称多視点の作品は、あまり多くはないが、質の高いものに出来上がることが多い。
それは、安易な登場人物と読者の同化を避けているところから来るのだろうと思うが、それだけではないかもしれない。
むしろこの世の中がそのような多くの解釈の目にさらされて出来上がっていることを如実に描きだすことにある種の感動を覚えやすいせいかもしれない。
眼前に存在するだろうと思っている事象は、わたしがそのように解釈しているだけのことで、じつは手前勝手なものなのだなあという感慨をおびき寄せるようになっていることをわたしは言おうとしている。
それはさておき、「告白」はそれぞれの視点がそれぞれの告白という形式になっているところが興味深く、さらにそれぞれの告白が他の視点が産み出す物語に対して決定的な謎解きではなくいくばくかの齟齬を産み出していくだけというところに小説の進行を頼っている。
その寡黙さにこの小説の品のよさが感じられる。
要は、劇的な要素が小出しになっているわけだ。
ところで、暇つぶしに手に取るならば東野圭吾の「悪意」も歪ながら三人称多視点になっているが、こちらは劇的なラストを向かえる。
その単純な構成が、読者に安心をもたらす読後感を与える。
大きな感動や芸術的手腕はいらない。
お暇ならどうぞというところがこの男(東野圭吾)にはある。
それが東野氏の優れた点である。
小説なんぞ、たかが暇つぶしではないか。
そういう作者がいてもいいではないか。
もちろんそうでない作者がいてもいいのは無論のことである。

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獣の奏者~とんだ勘違い


以前「獣の奏者」の新作がないようなことをこのブログに書いておりましたが、それは大嘘。
まったくもって情けない次第であります。
「獣の奏者」は青い鳥文庫ですでに文庫となっており、わたしはそちらのほうを見ていたものですから、あらまあ、新作は出ておらんのじゃわいと思ってしまったのですが、そうではありませんでした。
今年になって探求編、完結編が出たのでありました。
まあ、いらんと言えばいらんような続編ですが、その辺は著者がどうしてこのようなものを書いたかということを語っておりますので現物の本でご確認ください。
間違った情報をお知らせしたことをここにお詫びいたします。
なお佐藤多佳子とは「一瞬の風になれ」のあの佐藤多佳子です。
そういえば、佐藤さんと上橋さんは作品作りを大切にしていく丁寧さに共通点がありますね。

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2009年10月10日土曜日

会社を辞める

知人が会社を辞めてしまった。
あと10年は食いつなげられる会社だったのだが、愉快でなくなったらしい。

自分を保つためには会社の縛りはきつすぎることもある。
けれどもそれが止めるほどのものであるかどうか。

生き難い社会にすればするほど、必然として人は我慢しながら会社に勤しむ。
社会も平穏に流れていく。

それで…

それでいいのだ。
いいのだが、それを受け入れ続けることが出来なくなってしまう人もいる。
そして、そういう人間たちを受け入れる仕組みをいまの社会は持たない。

勝手に止めて勝手に苦しみ勝ってに死ねというわけだ。
止めていったほうはそれでも何とか生きぬく法を求める。

あれば幸せだと思う。

正直に生きるのはなかなかに厳しいものだ。
けれど正直以外に生きていく姿はあるのだろうか。

「おまえはもうすでに死んでいる」
そんなセリフがマンガにあった。

このセリフに該当する人間も多いだろうに…

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2009年10月9日金曜日

安楽死法案

ぼちぼち本気になって国も考え出してきているらしい。

この国に養える人間の数がどれくらいいるのだろうか?

それはそれでいいだろう。
けれども誰を安楽死させるかの決定権を国が握ってしまうのは恐ろしかろう。
このポイントだけは十全なる討議が必要だ。
そこには、現状認識が欠かせないし、本人の意思もいる。

この国の人口をさらに下げるためには、もっともこの場合の人口とは老齢化した人々の人口だが、どうしたらよいのか。

人は独立して生きてはいないから人間関係の問題は必ず生じるだろうし、生きてしなければならないものを持っている人から生を奪うのは生だけではないものを奪うことも含まれる。

ただ長生きするだけが正義ではないと書き綴ってはきているわたしだが、国が安楽死法案を模索し始めた今日この頃は、わたしの想像以上の犯罪がそこに渦巻いているような気がする。

もちろん医者不足がそこに大きく関係していくのだろうとは想像がつくのだが…

あなおそろしや!

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映画にしたって演芸にしたって

評論家と呼ばれる人種は基本的に多くのものを見ているところに存在価値は生じる。
映画評論家がそうだし、演芸評論家がそうだ。
もっと言えば、小説評論家(書評家?)がそうだし、食の評論家がそうだ。

けれどもそこでは終わらない。
その先に本物はいる。
本物はいるが、それにしてみてもやはり多くのものを経験しているに越したことはなかろう。

小林信彦という目利きがいるが、彼は驚くほどの映画や小説や演芸を見聞きしてきており、実にそれを丹念にメモしている。
そして、それを元に彼の文章を起こすのだが、この文章の秀逸さは彼の情報量を凌駕する。
だからといって、情報量が必要ないかといえばそういう話には決してならない。

情報あっての小林信彦の技量だ。

色川武大の情報との付き合い方はちょっと違う。
乱雑に映画を見、演芸に接し、ジャズを聞きながら自分の世界を構築していく。
細やかに整理はされてはいないが、やはり情報は彼の周りにある。

では、正岡子規はどうかとなると、これは難しい。
「病状六尺」で象徴されるように現実生活での彼の情報収集能力は少ない。
その分、多くの歌に接したのだろう。
ここでも接した歌の量という情報量が横たわっていると考えるべきであろう。

もっと単純に書いてしまえば、何かを論じるときにその対象を知りたくなるのが常であり、その知りたくなる心が情報量を呼ぶ。
呼んでしまった情報をどう扱うかはその人の品によるもので、ここにその人と作品との密接なかかわりが生じる。

人の品はどうやっても作り出すことは出来ないが、だからといってここに創作の秘密があるばかりではない。
むしろ、軽視されがちなその人独特の情報処理のされ方の中に創作の秘密はあるかもしれない。

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書くことにおいてさえ

情報の重要さというのはあらゆるところに響いてくる。

たとえば、書くことにおいてもそうである。
鉄道のことをやたら知っており、それを文章の道へとつなげた宮脇俊三という人がある。
この人が書くことにおいても優れたものをもっているのはもちろんのことなのだが、やはり鉄道に関するあれだけの情報量がなければああいった書き手にはなれなかったろう。

新田次郎の山に関してもその経歴が大きくものを言っただろう。
そのあとに彼の各小説における情報調べがついてくる。

司馬遼太郎の資料集めも有名な話だし、彼の小説を読むと歴史の現場を尋ねていくシーンが書き連ねられているのを目にする。
彼は、歴史の場所がいまはどうかをその目で確かめに行くのだ。
これだとて情報に対する細やかさがそうさせている。

佐野真一も私淑する宮本常市に習いその足で対象をこれでもかというほど追っていく。
それはある人物に対するとき、その周りの人々の取材や資料に対する貪欲な取り組みに見える。
それがあっての佐野真一の作品群だ。

書き手は決して小手先の器用さで書いているのではない。
それの何層倍かたゆむことなくよく調べ、調査している。

情報が大事であるというのはそういう意味であって、そのような作業のうえにほんのわずかな想像力が舞い降りると書いても大きな間違いではないだろう。

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あっという間に過ぎ去っていった

今回の台風はあっという間に過ぎ去って行った感が強いが、これは情報量によるのかもしれない。
二三日前からの台風一色のテレビ・ラジオ報道が強烈だった。

情報がイメージを変えるとはこのことかもしれない。
わけのわからない台風だったらずいぶん不安だったのかもしれない。

見知らぬ道を歩いていくことの多かった人間にとって情報を持つということは大きな力だったろう。
それは山を生業としたきこりや熊撃ちやきのこ取りにしてからがそうだったろう。

いまの世の中の不透明さは、経験ではなく構造が情報の偏りをもたらしていることから来るものかもしれない。
ただ、構造であっても経験であっても情報のもたらすアドバンテージは、果てしなく大きい。
情報のない者の無力感は情報に振り回されている間はとどまらない。

もし、情報に背を向ければ、それが異端の生き方であったとしても道は開けるかもしれない。

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2009年10月8日木曜日

規模

いつもそこには規模の問題が横たわっている。

景気の問題も家族の問題も環境の問題も…、すべてはじめてぶち当たる問題だ。

なぜかといえばこれだけの人口の規模をわれわれは体験していないからだ。
これだけの数の人間が生きていくためにはどうしたらよいのか。
それより何よりこれだけの人間が果たして生きていけるのか。

もし、生きていけたとしてその生き方はまっとうなものなのだろうか?
そういうことが、利益優先がいまの家族を作ったというあの亀井発言の裏にある。

この規模を維持するために最後に放棄するものが人間の命であるとするならば、その前に人は豊かであることを放棄しなければならないかもしれない。
すべての人が同じように豊かでなくなれば人にそれほどの苦痛は生じない。
それは戦後復興期の庶民の暮らしを見てみればわかる。

問題は、この規模が成長と足並みを同じくしたことで、一度も退歩しなかったことにある。

もう一度規模の問題をわれわれは考えなければならない。
そのときに成長神話を壊す覚悟も必要だろう。

わたしたちの身の回りを眺めるとき、よく考えてみればたいていのものが必要ないことに驚く。
必要があると思うのはそのようにおだてあげられ、人々がそれらの無用のものを持つようになったからで、周りに遅れをとらぬように人は人を追いかけた。

けれどもそこに自分がいたかどうかは定かではない。

規模の問題として問題を捉えなおすとき、直面している事態が人類史上初めてだとわかる。
新しい思想が必要となっているのかもしれない。

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2009年10月6日火曜日

枝雀がなくなって10年が立つ


「YOU TUBE」などで桂枝雀をみていると、あの人が自死したわけが少し胸に響くときがある。


彼を見ていると、死と生がそれほど遠い距離を隔てて対峙していないことがわかる。

むしろ、そばに寄り添っているようにも見える。

あるいは内包しているようにも見える。


その内包は、生が死をか、死が生をか、入れ替わり立ち代り場を変える。

そういう姿にはっきり見えるのは、そういう風に生の周りを死が飛び交う人生の演出者であった枝雀がとりわけ一生懸命の人であったということだ。


一生懸命には死の薫りがまとわりつく。

何事もないがしろにしないからだろう。


そのないがしろにしなかったことが枝雀の話の中心部に宿る。

それが笑いにつながっていく。


笑いもまた死の一変形だろう。

どうして枝雀の映像にはあのように死がまとわりつくのだろうか。

それは彼が自死してしまったという事実がそうさせている部分もあるのだろうが、それだけではあるまい。


一生懸命さが隠しているように見えるが、それだけでは十分に彼に寄り添う死は隠れないのだ。

彼もまた、どこかに生きるに値しない自分を見ていたのだろう。


幸か不幸かといっておこう。

必ずしも不幸ではないと、わたしは思うからであ。

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市場に二兆円

その市場が二兆円規模であるかどうかがその業界の存亡の目安だといわれている。

草思社の倒産の話が出るようになったからには、出版不況も来るところまで来たということだろうが、この出版業界が二兆円規模を切ったといわれている。
次々と新刊を出版することで逃れてきた業界破綻の自体がすぐそばまで来ているということだ。

それはそうだろう。
これだけインターネットばやりの世の中でメディアがいつまでも紙媒体にしがみついているとは思われない。

けれども、紙媒体がなくなるとも思えない。
何かの形で紙媒体は残っていくと思う。
そうは思うが、業界としては成り立たないのだろう。

一つの時代が、こういう方向から見ても過ぎ去るのが見える。

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この世に認められているならば…

この世に認められているならば…というのは喰っていけるようになっているのならというほどの意味であるが、そうなれば話は変わってくる。

それは、イチローがそうであるように井上 雄彦がそうであるようにだ。
この二人の表情が酷似していることはよく言われている。
どちらも求道者の顔をしているというわけだ。

野球にしてもマンガにしても浸るべき対象に大きな差はない。
そこに自分の場所を見出し、挙句の果てに逃げ出せなくなってしまったものが何かを見る目をしている。

彼らの幸せは、すでに世に認められ喰うことにあくせくしなくなっているということだ。
喰うことに困っているのなら求道者も何もあったものではない。
(いやいや、正確には喰っていけない中で求道者であった、そういう人たちもいたのだ。それはそれとして大きな話だし、立派な話だ)

野球を生きる「バガボンド」を生きると言いなおしてみようか。
先の二人はともにこのような生き方をしている。
そして、その生き方に自分を見据えている。
そこに他者の視線を多く期待しない。

もっと言ってしまえば、すでに彼ら自身の中に他者の視線が存在するのだ。
そのときかれらはどのように生きているのか。

それが、わたしが持つ一つの問題意識だ。

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2009年10月3日土曜日

絢香


絢香の歌が最近とめどなくテレビジョンから流れる。
子供が産まれることと厄介な病気になったことぐらいしかわからないのだが、彼女はしばらく歌を止めるらしい。

それにしてもいい歌い手だ。

こちらの心のしんどいときは、刺激のある歌など聴きたくないものだし、彼女の歌もじっくりと聴くことはないのだが、それでもいい歌手なんだろうとは思えてくる。
言い声にいいメロディーを乗せている。

さて、さっき書いたことは問題で、人は気が落ちていってしまったとき、雑音は聞きたくない。
けれども、雑音の中に本物が混じることもある。

そういう体験を絢香という歌手がさせてくれた。
あいつは本物だ。

本物であるが故の憂いがある。

バセドー病の直ったあかつきには、そしてそのころわたしが立直っているのなら、もう一度あなたの歌が聞いてみたい。

そんなことを久しぶりに思った。

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クリシエ

クリシエ。

ときに耳にする言葉であるが、なかなかに深い。
クリシエはフランス語で、決まり文句、紋切り型、常套句と理解していればそれだけでいいものだが、それらのものがTPOに従って変化するから厄介だ。

あのひとの「愛している」はクリシエじゃないけど、ほかのひとの「愛している」はクリシエだ。
と、こうなる。

クリシエである言葉が存在するわけではないのだ。
使い手がそれを決めていく。

少しだけ詩のことを考えた。

そのときに音楽つきの詩と、詩そのままが屹立する詩を思った。
これは、もう鼻から話が違う。
クリシエのありようも違う。

「愛している」という歌い方で、メロディーラインでそれがクリシエに落ちぶれるか、すっくと立ち上がるかが変わってくる。
そういうところにクリシエはある。

さはさりながら、クリシエを意識するのは大事なことだ。

ところで、オレがおまえに吐いた愛の言葉の中にクリシエは存在していたのだろうか。
だとすれば、オレの心の誠実さとクリシエがたとえ遠い距離にあったとしても何の保証もされていないのだなあ。
一生懸命思っても陳腐は陳腐、イヤはイヤ。

「クリシエ」とひと言に言ってはみるものの、決まり文句と卑下する気持ちが正当に働く人間は少ない。

まあ、なかなかに詩は大変だということだ、Kくん。

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2009年10月2日金曜日

朝青龍、また責められる


わたしが調子を崩していたときに、またもや優勝決定戦での勝利後のガッツポーズで朝青龍が責められていた。

ガッツポーズを土俵上でやってはいけないそうな。
これをもって喧々諤々。

マスコミは視聴率が取れれば、なんでもいいらしい。
朝青龍が横綱に昇進するのは2003年の1月だった。

彼が、横綱になった3番目の外国人力士だ。
(最初が曙太郎、2番目が武蔵丸だ)

曙太郎は1993年の3月に横綱になったのだが、その時点で相撲の日本古来の神事や祭りである要素が揺らいだ。

それを崩壊させたのが朝青龍である。
この意味で朝青龍は革命的な相撲取りであり、このようなストーリーを自ら作り出しておきながら、いまさらながら彼を批判しているのが横審であり、相撲界である。
曙の前に小錦という相撲取りがいて、彼は1991年11月場所13勝2敗で優勝し、翌1992年1月場所は12勝3敗、さらに次の3月場所は13勝2敗で優勝としたが、この成績でも横綱にさせてもらえなかった。
ここまでが、相撲を伝統文化として守った矜持のぎりぎりだった。

もちろん、現在の大相撲においても、横綱は、全ての力士の代表する存在であると同時に、依り代であることのとされているが、それには日本人でなければならないという大きな垣根があるだろう。

日本人という垣根を取り払い、神の依り代として横綱を扱うのならば、外国人に横綱を渡すのはきわめて危険である。

もちろん、スポーツならばそのかぎりではない。
柔道はその点で、見事な日和見をした。

というわけで、このブログは、もうずいぶん前から神事としての相撲の要素を放棄しておきながら、いまだにグダグダいっている相撲界とはなんと阿呆な輩の集まりかという嘆きをここで見せてみただけのことである。
もう、かつての相撲は終わってしまったのだよ。
それを完全に終わらせたのが、朝青龍であり、彼にそうさせたのがキミたち相撲界なのだよ。

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第50期王位戦終わる

将棋の第50期王位戦7番勝負の最終局、第7局は30日午後6時52分、先手の深浦康市王位(37)が125手で木村一基八段(36)を下し、4勝3敗でタイトルを防衛、3連覇を果たした。

深浦は第1局から3連敗でかど番に追い込まれたが、第4局から巻き返して4連勝した。 

将棋の7大タイトル戦で3連敗後に4連勝の大逆転は、昨年度の第21期竜王戦で渡辺明竜王が達成したのに続いて史上2度目で、王位戦では初めて。

おもしろいものである。

男子100メートル競走における10秒というタイムがそうだった。

10秒の壁は1968年にカリフォルニア州サクラメントで行われた全米選手権でジム・ハインズにより史上初めて破られることになる。

それ以降は、10秒は壁ではなくなってしまった。
以降の歴史は皆さんご存知の通りであり、それが、ウサイン・ボルトまで続く。

10秒の壁は時計の中ではなく、すぐれて、走る選手の脳の中に刻み込まれていたのだった。

将棋界における3連敗後の4連勝もこれに近いものがあり、昨年、渡辺明竜王が達成したと思ったら今期は深浦王位がこれを成し遂げた。

もし、渡辺が成し遂げていなければ今期の王位戦のゆくえはわからなかっただろう。
めぐり合わせとはおもしろいものである。

おもしろくないのは木村一基だが、彼なら何とかするかもしれない。
彼には彼のめぐり合わせがあるのだから。

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